2019/12/1 マタイ伝5章17~26節「イエスが来た理由」[1]
アドベントに入り、主イエスがおいでになった喜びを一緒に祝い、感謝と待ち望む心をともにして行きます。マタイの講解説教を続けますが、今日の箇所にちょうどこうありました。
5:17わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
「律法や預言者」、今で言う旧約聖書を、イエスは廃棄してくれるのではないか。そういう期待が、集まってきた群衆の中にはあったのかもしれません。20節に
「律法学者やパリサイ人の義」
とありますが、当時の宗教学者たちの掲げるのは律法の厳格な遵守でした。いちいち手を洗うとか安息日には何をしないとか、そういう決まりだらけの要求に辟易して、基準を下げてほしい。イエスなら楽にしてくれるのではないか。律法の要求を、いっそ撤回してほしい。そういう期待がイエスに対してあったように聞こえます。それに対して、イエスはハッキリと
「律法を廃棄するために来たのではない、廃棄するためではなく成就するために来たのです」
と仰います。そして18節から20節までこの事が強く、繰り返して言われるのです。
そう仰ったイエスが、続く21節以下でまず言うのは、
「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」
という言葉です。
「殺してはならない」
は律法の十戒の第五戒ですが、それに続く
「人を殺す者は裁きを受けなければならない」
は、律法にはありません。これは律法そのものでなく、当時のユダヤ教の教えです[2]。
「律法学者やパリサイ人の義」
です。殺す者は裁きを受けなければならない、という規定です。しかし、イエスは22節以下
「兄弟に対して怒る者…兄弟に『ばか者』と言う者…『愚か者』と言う者」
は、殺人犯がさばきを受けなければならないのと同様、さばきを受けなければならないのだ、と仰います[3]。
「殺してはならない」
と言われた神の真意は、手を下して殺しさえしなければ裁かれない、ということではない。心でも兄弟に怒りを抱き続けず、貶めない。更に23節では、祭壇の上にささげ物を献げようとして、兄弟から恨まれていることを思い出したら、ささげ物は祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをして、それから戻ってそのささげ物をせよと言われるのです。相手の存在を、命を尊ぶ。
「殺したらさばかれる=殺さなければいい」
ではなく、どんな人も心でも罵らず、壊れた関係も修復のために労を惜しまない。それ程に目の前の人の命・人格を尊ぶ。それが
「殺してはならない」
と言われた神の律法なのだと言われるのです[4]。
当時の
「祭壇」
はエルサレムだけにありました。この説教が語られたガリラヤからは何日もかかる、滅多に行かない巡礼です。それは大切な神礼拝、聖書の民の義務でした。しかし、その生贄よりも、あなたの兄弟に対する怒りやレッテル貼り、こじれた関係の回復を求める。それこそが、神の求める義だと言うのです。礼拝出席より隣人との和解が、神の律法の成就だと仰るようです。「山上の説教」には
「まず神の国と神の義を求めなさい」
という有名な言葉があります[5]。イエスが仰った「神の義」は、礼拝出席やささげ物という形の最優先よりも、神が目の前に置いている兄弟に憐れみを忘れないことです。身近な人を蔑まない、こじれた問題を諦めない、その関係を大切に受け取る。そういう義なのです。
この後も、イエスは当時の律法理解を深く問い直して、行きます。山上の説教全体を通して、律法が何を言いたいのか、神がどのようなことを私たちに求めておられるのか、深く鋭く語り直します[6]。先取りになりますが、7章12節、「山上の説教」結びに、こんな言葉があります。
7:12ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。
その始まりとして、
「殺してはならない」
と仰った神は、「殺してはならない」だけでなく、誰も殺されて良い人などいない。誰も、心の中でさえ、追いやられていい人はいないと仰ったのだ、というイエスの語り直しを受け止めましょう。そして、私たちがそのように兄弟や隣人を受け取り、そういう生き方に変えられてこそ、律法が成就されるのだ、とも言われています。
私たちが人に怒りや「ばか者」「愚か者」と言う時、そこには相手を見下して、対等な関係など無理だ、という溝を作っているのかもしれません。律法は、人からしてもらいたいことを自分も相手にするようになることだ。「殺さなければ良い」とか「心でも馬鹿にしたら神がお怒りになる」とかではない。私たちが人を、自分と同じように人間だと見る。自分にしてもらいたいことがあり、されて悲しかったことがある、同じ心があり、同じ人間として見るようになる。それが、律法の成就なのです。そのためにイエスは来て下さったのです。[7]
しかしそのためにも、イエスご自身が、まずこの神の律法を完全に生きてくださいました。イエスは人を愛されました。確かに問題や人間の罪には、厳しく向き合い、激しい態度で臨まれましたが、それでもイエスは「人間なんてバカばっかりだ」とか「人間は愚か者、滅んでしまえ」と呪うことはなさいませんでした。人間に恨まれても、その人間を「兄弟」としようと、和解のために手間暇も、労苦も、ご自分の死さえも惜しみませんでした。イエスは、私たち人間を心においても貶めず、黙殺せず、見殺しにせずに、生かそうとしてくださったのです。イエスはただ一人、神の義を完全に成就してくださったお方です。
でもそれだけではありません。イエスはご自身が神の義を果たすだけでなく、私たちの義となってくださり、私たちのうちに、この神の義に生きる心を与えてくださるのです[8]。24節の
「仲直りをしなさい」
はただ仲良くする、和合するよりも深く「心を変える」という言葉です。恨んでいる心を変える、深い和解です[9]。イエスは私たちの心を変えてくださる。その教えと、イエスご自身の模範と、聖霊のお働きとによって、私たちは心を照らされます。自分の殺意や怒りや恨みにゾッとするだけではなく、その私たちをイエスが「愚か者」だと蔑むことなく、愛してくださり、犠牲を払ってでも和解させてくださったことを知ります。そしてイエスが「わたしに従って来なさい」と招いておられることを知ります。イエスは私たちの心の底から、兄弟への怒りや評価、恨みを手放させてくださる。私たちの心を変えてくださる。直ぐに出来るわけではないでしょう。人の心の恨みや憎しみや複雑です。後に39節の
