聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

出エジプト記12章1~14節「過越の子羊 聖書の全体像18」

2019-06-25 14:32:38 | 聖書の物語の全体像

2019/6/23 出エジプト記12章1~14節「過越の子羊 聖書の全体像18」

 聖書の物語は、天地創造から始まり、楽園の追放やノアの大洪水、バベルの塔、などいくつもの大事な出来事が続きますが、エジプトで奴隷のように踏みにじられていたイスラエル人を神が救い出してくださった「出エジプト」の事件は、どの出来事より詳しく記されている大きな山場です。そして、この出来事は、やがてイエス・キリストがおいでになって、人を救い出してくださることの準備(難しく言えば「予型」、砕いて言えば「ままごと」)でした。前回は、出エジプトが何からの解放だったのかをお話ししました。それは「ともにいる」と言われる神の世界とは真逆の、人を奴隷とし踏みにじるような社会や心の在り方に、神が入って来られた事でした。主は人を奴隷社会から救い出し、人とともにいる歩みを始めてくださいました。

 今日は、その解放が

 「過越」

と呼ばれている事を心に留めます。主なる神はイスラエルの民を解放しないエジプトの王ファラオに「十の禍」を下します。その最後が、すべての家の長子を打つという禍でした。その禍の前に主がモーセを通してイスラエルの民にこう命じたのです。

2:3…この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。

その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。…その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。

11…これは主への過越のいけにえである。[1]

 そうした家は主が「過ぎ越す」。エジプトの家々の長子を打つために主が来られても、過越の子羊を屠って、その血を玄関に塗り、その肉を焼いて食べた家は過ぎ越す、と約束しました。

12:12その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。

13その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。

 そして29節以下、エジプトの長子が打たれ、イスラエル人は、追い出されるようにして、遂に解放されるのです。この過越を記念して、毎年「過越の祭り」を祝われるのです。その時、

26あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、27あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。

 こう伝え続けるのですね。12章は出エジプト記で最も長く、この過越の大事さを現しています。やがて、1500年後、イエス・キリストがおいでになって「最後の晩餐」をなさったのが「過越の祭り」でした。この食事の席で、イエスは「主の聖晩餐」を設けたのです。

 ただ、「イスラエルの長子は生贄を身代わりにして免れる」のではありません。次の章で、

13:2「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」

とあります。エジプトもイスラエルも、一家の大黒柱である長子さえ、他の誰のものでもなく、主のものです。アブラハムが長子のイサクを捧げた通りです。そして長子が主のものなら、その家全体が主のものなのです。私たちはみな主のものなのです。イサクもファラオの長子もすべての命は、主に帰する命です。

 ところが、人が神から離れてから、自分たちが神のものだということは否定され、忘れられてしまいました。それどころか他の人の命まで自分の思いのままにする関係を造るようになってしまいました。エジプトのファラオは当時イスラエルの人の命を虫螻(むしけら)のように扱っていました。生まれた長子だけでなく男子は皆ナイル川に投げ込ませていました。人を人と思わない国家ぐるみの暴挙がありました。自分の長子を犠牲にすることも厭わずに、頑固だったのです。

 主は、誰かを犠牲にする暴挙を終わらせました。命を造られた主は、人が人として扱われない悪を必ず終わらせます。でもそのために、主ご自身が犠牲を払って下さることによって、私たちを回復してくださいます。主は人に犠牲を求めません。ご自分のために人を犠牲にする方でもありません。神ご自身が私たちのために、命の代価を払って下さる。私たちはそれを戴いて、信じるだけ。それが、神の救いの方法なのです。

 この出来事が示している神の御業の大原則は

《神の救いの方法は命の代償による》

ということです。神はイスラエルの民の叫びを聞いてくださいました。その声なき声に耳を傾けて、解放してくださいました。しかしそのために、子羊の生贄を命じました。私たちは自分で自分を救えませんし、神も自浄努力を求めません。人は「私は無価値。何か、犠牲(努力、神妙さ、善行)をしなきゃ」と思います。ところが、神はそうはハナから考えていません。

 「あなたのためにわたしが犠牲を払う」

と仰るのです。それほど尊んでくださるのです。私たちは、自分の力によってではなく、神が代価を払ってくださることで救われるのです。子羊は、主の怒りを避けるための「妥協策・救済策・代案」ではありません。過越こそ、主が示してくださった、いいえ、主が命じてくださった、「私たちの家々を救ってくださった」御心です。神の側から、人間に子羊の命を生贄とする新しい関係が命じられました。よい行いや神妙な悔い改めでもなく「償いをすれば、子羊を食べて良い」でもありません。ただ、子羊を屠り、血を門の枠に塗り、肉を食べよと命じました。この神の恵みの前に、人は謙虚になり、感謝して恵みを戴くだけです。聖書の契約は、終始一貫、主の一方的な恵みによる回復なのです。それが「十戒」に凝縮された、神の民としての生き方です。出エジプトもひたすら神からの恵みが先立っての救いです[2]。その後も毎年、過越を祝い、この出来事を思い出すのです。「自分たちが良かったから、従ったから、頑張ったから」でなく、主から子羊を生贄とし、それを食べよと仰った。後に洗礼者ヨハネはイエスを指して、

