聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

出エジプト記3章1~12節「モーセの召命 聖書の全体像17」

2019-06-16 14:05:07 | 聖書の物語の全体像

2019/6/16 出エジプト記3章1~12節「モーセの召命 聖書の全体像17」[1]

 今まで聖書の最初の創世記からお話しして来ました。天地の豊かな創造と、それを大きく損ねてしまった堕落、その回復のためにアブラハムという老人が選ばれて、彼の子孫を通して、神がすべての人に働きかけて、救いと祝福を下さり、神の民とされる約束を見てきました。その後、アブラハムの子孫がカナンの地からエジプトに降りました。四百年経った頃が、出エジプト記の舞台です。アブラハムの子孫は「イスラエル人」と呼ばれています[2]。しかし、エジプトで彼らは、強制労働にかり出され、苦しい生活を強いられていました。そればかりか、助産婦に命じて、男子は殺すように、女子は生かしておくように、とファラオの命令が下された。そんな悲惨な状態が、一章に書かれています。そのような中で、モーセがイスラエルの民を導き出すリーダーとして立てられました。出エジプト記三章は、モーセが主に召される記事です。

出エジプト記3:7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。

今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
10今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
[3]

 主はイスラエルの苦しみを見て、叫びを聞かれました。主は人の痛みを知っておられるお方。人間の叫びは、主に届き、主はモーセを遣わして、主の愛する民を苦しみの国から導き出してくださいました。この出来事は、神が人の苦しみや叫びを確かに聞いて、そこに介入し、救い出してくださる方であることを力強く教えています。これは、聖書の民にとって、他にない決定的な原点となる体験でした。神は、私たちの叫びを聞かれ、私たちを苦しみから引き上げて、神ご自身の元へと導き出してくださる。それはやがて、モーセにまさるイエス・キリストが完成した福音を指し示すモデルでもありました。そのエッセンスをお話ししましょう。

 神はここで民の苦しみを見、叫びを聞いたと仰り、12節で神は言われます。

「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。」(中略)

14「わたしは、わたしはある(いる)という者である」

 神は、わたしの名は「わたしはあなたとともにいる」だ、と仰るのです。それとは対照的なのがエジプトの国です。エジプトは当時最も文明が進んでいた国でしょう。豊かで、強くて、王ファラオは絶対的な権力を持っていました。その権力で、イスラエル人や庶民を支配し、抑えつけ、扱(こ)き使(つか)い、男は殺し女は生かす、と酷(ひど)い扱いをしていたのです。その神は「わたしがともにいる」と名乗るどころか、人の命を値踏みし、使い潰して構わない神です。安心よりも命令を与え、服従を強いる神。国のための犠牲には目を瞑って、下々の叫びなど聞かずに、黙らせる神。場合によってはうまいことを言っても、前言撤回する、そんな国でした。一つの民族が丸ごと踏みにじられるほど大きなエジプト社会で、人々が苦しみ、呻き、叫んでいる。そういう声を、主は確かに聴かれます。

 そこに介入され、労働力として使い潰されていた人々と「ともにいる」とご自分を名乗られました。更には、そのような国を「奴隷の国」と断罪して、虐げられていた人々を救い出して、エジプトの国の無力さを暴露したのです。神はモーセを通して、イスラエルの民を、酷い扱いから救い出して、神が王として治める新しい歩み、いいえ、本来の人間らしい社会、人が人として扱われる歩みへと招いてくださいました。

 もっとも、それはエジプトの国とかどこかの悪い社会が問題だ、ということではありません。神から離れた生き方(つまり、罪)に外れていった人間は、常に、人を人として扱わず、自分が神のように中心になる世界を造ろうとします。ノアとその家族は大洪水から救われましたが、その子孫はバベルの塔を造りました。エジプトはバベルの塔建設の再挑戦でした。そこから救い出されるイスラエル人も、やがて神殿建設や経済発展、王権の強化を優先して、貧しい人が抑圧されていくのです。「社会が悪い、政治家が悪い」ではなく、私たちの罪、恵みを忘れた心が、人を人としない社会を造るのです。その行き着いた典型が「奴隷の国」エジプトでした。主は、イスラエル人を救ったように、私たちの叫びを聴いて救ってくださるともに、私たちの生き方が、神ならぬもの、恵みならざる基準を王座につけた生き方から救い出そうとされます。神ご自身が神の座に再び帰って来て、「わたしがあなたとともにいる」と仰る神が治める国を始められる。それが、出エジプトであり、神の大きなご計画に繋がっているのです。

 さて、主がイスラエルを導くために選んだのはモーセでした。彼は素直に応じたでしょうか。

11モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」

と抵抗を示します。4章1節でも10、13節でも、最後までこの声から逃げようとします[4]

