聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

詩篇一一五篇「第一の願い」はじめての教理問答114~115

2019-06-16 15:38:26 | はじめての教理問答

2019/6/16 詩篇一一五篇「第一の願い」はじめての教理問答114~115

 

 主の祈りを今日から6回で見ていきます。イエスが「このように祈りなさい」と教えた祈りのお手本は、第一の願いを「御名が聖とされますように」と祈るのです。

問114 第一の願いごとはなんですか?

答 最初の願いごとは「御名が聖とされますように」です。

問115 「御名が聖とされますように」とはどういう意味ですか?

答 わたしたちやほかのひとたちが、神さまをあがめ敬うように助けてくださいという祈りです。

 どうでしょうか、皆さんにとっての第一の願いは何ですか。私たちの一番の願いは、どんなことでしょうか。イエスは、私たちの願いには色々あるとしても、まず第一に

「御名が聖とされますように」

と祈るよう教えました。それは、ただそう祈るように、という礼儀の問題ではありません。本当に、それこそが一番大切な願いだし、私たちの、心からの願いを整えることなのです。心にはどんな願いがあっても、祈る時にはまず「御名が聖とされますように」と祈っておきなさい、という意味ではなく、本心からまず

「御名が聖とされますように」

と願うことを教えられたのです。

 私たちの本心は、大抵、神の御名よりも、自分の名前、自分の名誉、自分のことでしょう。それは自然なことでもあります。でも、自分のことで誰もが頭がいっぱいになった世界が、皆が自分のことより、神の御名が聖とされますように、と祈る世界になったら、どうでしょう。平和が身近な世界になります。「主の祈り」は、私たちが、第一の願いを神様のことにする人、世界に新しい変化をもたらす人にする祈りなのです。

詩篇一一五1私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
ただあなたの御名に 栄光を帰してください。
あなたの恵みとまことのゆえに。

 それでは、私たちの願いや気持ちはどうでも良いのでしょうか。いいえ、そうではありません。神は私たちを愛して、私たちの必要や心の動き、気持ちをすべてご存知です。私たちを心を持つものとしてお作りになったのも神様です。そして、私たちに、自分の願いよりも、神の御名が聖とされますようにと祈るよう教えられた神ご自身が、神の御名が辱められ、踏みつけられることも構わずに、私たちの救いを願った方です。

「恵みとまこと」

のお方なのです。神は、私たちのために祈り、願うだけでなく、ご自身を捧げてくださいました。三位一体の神は、御子イエスの十字架によって、ご自身を私たちのために捧げてくださったのです。そのような恵みがあるから、私たちは心から、何よりもまず、神ご自身をほめたたえずにはおれないのです。

 「聖とされますように」

とは、実は、そのような意味です。神は、本当に恵みに溢れるお方、一切、利己心や傲慢さがなく、押し付けがましさや見返りを求めることなく、与えて与えて育ててくださるお方です。そういう、利己心のなさこそ、「聖」なのです。

ホセア十一8わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。
わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。

 夕拝で使う新しい翻訳の

「聖とされますように」

の方が元々の意味に近いのですが、朝の礼拝でも使っている今までの「主の祈り」は

「御名をあがめさせたまえ」

でした。「あがめる」というと、褒められる、すごいなぁと称えられる、というニュアンスです。それだけだと、私たちが神の御名をあがめる、賛美する、自分のことは後回しで神を褒めることを神は願っている、と思うでしょう。でも考えてみてください。私たちの周りでも、力が強かったり、能力に秀でて、一番になったり、金メダルを取る人も素晴らしいと思いますが、それ以上に、その栄誉よりも家族を大事にして、勝負を棄権する人こそが、賞賛されるのではありませんか。大豪邸に住むお金があるのに、そのお金で貧しい人を助けるため自分も貧しい暮らしをする人に、心を打たれるのではありませんか。大事な試合の真っ最中に、勝負を捨ててでも、誰かを助けるため、自分を犠牲にするような話に涙を流すのではありませんか。自分が一番だと偉そうにしている人が、命をかけてほかの人を守ろうとするドラマが沢山あるのは、そういう姿にこそ、本当の名誉、本当の尊さがあると、憧れているからなのかもしれません。

 神は、まさしく、自分への賛美を求める以上に、ご自身を惜しまずに与えて、私たちの最善を図ってくださるお方です。ご自身の恵みを現す舞台として、この世界を創造されたお方です。私たちは、この世界を見る時に、あちこちに神が聖なるお方であることを知ります。でも、それを忘れて、自分の損得や、自分が少しでも上に行くことばかりが盛んに言われていることも現実です。だから、私たちは

「御名が聖とされますように」

と祈るのです。すべてのことを通して、神様の聖なる素晴らしさが崇められますように。あらゆることが、神の素晴らしさを現しますように。神が聖であることを知らない人も、神の恵みに触れて、心から神を賛美するようになりますように。そうして、自分の事ばかり祈ったり、祈りさえ見せるためにしている人がいる世界が、神の恵みを喜んで、自分の見栄など忘れてしまう世界になっていきますように、と祈るのです。