ヨハネ1:29…「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

と言いました。イエスご自身、最後の晩餐の食卓で、種なしパンの食事を指して言われました。

「取って食べなさい[取れ、食らえ]。これはわたしのからだです。」[3]

 使徒パウロもイエスを「過越の子羊」と言います[4]。神はイエスを私たちのために捧げてくださった。神ご自身が長子を亡くす、愛する子を失う思いをしてまで、私たちを解放してくださいました。私たちは、神の子羊であるイエスの代価で買い取られた、尊い命とされました。

ローマ5:8…私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。10敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

 神は初めから、私たちのために身代わりとなる犠牲を惜しまず払うお方でした。その神ご自身からの惜しみない犠牲があるから、人は安心して神に立ち戻ることが出来ます。その神の恵みへの信頼を出発点として、神の民は歩み出す。その一方的な恵みに繰り返して立ち戻りつつ、神の民とされた新しい歩みを踏み出していく。私たちが犠牲を払う必要もありません。人に犠牲を求めたり、代償を要求することも終わりました。私たちの命は、神の子羊であるイエスが代価となって買い取られた命なのです。それゆえに、私たちはお互いの尊い命を、決して踏みにじらないのです。自分の命も他者の命も、大事に育てて行く。誰をも馬鹿にしたり嘘で誤魔化したりせず、私たちのためにご自身を捧げてくださった主を見上げつつ、ともに歩むのです。

「主よ、あなたが初めから贖い主であり、人に恵みの救いを差し出しておられたことを感謝します。そのあなたの憐れみによって、禍は過ぎ越し、あなたのものとされて歩んでいける幸いを感謝します。それなのに、まだ私の犠牲が足りないかのように考えたり、人を裁いたりしてしまうのも、途上にある現実です。どうぞ、私たちを主の糧によって養い、思いを新たにし、私たちの交わりを生き生きと生かされるよう、愛と癒やしと知恵とを与え、育んでください。」



[1] 11節「あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。」

[2] 十戒の序文が「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」であるように(出エジプト記20章2節)、決して《十戒や律法を行うから救われる、行えなければ旧約の時代は救われなかった》ではありません。

[3] マタイ伝26章26節「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」」

[4] Ⅰコリント5章7節「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。」

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はじめての教理問答116~117 ヨハネの黙示録20章20-21節「マラナ・タ」

2019-06-25 14:27:12 | はじめての教理問答

2019/6/23 ヨハネの黙示録20章20-21節「マラナ・タ」はじめての教理問答116~117

 神様は、私たちに聖書を与えてくれました。聖書は、長い年数をかけて、たくさんの人が書いてきた神様の言葉をまとめた本です。イエス・キリストも聖書の言葉を使いました。ですから、教会では聖書を基準に物事を考えます。皆さんにも、毎日、聖書を読むことをお勧めしています。それと同時に、教会が大事にして来た、三つの文書があります。「十戒」「主の祈り」「使徒信条」です。その一つが「主の祈り」です。イエス・キリストが教えて下さった、六つの願いからなる、お祈りのお手本です。これもぜひ、皆さんの毎日に取り入れてください。そして、主の祈りをただ繰り返すだけでなく、そこから自分の願いや周りの必要のためにも祈ってください。先週から、主の祈りを一つずつ見ています。今日は第二の願いですが、まさにこの願いは、私たちが自分のためにも、人のためにも、この世界全体のためにも祈るように教えてくれる祈りです。■

問116 第二の願いごとはなんですか?