 この時モーセは80歳。生まれた時は、丁度ファラオがイスラエル人に男の子が生まれたらナイル川に投げ込めと命令が出された頃でした。母親は三ヶ月、その子を隠しましたが、遂に隠しきれず、パピルスの籠に入れて、ナイル川に浮かべます。それを拾ったのが、奇しくもファラオの娘でした。父が殺させていたヘブル人の男の子を、娘がナイル川から拾ってわが子として育てたのです。モーセという名は

「(水の中から)引き出す」

から付けられた名前です。しかし40歳の頃、モーセはエジプト人が奴隷を打ち叩いているのを見て、救おうとして殺したことがきっかけで、エジプトから脱走し、荒野のミディアンに逃れて40年。家族を作り、のんびり過ごしていたのですね。40年前なら、「ファラオの元に行け。わたしの民イスラエルを導き出せ」という声に名誉挽回だと即答したかもしれません。しかし、40年の間に、彼の思いはすっかり萎縮して、億劫になっていました。でも主は、若くて勇敢なモーセではなく、年老いて行きたがらないモーセを選んだのです。モーセにやる気や信仰があるからではなく、自信も期待もないモーセを選んだのです。逃げ腰のモーセに、主が示されたのは、

3:12「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。…」

に尽きました。モーセにその素質があったわけではないのです。ただ、神がともにいるお方だから、神はモーセを召して、ともに歩んでくださいました。生まれてすぐ捨てられたモーセをナイル川から引き出したように、80歳のモーセも荒野から引き出しました。勇気も夢もなく、他者の苦しみや叫びに耳を閉ざした生き方からも引き出して、ファラオの前に立つ勇気まで下さったのです。それは、イスラエル人を奴隷生活から引き出し、新しい民、自由の民とするしるしでした。神は何度でも引き出される神です。やがてはイエスが来られて、私たちをご自身へと引き出してくださいました。「私たち自身の罪の罰から救い出す」だけではないし「罪を赦してくださる」だけでもなく、主は私たちの生き方も心も、世界も、引き出される-罪や暴力や絶望の支配から、人を踏みつけたり見下したりする生き方から必ず引き出されるのです。

 人が人として扱われないことに私たちが鈍感でも、神は叫びを聞いておられます。人が心から神を喜び、互いに愛し、生かし、育て合う世界を取り戻されます。暴言や孤独や拒絶が罷り通っている中、神や宗教など何の役にも立たないと思い込んでいる中で、「叫び声は神に届いている。奴隷の国を終わらせ、神の国が来た」と言う声を私たちは聴いています。イエスは私たちを引き出すために本当に来られました。それも、無敵のヒーローとしてではなく、私たちと同じような人として、悲しみも涙も苦しみも知って、罪に喘ぐ人のそばに来て、友となってくださって、そうして私たちを、生涯掛けて孤独や恐れから引き出してくださる。モーセが聴いて驚いた語りかけを、私たちも今ここで聴いているとは驚くべきことではありませんか。

「ともにいます神よ。あなたの恵みが苦しみや罪に遮られて、多くの叫び声があります。私たちもうめき、同時に、傷つけている者でもあります。どうぞ恵みによって、苦しみの現実や奴隷のように人を扱う心から救い出してください。何があっても何がなくても、あなたがともにいてくださることに、喜びと希望を得て、闇に打ち勝つ光とされて歩むことが出来ますように」



[1] 聖書は天地創造から始まって、やがて新しい天と地の始まる将来が来ることを語って結ばれる、神の大きな物語を描いています。その真ん中にあるのが、イエス・キリストの生涯と十字架の死と復活、そして聖霊が降ったペンテコステです。私たちは、その後の「教会の時代」を生きていますが、イエス・キリストが来るまでの聖書(旧約聖書)の記事から、神がどんなお方なのか、私たちにどのように関わり、どのような約束・慰めを下さるかを教えられるのです。

[2] アブラハムの孫、ヤコブは「イスラエル」という名前を与えられて、その子どもの12人が「イスラエル十二部族」となり、エジプトで増え広がります。それ以来、「アブラハムの子孫」は「イスラエル人」と呼ばれています。

[3] 2章にも「23それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。24神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。25神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」

[4] 出エジプト記4章1節「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」、10節「モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」」、13節「すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」

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はじめての教理問答111~113 マタイ6章5~15節「こう祈りなさい」

2019-06-09 15:21:06 | はじめての教理問答

2019/6/2 マタイ6章5~15節「こう祈りなさい」はじめての教理問答111~113 

 先週から、私たちが祈る事についてお話ししています。私たちが、神に祈ること、私たちの祈りを聞いてくださっている方がいることは、大きな恵みです。イエス・キリストは私たちと父なる神様とを結び合わせてくださるお方です。そして、イエスが教えてくださったのが「主の祈り」です。今日から「主の祈り」を見ていきます。

問111 キリストは、祈りについて教えるために、なにを与えましたか?

