goo blog サービス終了のお知らせ 

聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2019/12/29 レビ記19章1~4節「親と安息」 ニュー・シティ・カテキズム10

2019-12-29 16:10:45 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/12/29 レビ記19章1~4節「親と安息」             ニュー・シティ・カテキズム10

 「ニュー・シティ・カテキズム」では、十戒からお話しをしています。今日は、第四戒と第五戒をまとめてお話する、第十問です。十戒の第四戒は
「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」
第五戒は
「あなたの父と母を敬え」
です。「安息日」とは、一週間の七日目のことで、その日は丸一日、休むよう求められていました。十戒の中に、何かをしなければならない、という戒めがあるのは分かりますが、何もせず、休みなさい、と命じる戒めがあることはとても興味深いことです。また、「あなたの父と母を敬え」は「殺してはならない」よりも先に来る、両親を敬え、という戒めです。
第十問 神は、第四、第五戒に何を求めていますか?
答 第四戒は、安息日に私たちが公的に、そして私的に神を礼拝し、日々の労働から休み、主と人に仕え、そして永遠の安息を期待すること。第五戒は、私たちの父と母を愛し、敬い、彼らの敬虔なしつけと指示に従うことです。
 安息日は、公的に(教会などに集まって、他の人たちと一緒に)礼拝する。そこから今日、私たちは日曜日に礼拝に集まっています。これは「クリスチャンは日曜日に教会に行って、礼拝をしなければならない」ということではありません。その逆に、神を礼拝する時、私たちは毎日の仕事から解放されます。神を忘れた生活だと、自分が何かをしなければ、という声に外からも内側からもいつも駆り立てられています。人からの評価や承認をいつも追いかけて、一喜一憂してしまいます。神を信頼することを忘れて、自分が何かしなければ世界が壊れるかのように思い込まされています。だからこそ、教会に来て一緒に礼拝をすること、また、一日を聖なる安息の日として過ごす時、私たちは世界の造り主であり、私たちの天の父である神に気づかされて、大きく息をつくことが出来るのです。特に、旧約の時代は、安息日は土曜日でしたが、新約になって、教会は日曜日に集まるようになりました。それは、イエスが復活したのが、土曜日ではなく、日曜日だからです。イエスが私たちのためによみがえってくださいました。私たちを愛するイエスが、十字架に命を捧げて、よみがえって、私たちの救い、将来の安息も果たしてくださいました。まだ朝の暗いうちに、弟子たちが信じていない時に、私たちがイエスを知るより前に、イエスは先駆けて、私たちのために命を捧げて下さったのです。この事を覚えるのが、復活の日曜日の礼拝です。それは、私たちが自分であくせくすることを止めて、神を礼拝し、労働から休み、主と人に仕え、そして永遠の安息を期待する、解放の日なのです。安息日は、私たちの信仰を、身体で具体的に覚えさせてくれる戒めです。一見、形式的な戒めですが、実に私たちの神理解、世界観を造りもし、私たちの仕事、人との関わり、時間の使い方など、道徳的な生き方の土台となる戒めです。
 次の
「父と母を敬え」
は、お父さんとお母さんを敬う心、大切に思う心を求めます。それは、お父さんとお母さんの言うことを何でも聴きなさいという事ではありません。
「彼らの敬虔なしつけと指示に従うこと」
とありますが、「敬虔な」とは神への信仰に叶った、という意味です。もしも親が、泥棒をせよとか、嘘をつけと言ったり、ひどい体罰や虐待をしたりしても、それでも親の言うことを聞かなければならない、ということではありません。親が、神を恐れず、神への敬虔を失っているなら、従わないで、自分を守って下さい。親を怖がったまま、従え、とは神は言いません。それは「敬う」ことでさえないのです。神が求めているのは、親を敬う心の回復なのです。
 二つとも神が私たちに命じている戒めです。でも、この二つは全然別の事を言っているようにも思います。安息日と父と母を敬う? どう結びつくのでしょう。今日の
3それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
 ここには第四戒と第五戒が並んで出て来ますね。しかも、順番が逆さまです。ここでは第四戒の安息日が後になっています。その上
「父と母」
ではなく
「母と父」
とひっくり返しています。こういう書き方は聖書の書かれたヘブル語の技法で、安息日と親を敬うことが強く結びついていることを示しています。しかも、母と父を「敬う」よりも強く
「恐れる」
という言い方をしています。聖書は、神を恐れよ、神だけを恐れよ、というのに、ここだけ
「父と母を恐れよ」
というのです。
 このレビ記19章は「聖潔律法」と言われて、神が聖であるように神の民も聖となれと言われています。その中で、18節に有名な
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
という言葉が出て来ます。神の民として、心から聖い生き方をする。それはどういうことかを学ぶ、大切な部分です。そしてその最初が、この「父と母を敬え」と「安息日を守れ」の二つなのです。これは大変意味深長です。
 第一戒から第三戒は、神の他に神々を持たない、偶像や自分のイメージで神を考えない、神の御名をみだりに唱えない、でした。目には見えない神との関係でした。それがこの第四戒で、一週間の過ごし方、第五戒で、自分を生んだり育てたりしてくれる親との関係、という身近な戒めになります。今よりも聖書の時代は家族の絆、大家族での生活が当たり前だった時代です。安息日も家族ぐるみで守ったでしょう。そして、家族だからこそ、衝突したりぶつかったりもあったはず。そこで、神が親との関係を心に留めてくださっている、という戒めは、とても大きな意味をもったことは十分想像できます。安息日も、時間の過ごし方で、神を忘れてしまいやすい私たちが、本当に何を神にしているのか、自分が働き過ぎていないか、休みやゆったり過ごすことのほうが大事ではないか、と自分中心から解放される。恵みに満ちた具体的指針です。
 さて、これは
「あなたの父と母を敬え」
です。親がわが子に「自分を敬い、従えと命じよ」ではありません。親は子どもを愛せよ、です。わが子が敬いやすいように、自分を整え、子どもを尊敬し、その関係を難しくしている問題を丁寧に取り除くべきです。何より、親も又、自分の親を敬い、親への複雑な思いを主に取り扱ってもらいましょう。その心からの姿こそ、自分の子どもに見せて上げられる、尊敬への道なのです。