 勿論、私たちには沢山の切実な願いもあります。病気になれば、治るように祈ります。犯罪に巻き込まれれば、解決を祈ります。悩ましい出来事が、無事に決着がつくように祈らずにはおれません。困った時にはその困ったことを祈ります。それでも、私たちはどのように祈れば良いか分からない思いをすることが沢山あります。そういう時にこそ「主の祈り」は私たちを助けてくれます。

「主よ、この事を通して、あなたの御名が聖とされますように。私の願いはありますけれど、それが一番ではありません。私ではなく神はあなたです。私の願いが神様のご計画とは違うとしても、どうか、この病気や悲しみや問題を通しても、神さまの御名が聖とされますように」。

 そう祈ることを教えられます。自分の願いや考えよりも大きな、神のご計画を見上げることが出来ます。だからこそ、自分の栄光よりも、神様が賛美されること、神の御名が誉め称えられることが大事な事、一番大切なことだと思い出させてもらえます。私は、そう祈ることによって、心配や怒りや穏やかでない心を静めてもらって、最後には平安を持つことが出来ます。

 第一の願いが、

「御名が聖とされますように」

という祈りであるのは、本当に素晴らしい恵みです。この祈りにいつも立ち戻りながら、歩ませていただきましょう。

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出エジプト記3章1~12節「モーセの召命 聖書の全体像17」

2019-06-16 14:05:07 | 聖書の物語の全体像

2019/6/16 出エジプト記3章1~12節「モーセの召命 聖書の全体像17」[1]

 今まで聖書の最初の創世記からお話しして来ました。天地の豊かな創造と、それを大きく損ねてしまった堕落、その回復のためにアブラハムという老人が選ばれて、彼の子孫を通して、神がすべての人に働きかけて、救いと祝福を下さり、神の民とされる約束を見てきました。その後、アブラハムの子孫がカナンの地からエジプトに降りました。四百年経った頃が、出エジプト記の舞台です。アブラハムの子孫は「イスラエル人」と呼ばれています[2]。しかし、エジプトで彼らは、強制労働にかり出され、苦しい生活を強いられていました。そればかりか、助産婦に命じて、男子は殺すように、女子は生かしておくように、とファラオの命令が下された。そんな悲惨な状態が、一章に書かれています。そのような中で、モーセがイスラエルの民を導き出すリーダーとして立てられました。出エジプト記三章は、モーセが主に召される記事です。

出エジプト記3:7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。

今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
10今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
[3]

 主はイスラエルの苦しみを見て、叫びを聞かれました。主は人の痛みを知っておられるお方。人間の叫びは、主に届き、主はモーセを遣わして、主の愛する民を苦しみの国から導き出してくださいました。この出来事は、神が人の苦しみや叫びを確かに聞いて、そこに介入し、救い出してくださる方であることを力強く教えています。これは、聖書の民にとって、他にない決定的な原点となる体験でした。神は、私たちの叫びを聞かれ、私たちを苦しみから引き上げて、神ご自身の元へと導き出してくださる。それはやがて、モーセにまさるイエス・キリストが完成した福音を指し示すモデルでもありました。そのエッセンスをお話ししましょう。

 神はここで民の苦しみを見、叫びを聞いたと仰り、12節で神は言われます。

「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。」(中略)

14「わたしは、わたしはある(いる)という者である」

 神は、わたしの名は「わたしはあなたとともにいる」だ、と仰るのです。それとは対照的なのがエジプトの国です。エジプトは当時最も文明が進んでいた国でしょう。豊かで、強くて、王ファラオは絶対的な権力を持っていました。その権力で、イスラエル人や庶民を支配し、抑えつけ、扱(こ)き使(つか)い、男は殺し女は生かす、と酷(ひど)い扱いをしていたのです。その神は「わたしがともにいる」と名乗るどころか、人の命を値踏みし、使い潰して構わない神です。安心よりも命令を与え、服従を強いる神。国のための犠牲には目を瞑って、下々の叫びなど聞かずに、黙らせる神。場合によってはうまいことを言っても、前言撤回する、そんな国でした。一つの民族が丸ごと踏みにじられるほど大きなエジプト社会で、人々が苦しみ、呻き、叫んでいる。そういう声を、主は確かに聴かれます。

 そこに介入され、労働力として使い潰されていた人々と「ともにいる」とご自分を名乗られました。更には、そのような国を「奴隷の国」と断罪して、虐げられていた人々を救い出して、エジプトの国の無力さを暴露したのです。神はモーセを通して、イスラエルの民を、酷い扱いから救い出して、神が王として治める新しい歩み、いいえ、本来の人間らしい社会、人が人として扱われる歩みへと招いてくださいました。