答 主の祈りを与えました。

問112 主の祈りとはどういうものですか?

答 主の祈りとは「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」という祈りです(マタイ6:9-13)。

問113 主の祈りにはいくつの願いごとがありますか?

答 六つの願いごとがあります。

 主の祈りの六つの願い事は、来週から一つずつ見ていきます。今日は、主の祈りそのものが、イエスが教えてくださった、祈り方のお手本であり、贈り物であることを覚えたいのです。また、ぜひ皆さんの生活の中で「主の祈り」を何度でも口にして、唱えてほしいと思うのです。「主の祈り」は世界中のキリスト教会で祈られています。毎週ではない教会もありますが、キリスト教会であれば、それぞれの国の言葉で「主の祈り」を祈っています。鳴門キリスト教会に時々外国の方が来て、一緒に礼拝をします。日本語は全く分からない方でも、主の祈りで「Lord’s Prayer」と書き添えているので、それを読めば大抵の外国の方は分かってくれるようです。そして、それぞれの国の言葉で一緒に主の祈りを唱えます。そして、大体、同じぐらいの時間で祈り終わります。違う言葉ですが、同じ祈りを一緒に唱えて、一緒に閉じて、「アーメン」と言える。これは素晴らしい体験です。来られた方も、嬉しそうに見えるのです。そして、その時、言葉が違っても、同じ祈り、同じ内容の願いを捧げています。六つの願いを、違いはあっても、一緒に願っている。これも、素晴らしい体験です。

 今日のマタイの福音書でイエスは、祈る時に、人に見せるために祈ったり、同じ言葉をただ繰り返したりすることを禁じました。祈りが、神に対する祈りではなく、人に見せるためになる。そういう祈りは止めなさいと仰って、主の祈りが教えられたのです。ですから、「主の祈り」は私たちが人に観られたり聴かれたりすることを意識せずに祈れる祈りです。自分の願いを神様に聴いてもらおうと、長々と祈ることを避けさせてくれる祈りです。自分が上手に祈らなければ、とか、どういう言葉で祈ろうかと考えたりせずに、イエスが教えてくれた祈りを祈り、それが、世界中の全てのキリスト者と共通して祈れる、ということは大きな喜びです。

 祈りには「自由祈祷」と「成文祈祷」の2種類があります。
 「自由祈祷」は祈る人が言葉を自由に選んで、祈ります。イエスは、人に見せるためや、神様を操作する祈りを禁じましたから、どんな祈りでも自由に祈って良いのではありません。でも、神様への信仰によって、自分の言葉で祈ることは許されています。

ピリピ四6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 このように、自由に祈って良いのです。ところが、「自由に」といっても、実際は、私たちは自分の考える言葉しか出て来なくて、同じ言葉を繰り返しているだけ、ということが多いのではないでしょうか。自分が思いつける言葉には限界があります。また、自分の願いを自分で言葉にするのは、とても難しいのです。

 これと反対に「成文祈祷」は読んで字の如く、既に文章に成っている祈りの言葉を使って祈ります。主の祈りを祈ることは、そのような「成文祈祷」の一つです。それは、自由祈祷と違って、自分の言葉でない祈りなので、堅苦しく、余所余所しいように思うかもしれません。とても形式的で、心がこもっていないように思うかもしれません。私もずっと「自由祈祷」を重んじて、「主の祈り」以外の成文祈祷は軽んじるような雰囲気で育ってきました。そして、主の祈りは、本当に形ばかり、暗記して唱えることは出来ても、あまりその言葉の意味を味わうこともありませんでした。けれども、聖書の言葉や、教会の中で伝えられてきた祈りの言葉と出会って、その言葉の真実さに打たれました。イエスが仰った通り、自分の言葉を繰り返すより、祈りの言葉も教えてもらうものであることを知りました。自分の祈りの貧しさを知って、人の祈りから、自分の願いの方向性を定めてもらう体験をしました。例えば、祈りの言葉を集めた本もたくさんあります。私のお気に入りは『祈りの花束』です。また、沢山の祈りを集めた聖公会やカトリックの祈祷書もあります。そのいくつかを一緒に声に出して読んでみましょう。

神さま、どうかわたしをお守りください。海はひろく、わたしのふねは とてもちいさいのです。(フランスの漁師の祈り)

主よ、誰かが今日、命をおとすとしたら、それがこの私でありますように。私は用意ができておりますから。(炭鉱夫から伝道者になったビリー・ブレイ)

