聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2019/12/24 マタイ1章18-25節「神が私たちとともに」クリスマス燭火礼拝

2019-12-25 09:51:13 | クリスマス
イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

メッセージ 「神がわたしたちとともに」 古川牧師
 「神が私たちとともに」という今日のテーマは、今読みました聖書の言葉の中から取りました。イエス・キリストの誕生の前に、生まれてくる子どもは
「インマヌエル」「神が私たちとともにおられる」
と呼ばれる、と言われました。イエス・キリストは、神のひとり子ですが、私たちと同じ人間になり、人としての生涯を歩んでくれました。イエスの誕生は、神が私たちとともにおられることを、最大級に現した出来事でした。
 これは、クリスマスだけの出来事ではありません。「インマヌエル」という言葉を告げていたのは、旧約聖書の「イザヤ書」という書物。イエスの時代の600年前に書かれていた本です。もっと前の聖書の中にも、神がともにいてくださる、という言い方は要所要所で出て来ます。神は、わたしがあなた方とともにいる、わたしがあなたがたの隠れ家、住まい、家となる、そのように仰るお方です。神は、ご自分を名乗って
「わたしがいる」
という名前を告げました。「わたしはいる」と神は自己紹介されたのです。
 今月、アフガニスタンで働き続けた医師、中村哲さんが、一緒にいた現地の方5名共々銃撃されて亡くなりました。中村さんはキリスト者で、アフガニスタンでの働きをまとめた本を『天、共に在り』という題で書いています。『天、共に在り』とは、このインマヌエル「神は私たちとともにいます」を中村さん流に言った言葉です。中村さんは
「これが聖書の語る神髄である。枝葉を落とせば、総てがここに集約し、地下茎のようにあらゆるものと連続する」
と書いています[i]。また、そこからアフガニスタンでの活動や、大変な闘いの中でもハンセン病の治療や井戸掘り、用水路の大工事などに奔走したことも、そうした努力だけではなし得なかった、沙漠が緑になって何十万の人の生活を変えたのも、すべてを貫いているのが「天、共に在り」だというのです[ii]。
 もしどなたかに「キリスト教の神ってどんな神?」と聞かれたなら、私は「私たちと一緒にいてくださる神だよ」と答えます。また、聖書の最後の「黙示録」という本には「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」と書かれています[iii]。天国ってどんな所?と聞かれたら、「神様と一緒にいる所だよ」とお答えしたいなぁと思っています。
 でも、神がともにいる、と言われて、嬉しいと思う方もいるでしょうが、ちょっと居心地の悪い思いをする方も多いかもしれません。神と人間とじゃ、あまりにも違いますから。いいえ、人間同士でも、一緒にいるのは嬉しいばかりではありません。家族でも、一緒にいたくないと思う時があります。安心して一緒にいられたらいいなぁと思っているのに、なかなか難しいのです。聖書にも、人間が一緒にいるように造られたのに、その関係を壊してしまう、「罪」のことが書かれています。神から約束や祝福をもらいながら、神に背き、人間同士も傷つけ合い、争い、裏切り、女性たちや弱い者を貶めてきた歴史でした。聖書には、立派な人ばかりが出て来るかと思ったら大間違いで、人間の罪や失敗の繰り返しです。しかし、そうした人間にも神がともにいて、立ち上がらせてくださった、という出来事が聖書には満載です。そしてその末に、神のひとり子イエスが、人間となって来て下さった、というのが聖書の中心にある出来事なのです。

 その時もイエスの父親役を仰せつかったヨセフはたじろぎました。自分が、救い主の父親を果たすだなんて、無理だと思ったのです。自分に流れている血は、先祖たちの罪、人殺しや姦淫や裏切りの血だ。自分には、神に選ばれる資格はないと思ったのです。でも、神はヨセフの夢に天使を遣わして、
「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」
と仰いました。神は、人間の罪とか恥とか、人間同士でも一緒にいるのが難しい現実を十分ご存じです。そして、だからこそ、私たちとともにいるために来て下さった。それも、神々しいお姿ではなく、私たちが一番安心できる、生まれたばかりの赤ん坊にまで小さくなってくれました。そこまでしてでも、私たちとともにいることを選んでくださいました。それは、神が私たちとともにいて、私たちにどんな罪や恐れや闇や失敗があろうとも、神は私たちと一緒にいる、一緒にいたいと願い、一緒にいると約束してくださっている、という証しでもあったのです。

 ヨセフは、マリアを娶って、イエスの誕生を迎えました。聖書には、生まれたイエスに後光が差していたとか、まばゆく輝く笑顔だったとか、天使のように可愛かったとか、何も書いていません。周りでは驚く出来事が起きても、イエスご自身は書くべき特徴もない、普通の、本当に普通の、小さな赤ん坊だったのでしょう。イエスは神々しささえ捨てて、マリアとヨセフの所にいてくださった。暗い宿屋の飼葉桶にそっと静かにいてくださる。闇を真昼のように明るくはしませんでしたが、そのイエスがおられることがヨセフの心をどんな光よりも明るくしたでしょう。

 「天、共に在り」と知って生きた中村哲さんの人生は大変な生涯でした。神が共にいるなら、どうしてあんなことが、とも思えます。でも、中村さんは「天、共に在り」と信じるからこそ
「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」
と言いました[iv]。
「私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです」
と確信していました[v]。アフガニスタンでも日本でも、人は愛するに足り、世界は美しく、人生は生きるに値する。どんなことがあっても、そこでも、ともにいてくださる神がおられるとは、そんな光をくれます。小さな、しかし十分な光です。

「主よ。あなたは私たちに独り子イエスを贈ってくださり、今も私たちとともにおられます。あなたがともにいる事実が、喜びにはあなたへの感謝となり、困難でも生きる力を与え、互いにともにいることを祝い、罪の赦しと恵みによって結ばれる幸いをもたらしてくださいますように。今からのコンサートでもあなたが心の奥深くに触れて下さい」

[i] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;background:white;'>[ii] 「「天、共に在り」本書を貫くこの縦糸は、我々を根底から支える不動の事実である。やがて、自然から遊離するバベルの塔は倒れる。人も自然の一部である。それは人間内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう。これが、三十年間の現地活動を通して得た平凡な結論とメッセージである。」前掲書、246頁、本文結びの言葉。

[iii] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;font-family:"Century","serif";color:black;background:white;'>[iv] 澤地 久枝、中村哲共著『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る――アフガンとの約束』岩波書店、2010年。

[v] 中村『天、共に在り』、5頁。

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