「命を与える父よ。私たちはあなたの道を歩むなら、何をしても栄えます。創造主であるあなたが、人には安息が必要であることを教えておられます。ただ、闇雲に働くことで自分を確立させようとしないようにお守りください。また、私たちの父と母を敬う、謙った心が与えられますように。どうか、自分自身の考えではなく、あなたの戒めに従って歩むことができるように助けてください。アーメン」

2019/12/29 マタイ伝6章1~4節「隠れたところで見ている神」

2019-12-29 15:49:15 | マタイの福音書講解
2019/12/29 マタイ伝6章1~4節「隠れたところで見ている神」

 マタイの福音書を読み進めてきて、今日から6章に聴いていきます。5章の結びが一つの山場でしたので、6章から語り口が変わります。1節
「人に見せるために人前で善行をしない」
で欄外注で「直訳、自分の義を行わないように」とあります[1]。5章の17節から最後まで「義」、神の前に正しい生き方のことが語られてきました。当時の宗教家たちが教える「義」よりもまさる義をあなたがたの義とせよ、と語られてきました。それが
「まず神の国と神の義を求めなさい」
に続く[2]、この山上の説教、マタイの福音書そのものの、大事なテーマです。「義」という主題は、変わりません。そしてそれを
「人に見せるためにしない」
と強く言われ、具体的に施しと祈りと断食という三つの事が語られます[3]。イエスはここで「人に見せるためにするな」という禁止するだけではありません。むしろ、そのことを入口として、もっと自由な、驚くほど喜びに満ちた、新しい在り方を示してくれるのです。
2ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。…
 この「偽善者」の施しが、実際に会堂や通りで行われて、そのたびに自分の前でラッパを吹くようなことだったのかどうかは、諸説があります。まさか、そこまであからさまではなかったとも言われます。あるいは、旧約の律法には、「ラッパの祭り」というのが毎年あるのです。第七の月の1日目に角笛を吹き鳴らす。それは、第七の月が特別な月だったからです。第七の月の十日には「大贖罪の日」という、大祭司が至聖所に入ってささげ物を備える年に一度の日があり、十五日から一週間は「仮庵の祭り」という喜びのお祭りがありました。その始まりを告げるのが、ラッパの祭り、というお休みでした。特に、貧しい人、施しを必要とする人にとってラッパは解放を告げる音でした。神の憐れみ、解放を告げるのがラッパの響きです[4]。しかしここでは、偽善者が自分の施しという憐れみを通して、神の憐れみへの賛美ではなく、自分への尊敬を得ようと企んでいます。ラッパはその皮肉かもしれません。
 しかしラッパは吹かなくても、今でもお寺や神社や大事業の後には、喜捨をした方の名前と寄附金額が大きく石柱になっていたり、様々な形で大書されたりしています。控え目にしたことでもお返しやお礼がないと、不平を鳴らす人がいます。ラッパとは違う形でも、施しや献金が、自分が誉められるため、有名になったり尊敬されたりするため、の手段になってしまうことがあります。それは善行を装った、自分の得、利益のための「偽善」です。
 良い行いがいけないのではありません。
「…あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」[5]
 神は私たちを良い業に生きるように強めてくださいます。でも、ここでは神が崇められる(誉められる)ためではなく、自分が人にほめてもらおう(崇められよう)という、実に思い上がった計算がある[6]。そんな動機に動かされてしまう私たちです。それなら、
…まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
 人に見せたくてした行為は、すでに人に見られた時点で報いを受けている[7]。そこで目的を果たして終わってしまう。それが「悪い」という以上に、「もう報いは受けて、終わっている」。
「まことに(アーメン)あなたがたに言います」