主よ、たといこの世の目に、またすべての人の前に人生の敗残者と見えようとも、私は少しも気にしません。あなたが、「よくやった」と言ってくださるならば。

 こうした言葉は、私たちの自由祈祷も豊かにしますし、一番の成文祈祷である「主の祈り」ももっと意味を味わいながら、祈るように助けてくれるます。そして、祈りの言葉が私たちの心に入って行く時に、私たちの生き方が変わり、私たちはその祈りの言葉のような人になっていくのです。イエスは主の祈りを通して、私たちの生き方、私たちの人格を新しくしようとしています。「主の祈り」を、毎日声に出して祈りましょう。

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使徒の働き2章1~21節「聖霊がハトのように」

2019-06-09 15:09:12 | 聖書の物語の全体像

2019/6/9 使徒の働き2章1~21節「聖霊がハトのように」 聖霊降臨日説教

2:2…天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 「聖霊降臨日」に「おめでとうございます」という挨拶は聞いたことがありませんが、クリスマスとイースターのお祝いを完成させたのが、今日の「使徒の働き」2章の「五旬節(ペンテコステ)」の聖霊降臨の出来事でした。そこで教会は今日も、イースターの五十日後の日曜を「聖霊降臨日」として祝い続けて、世界中でお祝いをしているのです。本当におめでたいお祭りです。素晴らしいお祝いです。この聖霊降臨は、一章でイエスが既に予告していた約束でした。

1:8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」[1]

 この約束通り、2章で聖霊が弟子たちに注がれて力を与え、イエスの証人としたのです。このような激しく、目覚ましい現象で、聖霊は弟子たちを変えて、語らせ始めたのです。色々な国の言葉で話したので、ちょうどそこに五旬節の祭りのために来ていた世界中からの巡礼者たちがそれぞれに理解できることになりました。言い換えれば、

「炎のような分かれた舌」

が留まって諸国の言葉で語り出したのは、やがて弟子たちが

「地の果てまでイエスの証人となる」

ことの印でもありました。この直前まで、弟子たちにこんな力も大胆さもありませんでした。イエスの十字架の時には蟻の子を散らすようにいなくなり、復活の時も信じられなかった弟子たちです。その臆病で、プライドが高かった弟子たちが、この時、聖霊を注がれて、イエスの証人となって、全世界に出て行くように変えられ始めたのですね[2]

 元々ペンテコステ(五旬節)の祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放された後、シナイ山に行って、神の民としての契約を授かり、神の民の生き方を律法という形で授かった記念のお祭りでした。エジプトからの脱出は大きな解放でしたけれど、それが目的ではありませんでした。シナイ山で

「神の契約の民」

とされて、本当の自由の民として歩み始めていく。それこそが始まりだったのですね。しかし、それももっと大きな物語の伏線でした。エジプトを出る時に、小羊を屠って家の門に塗った「過越」が、後のイエスの十字架の準備であったように(そして、葦の海の道を通った勝利が、イエスの復活の準備であったように)、シナイ山で律法が与えられたのも不完全な出来事でした。律法を与えられるだけでは人間は、本当に自由な生き方は出来ない。外から契約を与えられるだけでは人は新しく生きることは出来ない。神が聖霊によって私たちの心に信仰や愛や良い心を与えてくださって、人は新しくなれるのです。律法が与えられたお祝いの五旬節に聖霊が降ったのは、そのしるしです。神が、人間を救うために御子イエス・キリストを遣わして、十字架の死と復活という贖いを果たす。その救いを聖霊によって人の心に届けてくださる。かつての出エジプトや五十日後の律法の付与は、イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨において「新しい契約」として完成したのです[3]

[旧約] 出エジプト・葦の海を渡る     「契約」の締結・十戒の付与

       過越    →   五十日後  →  ペンテコステ(五旬節)

《新約》 イエスの十字架・復活       「新しい契約」の締結・聖霊降臨(新しい心)

 

 ペテロは、この出来事を旧約聖書のヨエル書の預言が成就したことだと言っています。

2:17『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
すると彼らは預言する。

 このヨエル書の言葉は、ただペンテコステの日を預言しただけではありません。ヨエル書が語る将来への備え全体の中での言葉です。ヨエル書は、旧約の時代でも、最も社会が乱れていた時代に書かれたものの一つです。暴力や不正が蔓延り、喜びや希望が失われていた時代に、ヨエルは神の言葉を語りました。当時の人間の罪や問題をキッチリと見据えて、厳重に警告しつつ、それ以上に、主が豊かな恵みを与えてくださることを語っているのです。

ヨエル書2:13衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。
主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。

18主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた。

 その主の愛とあわれみが、やがてすべての人に主の御霊を注いで、若者も幻を持ち、老人も夢を抱くようになる。神が人の心に神の霊を吹き込んで、頑なな心から、喜び、夢を語るような心に変えてくださる。それが、神が最後に用意しておられる祝福だと言われていました。そのようなヨエル書の預言を引用してペテロが語るのは、この出来事だけではなく、ヨエル書が語る神の恵みに満ちた将来が確かに完成する、ということです。