「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出す」
と同じく、24、25節も大胆で極端な言い回しです。文字通りこうせよ、ではありません[10]。むしろその中心にあるのは、
恨まれていても和解のための努力を惜しまないこと、
恨む人でも「馬鹿者」「愚か者」と決めつけず、「兄弟」として受け止め続けること、
やがてその心も必ず主が変えてくださる、心からの和解がいつか出来ると信じること…
そういう思いこそ、義なる神は私たちのうちに、生涯掛けて育んでくださるのです。
ローマ13:9「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。10愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。
私たちの心に、主の愛が注がれて、私たちも人を愛するようになる。それが律法の成就です。私たちの思いや罪や恨みを知り尽くした上で、イエスは決して私たちを「馬鹿者」「愚か者」とは思われません。世界の王なる神が、私たちを尊んでくださる。決して殺されたり滅んだり、見下されたりしてはならない存在だと思ってくださる。そのために、人となって来て下さった。小さな赤ん坊として、貧しく生まれてくださいました。そして、人の憎しみや罪のために殺されました。それは、私たちを憎しみや罪の惨めさから救い出して、神の義に生かしてくださるためでした。そのためにこそ、イエスは本当に来られ、また再び来て下さるのです。
「主よ。あなたがおいでになったのは、律法を成就するためでした。あなたの義が私たちのものとなり、私たちがあなたに生かされるためでした。主イエスよ、義なるあなたは、本当に人となってこの世界に、私たちの心に住んでくださいました。感謝します。私たちの心の冷たい正義を、あなたの聖なる義によって溶かし、人にも自分にも和解の言葉を語らせてください」
[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[2] 欄外に引用されている申命記16:18は、正確には「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる、あなたのすべての町囲みの中に、あなたの部族ごとに、さばき人たちと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは公正に民をさばかなければならない。」です。
[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[4] ここからも分かるのは、人に対する怒りや罵りが悪い、という道徳ではありません。もしそうであれば、あなたを恨んでいる兄弟は、その恨み自体で裁かれたり滅ぼされたりするだけです。でも、ここで言われているのは、私たちが心の中で誰かを怒ったり、口で罵ったりしないだけでなく、誰かから恨まれていたとしてもそれを放ってはおかず、和解のために出来る限りのことをする、という在り方です。
[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[6] 有名な、「まず神の国とその義をもとめなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(6:33)も、この文脈での「神の義」です。礼拝第一・献金・奉仕、などが「神の義」ではなく、人を心でも殺さず、裁くより和解を求めることが「神の義」なのです。
[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[8] 「成就するため」は、「貫徹する」という意味ではありません。強いるだけでは成就は出来ない。理想を掲げ、マニフェストを説明するだけでは、政策実行は出来ない。イエスはそのような意味で来たのではなく、成就するために来たのであり、成就して下さるのだ。もし高い要求を示して、全員を有罪とするだけで終わるなら、「成就」にはならないのです。ルターが発見したように、福音の内に啓示されている「キリストの義」は、まさに切り捨てる義ではなく、和解のためにご自身を与える義。過ちを責める義ではなく、赦し、あわれみ、必要を満たす義。
[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[10] アルコール依存症の自助グループで用いる「AAの12ステップ」の9は「その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。」、と慎重な言い回しをしています。全文は以下の通り。「①私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。②自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。③私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。④恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。⑤神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。⑥こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。⑦私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。⑧私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。⑨その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。⑩自分自身の棚卸しを続け、間違ったときは直ちにそれを認めた。⑪祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。⑫これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージをアルコホーリクに伝え、そして私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。」