と強く念を押して、勿体ないではないか、と仰る。しかし、人から誉めてもらおう、人から立派だと思われたい、という動機に私たちは流されやすいものです。人がどう見ているか、が気になります。それは、私たちの自信のなさ、自己肯定感の弱さ、このままで十分ではない、という虚しさ、恐れの裏返しかもしれません。「人からの称賛など要りません。わざわざ善人の真似を人前で演じなくても、私は私」と思えたらいいのに、そうは思わない[8]。それは自分の精神の弱さという以上に、当時も今も社会の中にも、教会の中にさえも蔓延している、神の恵みに信頼しきれない考え方です。そこでイエスは言います。
3あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
 これは文字通りには到底出来ません。周りの人に見せるどころか、自分でも自分のしたことを忘れてしまう、ということでしょう[9]。自分がしたことを忘れる[10]。確かにマタイ25章の「羊と山羊の譬え」では、終わりの日には何をしたか、覚えていないことが裁きの基準とされています。
「いつそんなことをしましたか」
と記憶にないこと、無意識でしたことこそ、最終的な評価になる。そのことにも通じる言葉です[11]。でもその続きは、もっと驚く言葉です。
4あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
 隠れた所で見ておられるあなたの父。1節や他では
「天におられるあなたがたの父」
と言っているのに、ここでは
「隠れたところにおられる父」
と言われます。神は天にいて、地上の事など上面しか見ていない、と思ったら大間違いで、天の下にある総てのことを、何一つ隠れるものはなく、ご存じです。私たちの心の奥までも。でも、私たちの心にあるのは何でしょうか。施しや善行、義を行いながらも、実は、人に見せたい、自分が誉められたい、という偽善です。神が隠れた所で見ているなら、自分はもう恥ずかしくて、生きていけないと思いそうです。しかし、イエスはそうは責めません。隠れた所を見ている神が私たちに報いてくださる、というのです。私たちの偽善や、隠れた罪の本性も周知の筈なのに、神が報いてくださると期待させるのです。
 だからこそ、人からの称賛なんて報いでは勿体ない。私たちの偽善も、自信のなさも、ご存じの神がなお私たちの「父」でいてくださる。その神の子どもとされた幸いにまだ飽き足らず、人からほめられようとしてしまう私の隠れた心もご存じである神が、なお私たちを施しや善い業に報いると励ましてくださる[12]。自分の不足感を補うために奉仕や善い行いをするのではなく、自分の過去も心の裏の裏まで全部ご存じの神の前に生きればよい[13]。私たちのなした手垢だらけの行いも、
「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
と神は誉めて喜んでくださる[14]。神が私の行いを喜ばれ、私を喜ばれ、一緒に喜ぼうと神が言ってくださる。喜ばれ、喜ばせ、喜ぶ。これこそ何よりの報いです。この喜びを、神は報いてくださるのです。
 「ラッパの祭り」は安息を告げる祭りでした。更に七年毎に「安息の年」が、その七倍の四九年毎には「ヨベルの年」がありました。それは角笛が吹き鳴らされて始まり、借金の形(かた)に差し押さえられた土地も元の持ち主の手に戻り、奴隷も解放される年です。あらゆる束縛や負い目から解放されて、喜ぶ祭りの始まりです。それは、神の解放のご計画を現していました。人の心に隠れる虚しさやプレッシャー、劣等感や妬み、偽善や恥の意識から、完全に解放してくださいます。そのために、神ご自身が負債を支払って、買い戻してくださるのです。ここで語っているイエス・キリストご自身が、人の罪も隠れた所の悪意もすべてご存じで、しかしそれを断罪するより、その報いである罰を私たちの代わりに既に受けて、むしろ神が私たちの良い行いに報いて下さると励ましてくださったのです。聖書のラッパは、その全き解放の前奏です。
 新年を迎える今日、イエス・キリストが既に「新しい年」を始めてくださったことを歌いましょう。今尚、偽善や虚栄によろめいてしまうとしても、そのような弱さも心の奥もすべてご存じの神が、なお私たちを解放してくださると約束し、報いてくださる、と言われています。自分のためにラッパを吹こうとするのでなく、主の憐れみと私たちの心からの解放を告げ知らせるラッパが世界に響く日が来ると信じて、私たちの業も心も、痛みもお捧げしましょう。