 今はまだ、ヨエルの時代のように人の問題がたくさんあります。「使徒の働き」でも、これは2章で始まりに過ぎませんでした。激しいペンテコステの出来事から始まったものの、その後の教会の歩みは山有り谷有り、外からの迫害や、内側の罪や未熟さ、悩みが続きました。聖霊が働く仕方も様々で、いつもこの2章のように激しく目覚ましく降った訳ではありません。今でも、一人一人が体験する信仰の歩みは違いますね。あまり大きな出来事はないという方もいれば、ハッキリ声が聞こえた人もいるでしょう。同じ体験はありませんし、比べる必要もありません[4]。どの人もイエスを信じる信仰自体が、聖霊によってしています。イエスを信じようという思いそのものが、聖霊の働きによることです[5]。それぞれ違う方法で、聖霊によって教会に導かれ、信仰を授かり、今ここにいます。そして、これからも神の子どもとして、浮き沈みや右往左往をしながらも、心を探られ、新しくされて、やがては神の大いなる物語の祝宴に与るのです。大事なのは聖霊体験とかどれほど劇的か、でなく、聖霊が私たちをキリストに結びつけて下さること、主の大きな救いの中で成長し、心を新しくされ、喜びや希望を持ち、愛を戴いていくことです。

 イエスが十字架に死ぬ前、その宣教を始めた時にも、イエスの上に聖霊が下りました。

ルカ3:21…民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

 聖霊はここでは鳩の形で表現されています。素直で小さな鳩。それは聖霊を受けた人の中にも形作られていく品性と通じるでしょう。そもそも聖書の最初に、

創世記1:1はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

とある

「動いていた」

は、申命記32:11では、鷲が雛の上に翼を広げるような光景で用いられています[6]。この世界は、最初から聖霊の翼の下に包まれ、守られていた世界なのですね。今でも聖霊が全てを支えて、この世界を保ち、育てておられるのです。そして、キリストが十字架に捧げた命を、私たちの内にも届けてくださって、信仰を与え、主にある交わりを下さり、神の物語の中に入れてくださっているのです。それが口先だけの約束ではないことを、この使徒の働き2章のペンテコステの出来事は、ハッキリと教えてくれるのです。

 聖霊が下り、臆病だった弟子たちは喜びに溢れて、異邦人の言葉で福音を伝え始めました。その働きの末に今、私たちは福音に出会い、神を礼拝しています。それは、青年も幻を見、老人も夢を見るような、誰もが心を罪から清められて、悲しみを深く癒やされ、慰められるという約束の手始めです。最初から世界を覆っていた聖霊が、世界を慰め、人の心の奥深くまで語りかけてくださるのです。その時を待ち望みます。また聖霊の慰めや癒やしをこの時代に祈らずにおれません。聖霊が私たち自身をも、主の証し人として遣わしてくださいますように。

「主よ、聖霊によって、主イエスの贖いに私たちを確かに結びつけてくださったことを感謝します。私たちの痛みや呻きにまで届いて下さる聖霊の愛と憐れみに、感謝します。主の御霊の働きのゆえに、私たちも世界も存在しています。どうぞ、この聖霊の御業に信頼させてください。一人一人を違う形で用いて下さり、十分に慰め、私たちの心に夢を抱かせてください」



[1] また、使徒の働き1章4~5節「使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

[2] 「聖霊」使徒の働きに40回。「御霊」13回。「主の霊」「わたしの霊」4回。合計、47回。直接ではなくても「主が」という言葉が聖霊の働きを指している場合も多い。

[3] エレミヤ書31章31節以下はこの事を明言して預言しています。「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。33これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

[4] その聖霊の体験の仕方、聖霊による「賜物」の違いによる差別意識や諸問題が誤解されて受け取られていたことも、既に初代教会に起きていました。Ⅰコリント12章から14章を読んで、その実態と解決となる方向性とが窺えます。

[5] Ⅰコリント12:3「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」、同12:13「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

[6] 申命記32:10~11「10主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。11鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。」

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はじめての教理問答109~110 詩篇3篇「神に祈ろう」

2019-06-02 20:12:32 | はじめての教理問答

2019/6/2 詩篇3篇「神に祈ろう」はじめての教理問答109~110

 

 「神に祈ろう」。祈りましょう。日本でキリスト者は多くはいません。キリスト教がなかなか理解されない、信じられない現実があります。それでも、日本人にとって「祈る」という発想はごく自然に聴きます。日本文化を考えている学者も、日本には「宗教」よりも「祈り」がずっとあった、と言っています。キリスト教に距離を感じる人にも、教会で祈るとか、お祈りさせてもらうことには、素直に受け入れてくれることが多くあります。聖書から祈ることを励まされて、私たちが祈っていくことは、周りの人にとっても自然な証しになるのかも知れません。今日から「祈り」についてお話しします。

問109 祈りとはなんですか?