 もっとも、それはエジプトの国とかどこかの悪い社会が問題だ、ということではありません。神から離れた生き方(つまり、罪)に外れていった人間は、常に、人を人として扱わず、自分が神のように中心になる世界を造ろうとします。ノアとその家族は大洪水から救われましたが、その子孫はバベルの塔を造りました。エジプトはバベルの塔建設の再挑戦でした。そこから救い出されるイスラエル人も、やがて神殿建設や経済発展、王権の強化を優先して、貧しい人が抑圧されていくのです。「社会が悪い、政治家が悪い」ではなく、私たちの罪、恵みを忘れた心が、人を人としない社会を造るのです。その行き着いた典型が「奴隷の国」エジプトでした。主は、イスラエル人を救ったように、私たちの叫びを聴いて救ってくださるともに、私たちの生き方が、神ならぬもの、恵みならざる基準を王座につけた生き方から救い出そうとされます。神ご自身が神の座に再び帰って来て、「わたしがあなたとともにいる」と仰る神が治める国を始められる。それが、出エジプトであり、神の大きなご計画に繋がっているのです。

 さて、主がイスラエルを導くために選んだのはモーセでした。彼は素直に応じたでしょうか。

11モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」

と抵抗を示します。4章1節でも10、13節でも、最後までこの声から逃げようとします[4]

 この時モーセは80歳。生まれた時は、丁度ファラオがイスラエル人に男の子が生まれたらナイル川に投げ込めと命令が出された頃でした。母親は三ヶ月、その子を隠しましたが、遂に隠しきれず、パピルスの籠に入れて、ナイル川に浮かべます。それを拾ったのが、奇しくもファラオの娘でした。父が殺させていたヘブル人の男の子を、娘がナイル川から拾ってわが子として育てたのです。モーセという名は

「(水の中から)引き出す」

から付けられた名前です。しかし40歳の頃、モーセはエジプト人が奴隷を打ち叩いているのを見て、救おうとして殺したことがきっかけで、エジプトから脱走し、荒野のミディアンに逃れて40年。家族を作り、のんびり過ごしていたのですね。40年前なら、「ファラオの元に行け。わたしの民イスラエルを導き出せ」という声に名誉挽回だと即答したかもしれません。しかし、40年の間に、彼の思いはすっかり萎縮して、億劫になっていました。でも主は、若くて勇敢なモーセではなく、年老いて行きたがらないモーセを選んだのです。モーセにやる気や信仰があるからではなく、自信も期待もないモーセを選んだのです。逃げ腰のモーセに、主が示されたのは、

3:12「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。…」

に尽きました。モーセにその素質があったわけではないのです。ただ、神がともにいるお方だから、神はモーセを召して、ともに歩んでくださいました。生まれてすぐ捨てられたモーセをナイル川から引き出したように、80歳のモーセも荒野から引き出しました。勇気も夢もなく、他者の苦しみや叫びに耳を閉ざした生き方からも引き出して、ファラオの前に立つ勇気まで下さったのです。それは、イスラエル人を奴隷生活から引き出し、新しい民、自由の民とするしるしでした。神は何度でも引き出される神です。やがてはイエスが来られて、私たちをご自身へと引き出してくださいました。「私たち自身の罪の罰から救い出す」だけではないし「罪を赦してくださる」だけでもなく、主は私たちの生き方も心も、世界も、引き出される-罪や暴力や絶望の支配から、人を踏みつけたり見下したりする生き方から必ず引き出されるのです。

 人が人として扱われないことに私たちが鈍感でも、神は叫びを聞いておられます。人が心から神を喜び、互いに愛し、生かし、育て合う世界を取り戻されます。暴言や孤独や拒絶が罷り通っている中、神や宗教など何の役にも立たないと思い込んでいる中で、「叫び声は神に届いている。奴隷の国を終わらせ、神の国が来た」と言う声を私たちは聴いています。イエスは私たちを引き出すために本当に来られました。それも、無敵のヒーローとしてではなく、私たちと同じような人として、悲しみも涙も苦しみも知って、罪に喘ぐ人のそばに来て、友となってくださって、そうして私たちを、生涯掛けて孤独や恐れから引き出してくださる。モーセが聴いて驚いた語りかけを、私たちも今ここで聴いているとは驚くべきことではありませんか。

「ともにいます神よ。あなたの恵みが苦しみや罪に遮られて、多くの叫び声があります。私たちもうめき、同時に、傷つけている者でもあります。どうぞ恵みによって、苦しみの現実や奴隷のように人を扱う心から救い出してください。何があっても何がなくても、あなたがともにいてくださることに、喜びと希望を得て、闇に打ち勝つ光とされて歩むことが出来ますように」



[1] 聖書は天地創造から始まって、やがて新しい天と地の始まる将来が来ることを語って結ばれる、神の大きな物語を描いています。その真ん中にあるのが、イエス・キリストの生涯と十字架の死と復活、そして聖霊が降ったペンテコステです。私たちは、その後の「教会の時代」を生きていますが、イエス・キリストが来るまでの聖書(旧約聖書)の記事から、神がどんなお方なのか、私たちにどのように関わり、どのような約束・慰めを下さるかを教えられるのです。

[2] アブラハムの孫、ヤコブは「イスラエル」という名前を与えられて、その子どもの12人が「イスラエル十二部族」となり、エジプトで増え広がります。それ以来、「アブラハムの子孫」は「イスラエル人」と呼ばれています。

[3] 2章にも「23それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。24神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。25神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」

[4] 出エジプト記4章1節「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」、10節「モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」」、13節「すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」

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