「主よ。この一年もともにいて、隠れた所ですべてを見ておられた主よ。全てをご存じのあなたが、私たちの醜い罪の罰を御子イエスに負わせ、あなたの美しい愛の中に受け入れ、励まし、栄光を現してくださることを感謝します。あなたの憐れみで私たちを包んでください。私たちを偽善から強いてでも救い出してください。私たちの罪や弱さ、ささやかな願い、私たちの営みの全てを、あなたの憐れみと栄光を告げ知らせる、喜びの角笛の響きに加えてください。」


[1] 「善行」ディカイオシュネー。5:6、10、20、6:33と続く、山上の説教の主要テーマ。

[2] 6章33節。

[3] 6章1節の冒頭には、接続詞δὲがあり、前節との連続性が明示されています。それは、もはや自分を義としようとしない、見られることを求めず、神に向かう生き方そのものの「義」です。人に見せるために善行を行うことは、実質的に、信仰による神の義を受けようとするのではなく(それだけでは足りないとして?)自分の行為によって自己義を立てようとする不信仰です。パリサイ人や律法学者にまさる義とは、神の前に生きる義であり、人の前に、人との比較の基準ではなく、見えない神の前に-完全な義を生きて、私たちの隠れたところを見ている神の前に-生きる義なのです。

[4] 「ラッパを吹き鳴らす」 ユダヤの「ラッパの祭り」や「安息年」「ヨベルの年」レビ記23章23-42節、25章、民数記29章1節、出エジプト記21章1-6節など。負債の解放のラッパが、金持ちたちには善行の計算になったろう。

[5] 5章16節。

[6] 「ほめてもらおうと」 ドクサゾー。5:16、父をあがめる、と言われていたのに、自分をドクサゾーすることが目的に。9:8、15:31「神をあがめた」

[7] 「報い」 5:12、16、6:1、2、5、16、10:41、42、20:8。「報いを望まで人に与えよ」という歌(賛美歌536番)もありますが、イエスは「報い」をハッキリと仰います。あの賛美歌も「水の上に落ちて流れし種も何処の岸にか生い立つものを」と、自分のしたことの報いが将来にあることで励ましているのです。

[8] とはいえ、人に見せるためにしない、というのはとても難しいことです。見られることを意識して、どう見られるかを考えます。考えていないと言っていても、人からほめられれば嬉しいし、ケチを付けるような事を言われたら腹が立つものです。それを意識するな、と言われれば、ますます難しくなります。

[9] 単純に文字通りとしては、「隠れた」思いは次の手を使うでしょう。右手のしていることを隠している事自体を自慢することがあります。それを人にではなく、自分に誇ることもあるでしょう。また、自分のしてきたことを自分の善行として、他者からの評価・報いを求めていることがあります。それは、地上で報いを求めることであって、神の報いは得られないのですが…。教会の中で、「お返し」を求める生き方をしない。「お返し」を礼儀とする文化を教会に持たない、ということも大事だと思っています。

[10] 「右の手」には、単なる左右ではない、「義の業」のニュアンスがあります。ここから、マルチン・ルターは「右の手の罪」(義を装った自己中心)という言い方をしています。カンタベリーの大司教の言葉「恩寵とは自分を忘れること、自分を笑うことの出来る人間になることである」が思い出されます。

[11] ローマ2章16節「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。」

[12] この「報い」は、なした行為への正当な「刈り取り」という事でしょう。2節の「偽善者」は自分が誉められることを求めているので、それが「自分の報い」なのですが、神からの報いは、行為によって人格を評価するものではありません。神は私たちを既に神の子どもとしてこの上なく愛してくださっています。行為が人格への評価を決める、という発想そのものが、神ではなく、偽善的なものです。神が下さる報いは、その行いそのものへの正当な結果でしょう。

[13] ティモシー・ケラー『「放蕩」する神』の中に、「もし神の恵みが十分感じられないとしたら、最もしてはならないのは、奉仕や活動によって、その不完全さを満たそうとすることです」というような一文があったと記憶しています。が、確認できませんでした。

[14] 25章21節、23節。