答 祈りとは、神さまをほめたたえ、神さまの与える祝福に感謝し、そして聖書において約束していることを、神さまに願い求めることです。

問110 わたしたちは、誰の名前によって祈らなければなりませんか?

答 ただキリストの名によってのみ、祈らなければなりません。

 祈りの内容がここでは

「神様をほめたたえ、神様の与える祝福に感謝し、…聖書において約束していることを、神様に願い求める」

と三つにまとめています。神を誉め称え、神の祝福に感謝し、聖書の約束を神に願い求める。そこに浮かび上がるのは、とても親しく、気さくで、ホッとするような関係です。
 私たちが神様を誉め称える…「神はすばらしいお方です。神様は偉大なお方です」。そんなことを言おうと言うまいと、神様には関係ないようにも思えるのに、神は私たちが神様に語りかけ、当たり前のことを神に語るのを喜んで聞いてくださるのです。
 次の「神様の与える祝福に感謝」する…「今日もご飯をありがとうございます。こんな嬉しいことがありました。有難うございます。」私たちの生活の中に、神様の祝福を見つけては、そのことを「有難うございます」と言葉にする。それを聞いてくださる。それだけで、私たちの心は段々温かくなってきます。
 そして、「聖書において約束していることを、神様に願い求める」…聖書には、たくさんの約束がありますから、それを私たちは神様に願い求めるのです。遠慮なく、正直に、神様の祝福を願うのです。聖書にはたくさんの約束があります。それを祈るのは、いくら時間があっても足りないくらいです。その約束を自分のためにも願い求める。それが祈りです。
 私たちは、この世界を造られた大いなる神様に、自分のための願いを求めることが出来るのです。それは、本当にすばらしいことです。

 神様を知らない人も「ご無事をお祈りしています」と言います。病気や大けがの時には「回復を祈ります」と言います。自分ではどうしようもないときに、何か自分の願いを聞いてくれる存在、頼りになって助けを求められる存在がいてほしい。そういう思いがあります。でも、逆に、本当に困った時というよりも、とても我が儘で身勝手な願いを祈ることもよくあります。「隣の人が失敗するように」「嫌な人が呪われるように」「あいつがひどい目に会えばいい」という呪いもあります。今日の言葉で「聖書において約束していることを、神様に願い求める」というのは、そんな身勝手な願い事まで神様に押しつけることを窘める言葉です。だからといって、「こんなことは、神様に祈るようなことではない」「神様に祈るのは気を使う」「自分には神様が喜ぶようなお祈りは難しい」ということも考えすぎです。神様は、私たちが神様に祈り、神様を褒め、感謝し、願う関係を求めている方です。祈らないことは、どんな奉仕や立派な生き方でも償えない、神との関係の損失です。神とともに過ごすために、私たちは造られたのです。

 今日は詩篇3篇を開きました。詩篇は、全部で150篇ありますが、沢山の祈りが記録されています。その一つが、この詩篇3篇です。短い祈りです。そして、決して形式張ったり「賛美・感謝・願い」という順番になったりはしていませんが、ここには、

しかし、主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾(賛美)

主よ 立ち上がってください。私の神よ お救い下さい(願い)

と神をほめたたえたり、願いを申し上げたりしている要素が見て取れます。感謝、も4節や5節、8節に見て取れます。「賛美と感謝と願い」が、順番通り並べられている祈りではありませんが、この詩の中に賛美も感謝も見て取れます。そして、4、5節の

私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて眠り また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。

 これは賛美とも取れますが、独り言にも聞こえます。とても自由に、自分の言葉で、神様への信頼を言葉にしています。詩篇の最初の祈りは、型にはまった綺麗な祈りではなく、率直に自分の願いを伸び伸びと言い表しています。神様に対する信頼と、自分の願いとが、詰め合わされています。礼儀正しく、神に相応しく祈らなければ、というような遠慮はありません。神様に祈れるとは、難しいことではありません。私たちの言葉の奥にある心を全てご存じの神様が、私たちの祈りを待っておられるのです。人が「お祈りしています」と、祈りを誰か聴いてくれるかどうかも分からなくても言うのであれば、天地を造られた神様が祈りを聞いてくださる。私たちの心の願いを受け止めてくださるという事実は、本当に喜ばしい、素晴らしい事なのです。

 ここでは、もう一つ、私たちは他の誰の名前でもなく、

ただキリストの名によってのみ祈らなければならない

と教えています。教会での祈りは「イエス・キリストの御名によって祈ります」というのはここからです。目には見えない神様に祈る時、聖書は、イエス・キリストが私たちと神様との間を取り持ってくださるから、祈りは届けられるのだと教えています。たとえ、私たちに罪や思い上がりがあっても、イエス・キリストが間に入って下さる事で、私たちは安心して祈ることが出来ます。私たちと神様との間を取り持って下さるのは、ただイエス・キリストだけ。そのことをここでは思い出させます。ただ、この詩篇3篇も、他の聖書の祈りも「イエス様の御名によって祈ります」とは言いません。言葉で「イエス様の御名によって」と言うかどうかより、私たちの祈りはイエス・キリストが届けてくださることを覚えるのです。