答 第二の願いごとは「御国が来ますように」です。

 「御国が来ますように」の「御国」とは、神様の国のことです。また「国」とは王国(キングダム)という言葉です。神が王として治めてくださる国です。神様、あなたの国が来ますように、と祈るのです。私たちは今、日本に住んでいます。世界には沢山の国があります。国によって言葉も考えも、いろんな事が違います。けれども、その全ての国の人が、自分の国よりも大きな「神の国が来ますように」と祈るのです。

 今から二千年前、イエス・キリストが来られた場所は、ユダヤという国です。今のイスラエルという国のある辺りが聖書の舞台です。そしてイエス・キリストがおいでになった時、ユダヤの国は当時ローマ帝国という大きな国によって支配されていました。ローマの国は強くて、豊かでした。しかしユダヤの人たちは、ローマ人ではないので、馬鹿にされたり税金を沢山払ったり、悔しい思いを沢山していました。ですから、ユダヤの人たちは、神様がローマを滅ぼして、自分たちの国をまた建て直してくださるよう、願っていました。一方、ローマ帝国は、皇帝が治めていて、反逆する人たちは容赦なく殺されていたのです。強い国が弱い国を治めたり、戦ったりしている。それは、昔も今も世界中で見られている状態です。そういう中で、イエス様は

 「御国が来ますように」

と祈りなさいと教えました。それは、ユダヤ人にとっては、復讐や反逆を投げ出す在り方です。そして、ローマ帝国にとっては、反逆と見られるような祈りでした。自分たちの国ではなく、神が王となる国が来ると祈るなんて、とんでもない、と思わせたのです。そういう大胆な祈りをイエスは教えたのです。今、私たちがこの日本で

 「御国が来ますように」

と祈るのも、実はとても大胆な祈りです。私たちは、本気で、神が王となってくださる事を待ち望んでいるのです。

 ただし、それは決して、革命とかテロのような方法によってはなされません。武力や政治や力によって、神の国を来たらせることは出来ません。

問117 「御国が来ますように」とはどういう意味ですか?

答 もっともっと多くのひとが神さまの福音を聞き、信じ、従うようにしてくださいという祈りです。

 多くの人が神様の福音を聴き、信じ、従うようになる。それが、神の国が来ますように、ということです。神様がおいでになって、みんなが慌てふためいて、嫌がる人は反逆者として虐められる。そんな出来事は人間の歴史ではよくありますが、神の国はそんな国ではありません。神が王であるとは、人が神に出会って、神を心から信じて、心から従って生きるようになる。そうなることなのです。

 イエス・キリストが今から二千年前に活動をしたのは、30歳の頃の3年間だけでした。イエスは

 「悔い改めなさい。神の国は近づいた」

という言葉から宣教を始めました。イエス・キリストは神の子、神の国の王です。イエス・キリストが来たのは、この世界に、神の国が来たことの始まりだったのです。そして、イエスは、人々の神の国がどんな国なのかを教えて下さいました。譬え話や、奇蹟や、病気の癒やしで、また一緒に過ごしたり、一緒に食事をしたりすることで、神の国がどんな国なのかを教えてくださったのです。ユダヤ人でもローマ人でも、日本人もインドネシア人も、韓国人もアメリカ人も、今どの国の人でも、誰一人、馬鹿にされたり苦しめられたりしないのが、神の国です。神は、国が争ったり、国が違うからと嫌な思いをしたりすることを終わらせます。神が王として来てくださる。その嬉しい知らせを信じて、私たちは生きていくのです。

 今日は、ヨハネの黙示録24章20節、聖書の一番最後の言葉を読みました。

20これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

21主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。

 主イエスよ、来て下さい。この祈りが聖書の結びにあるのです。この言葉は、教会でとても大切にされていました。そして「主よ来て下さい」という代わりに

 「マラナ・タ」

とも言われていました。イエスが話していたアラム語の「来たまえ(マラン)主よ(アタ)」を、そのまま教会の中で用いたのです。ローマ帝国で、ローマ市民もギリシャ人も他の国の人々も、片隅のユダヤ人の言葉で「マラナ・タ」と声を合わせて、「主よ、来て下さい」と祈っていたのです。どんな国の人も、一緒に「主よ、来て下さい」と願うようになった。そこに、もう、イエスが仰った「神の国が近づいた」という知らせが形になっていたのです。国も言葉も肌の色や文化も越えて、一緒に

 「神様、あなたの国が来ますように」

と祈るようになりました。素晴らしい始まりです。

 今、世界は随分仲良くなりました。世界の人たちと繋がるようになりました。でもまだ国が違うと争うことがあります。同じ国の中でも喧嘩や虐めがあります。その仕返しをしたり、心が憎しみや悲しみで一杯になったりしています。その心にも、イエス・キリストは来て下さいます。私たちを癒やし、また誰かを憎んだりバカにしたりする心を恥じるようにしてくれるでしょう。そうして、全ての人が、神の国の中でともに祝う時を迎えるのです。その時が来ますように、と祈ります。その時は必ず来ると、信じて祈ります。そして、その時がもう来ているかのように、今ここでも歩みましょう。本当の王である神様以外のものを恐れずに、神の御国の民として一緒に生きていきましょう。

God' Dream by Desmond Tutu

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