 次回から、イエス・キリストが教えた「主の祈り」を見ていきます。イエスは私たちの祈りを神に届けてくださるだけでなく、私たちに祈りそのものを教えてくださいます。そうして、この素晴らしい祈りの恵みを私たちがもっと戴けるようしてくださいます。

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創世記24章15~27節「無名のしもべも導く神 聖書の全体像16」

2019-06-02 17:00:20 | 聖書の物語の全体像

2019/6/2 創世記24章15~27節「無名のしもべも導く神 聖書の全体像16」

 神が選ばれたアブラハムの生涯から、お話しを続けてきました。アブラハムの生涯の最後としてこの二四章を見たいのです。

 荒筋を申し上げましょう。アブラハムが息子の妻捜しをする。神が約束されたカナンの地にいても、そこに住む女性でなく、故郷のアラムの地から迎えたいと考えました。そこでアブラハムは、家の最年長のしもべにその嫁捜しを託します。しもべは、

 「良い候補者を見つけても、流石にここまで来るのは躊躇うのではないか、そうしたら、イサクをその地に連れ戻っても構いませんか」

との懸念だけを伝えます。アブラハムは、連れ戻ることは禁じて

 「もし彼女がここに来ようとしなければ、嫁捜しの責任から解放される」

と応えます。こうしてこのしもべは、一〇頭のラクダと沢山の贈り物を携え、何人かの従者も一緒に、アラムに向かいます。二十日からひと月はかかった筈ですが、その詳細は一切省略しています。アラムに着いたしもべは、夕暮れ時、水を汲む女たちが出て来る頃、井戸のそばで祈ります。

12「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。

13ご覧ください。私は泉のそばに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出て来るでしょう。

14私が娘に、『どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように。」

 こんな都合の良いというか、破れかぶれという祈りをします。ラクダにも飲ませるとなったら、一頭80リットルぐらい飲むそうで、一〇頭なら一時間もかかったと言われます。そんな労苦を買って出るなんて、そのうち現れるのでしょうか。ところが、次の15節は、

15しもべがまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはミルカの子ベトエルの娘で、ミルカはアブラハムの兄弟ナホルの妻であった。

 イサクにとっては従兄弟(いとこ)の娘、イサクの嫁候補には願ったりのリベカが現れたのです。まだこの時点でしもべはそれを知りませんが、彼女に走って行って水を乞うと、リベカは水をくれた上、ラクダにも水を飲ませてくれるのです。井戸と水舟とを何度も往復したのでしょう。しもべが、黙ってその様子を一時間程も見ていました。ラクダが飲み終わって、しもべはリベカから、彼女がアブラハムの血縁であることを知ります。何と言うことでしょう。しもべは、

26…ひざまずき、主を礼拝して、27「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。」

 こうして、しもべたち一行はリベカの家に迎えられます。その場で、食事よりも先に、しもべはここまでの経緯を詳しくなぞって繰り返します[1]。それを聞いて、リベカの父も兄もリベカを嫁に出すことに同意する。しもべが最初に心配した、着いてきたがらないのではないか、という点もクリアして、しもべは52節でもう一度

「地にひれ伏して主を礼拝した」

のです。

 長い二四章をかいつまんでまとめました。実にドラマチックな嫁捜しでした。何せ、創世記で一番長い章なのです。そして、全部で五〇章ある創世記の丁度真ん中頃に当たります。しかもアブラハムは最初に登場するだけで、中心になるのは名も分からないしもべです。その無名のしもべが、アブラハムから託された使命を果たすために旅をして、そこで体験した出来事が、創世記の中間で、最も長く詳しく記されている。これは意味深長です。アブラハムやイサク、有名で有力な人物を差し置いて、名もないしもべが神の大きな物語の一端を担ったのです。

27「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。」(48、49節も)

 この

「恵みとまこと」

「導いて」

は、48・49節でも繰り返されます。主が旅を導いてくださる。「導く・伴う」はキリスト者がよく使う言葉ですが、ここで初めて使われるのです[2]。「恵みとまこと」も詩篇に何度も出て来る大切な言葉ですが[3]、この二四章で初めて出て来ます。しもべがこの体験を通して、本当に主が導いてくださった、主は私たちを恵み深く、真実に導いてくださるお方だと、深い実感を持って告白しています。アブラハムやイサク、主要人物ではなく、この無名のしもべの体験です。それは、即ち、この創世記を読む読者に対するメッセージでしょう。アブラハムを通して始まった契約の中に入れられたすべての人は、今も主が不思議に導かれている。恵みとまことをもって導いて、役割を必ず全うさせてくださり、主が旅を成功させてくださる。そう確信するように、創世記の真ん中、二四章は語るのです。

 勿論それは《私たち人間にとって都合の良いように、万事順調に上手くいく、最後は丸く収まる》というお導きではありません。しもべは長旅の労を引き受けました。自分の楽や安全を願う以上に、その嫁がここに来るかだけを案じました。イサクの妻にも、自分の生まれ故郷を離れ、今までの住み慣れた生活から新しい冒険へと踏み出すか、という資質は欠かせなかったからです。アブラハムが故郷や父の家を離れて、行く先を知らないで旅立つことを求められたと同じです。主が私たちを導かれるのであって、私たちが主を導いたり行く先を決めたりするのではないのです。私たちは主の大きな導きに信頼して、自分を開いて捧げていくのです。

 また、しもべは

「主が導いてくださった」

と言いましたが、この章には直接「主が・神が」とはひと言も言われません。主の導きはハッキリは見えず、隠れていて「偶然だ」と見過ごす事も出来るものです。また、主の導きだから全てが完璧で理想的ではありません。リベカの兄ラバンは、やがて再登場して、イサクの息子ヤコブを大変手こずらせる曲者です[4]。いいえ、当の嫁のリベカからして、やがてイサクとギクシャクして、息子ヤコブを唆してイサクを騙すなんて行動をとって家族を引き裂いてしまうのです。そういう問題も含めて、この出来事は主の導きとして受け取られているのです。厄介さを抱えた人間を巻き込みながら、主がすべての事の中に働いて、私たちを導いておられる。私たち自身、それぞれに個性があり、取り扱われるべき問題を抱えている不完全な者で、そういう私たちを主はともに導いてくださっています。アブラハムを選び、契約を結ばれた主は、その約束をイサクや子孫、また、しもべや異邦人も巻き込みながら、今も導かれ、実現されます。誰一人完全ではない私たちが、旅をしたり、水を汲んだり、精一杯自分の出来る事をしながら、出会い、助け合い、お互いを通して主の恵みを分かち会いながら、神の物語は進んで行っています。神が見えない時も、いつも全てを、深い恵みと変わらない真実をもって神は、ご計画のままに、私たちを導いているのです。

 そう信じるしもべは、祈り、礼拝しています。主の導きを求め、主が恵みを施されたことを知ることが出来るように祈っています。リベカの自己紹介を聴いては祈り、その家族の了解を得ては主を礼拝しています。折々に、祈っています。勿論、しもべが祈り終えないうちに、いいえ、祈る先から既に、主は導いておられました。だからこそ、私たちは祈るのです。「私たちが祈ったら主が導いてもらえる」のではなく、主が導いておられることを知って、祈らずにおれないのです。神は私たちに、神を信頼するよう、祈るよう、神をますます心から礼拝して歩むようにと、導かれるのです。私たちもこのしもべに自分を重ねて、主の導きを信じつつ、

 「導いてください、それが分かりますように」

とも率直に祈りましょう。アブラハムを通して始められた主の祝福が、今私たちにも渡されていて、私たちもまたその祝福を目の前の人に渡す。そういう大きな物語の中に導かれていると励まされて、祈りながら、導きを求めながら、歩ませていただくのです。

「恵みとまことに富んでいます主よ。あなたの導きを信頼して歩める幸いが、全ての民に約束されていることを今日の箇所からも教えられて、感謝します。あなたの導きが見えないこともありますが、あなたがこの世界を贖い、罪をきよめ、正義と平和の御国をもたらすことを待ち望みます。私たちをお捧げします。どうぞ私たちを伴って導き、御名を崇めさせてください」



[1] 厳密には、全く同じではありません。あちこちで、リベカ家族が受け入れられやすいよう、言葉遣いを工夫しています。

[2] 詩篇23:3「主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。」など。

[3] 詩篇25:10「主の道はみな恵みとまことです。 主の契約とさとしを守る者には。」、57:3「神は 天から助けを送って 私を救い 私を踏みつける者どもを辱められます。 セラ 神は 恵みとまことを送ってくださいます。」、61:7「王が 神の御前でいつまでも 王座に着いているようにしてください。 恵みとまことを与えて 王をお守りください。」、85:10「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします。」、86:15「しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。 怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。」、89:14「義と公正は あなたの王座の基。 恵みとまことが御前を進みます。」、115:1「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく ただあなたの御名に 栄光を帰してください。 あなたの恵みとまことのゆえに。」、138:2「私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し 恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。 あなたがご自分のすべての御名のゆえに あなたのみことばを高く上げられたからです。」

[4] 創世記29章以降。

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