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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

受難週「棕櫚の主日」礼拝 マタイ26章36~46節「イエスの祈り」

2019-04-14 15:38:14 | 聖書

2019/4/14 マタイ26章36~46節「イエスの祈り」

 イエスは今から二千年ほど前、イスラエルのエルサレムで、十字架に付けられて死に、三日目に復活されました。時は、ユダヤの「過越の祭り」というお祭りで、このお祭りは毎年、春分の日以降の満月を基準に、毎年日付が変わりました。そこで、教会がイエスの十字架と復活を記念する「受難週」も、春分の日の次の満月に合わせて決まる「移動祝日」となっています。今年は、今日からの一週間を受難週、そして来週の日曜日を復活主日として世界で祝うのです。

 今日は「ゲツセマネの祈り」として知られる箇所を読みます[1]。この祈りの後にイエスは民衆に捉えられて裁判にかけられ、翌日十字架によって処刑されます。その事を既に知っていたイエスが、御自分の最期を思い、祈りに三時間を費やして、父に祈られた姿がここに記されています。ここでイエスは

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」

と言われます。

「ひれ伏して祈られた」

とありますが、当時の祈りは立って顔を天に向ける姿勢でしたから、ひれ伏すのは立っていられない程の緊張、恐れだったのでしょう。ルカ伝には、

イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。[2]

という一文が入った写本もあります。本当に激しく、苦しい思いでした。イエスが十字架にかかられたこと、私たちが今も毎年受難週を覚え、世界中の教会とともに想うキリストの苦難は、私たちの想像を絶する、リアルな苦しみでした。本当にイエスは、残酷極まりない拷問の十字架にかかり、弟子たちに裏切られる孤独、為政者や通行人から笑われる辱め、そして、何よりも天の父から見捨てられるという底知れない恐怖-思うだけでも立っておれず汗がほとばしる苦しみ、死ぬ程の悲しみを体験しました。それが

「この杯」

です。イエスはその杯を飲んだのです。しかし、それはイエスにとっても堪え難いものでした。ですからイエスは正直に

「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」

と、率直に祈っています。十字架や鞭打ちや嘲り、人間が与えた暴力から目を逸らして「イエスだから我慢できたのだ、十字架も神の子イエスは喜んで背負われたのだ」と簡単に考えてはなりません。イエスにとっても考えるだけで堪え難いことでした。そして実際に十字架を負い、身も心も引き裂かれて、最後には力尽き、息絶えたのです。その恐ろしさに、人でもあったイエスは決して平気なふりや、強がることなどせず、恐れる自分をさらけ出しました。同時に、

「…しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

とも祈りました。イエスは、自分の願いを正直に訴えつつ、それ以上に、天の父なる神が望まれることを優先して欲しいと、自分を明け渡したのです。

 この

「あなたが望まれるまま」

とは何でしょうか。結果的には、それはイエスが

「この杯」

を飲むこと(=十字架にかかること)です。けれどもイエスは以前から、天の父なる神の御心を丁寧に語っていました。ここで「望む」と訳されている言葉をマタイ伝で辿るだけでも、こんな言葉が浮かびます。

9:13「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

 このように、神の願い(望み、御心、喜び)は真実の愛です。この言葉は欄外にもあるように

「あわれみ」

と訳されるですが、元々のホセア書6章6節が

「真実の愛」

と訳される「ヘセド」という「真実、恵み、変わらない愛」などとても深く豊かな訳しきれない意味の言葉です。マタイはこのホセア書を二回引用して、神の御心が真実の愛であることを強調します[3]。そしてそれが現れるのは、神の

「罪人を招く」

御業に現れています。更に、18章14節でも、

小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父の御心ではありません。

と言われています。天の父の御心は、真実の愛(ヘセド)であり、罪人を招くこと、小さい者たちの一人も滅びないことを願う、憐れみなのです。この御心の具体的な現れとして、イエスは来られました。ゲツセマネの時だけ、

「あなたが望まれるように」

と祈ったのではなく、イエスの御生涯全体が、天の父の御心を現すものでした。イエスが来られた事自体が、天の父の望まれるままに従ったことでした。そして、イエスはハッキリと天の父が喜びとするのは、いけにえではないと仰っています。神は罪人を罰して滅ぼさずにはおれない方ではありません。また、罪人を罰する代わりにイエスの十字架という

「いけにえ」

で満足する方でもありません。天の父の御心は、罪人だろうと取るに足りないとされる者だろうと、滅びないことです。それは、神が

「真実の愛」

のお方だからです。しかし、だからこそ、人が神との関係に背いて罪を持ち込み、神を愛さなくなったことは測り知れないダメージをもたらしてしまった出来事です。その結果の個々の罪も、償いが必要です。しかし、その償いによって関係を修復することは出来ません。神との「真実の愛」は、どんな生贄や償いによっても癒やせません。それは、ただ一つ、神ご自身が命を賭けてその傷を塞いでくださる事によってのみ、修復できるのです。そして、神はそうすることを願って止まず、実際にそうしてくださるお方です。神ご自身がどんな犠牲も犠牲と思わずに払うことも惜しまない程の憐れみのお方です。それがイエスを遣わして、その十字架によって果たされる「贖い」です。イエスも、父のその「望まれるまま」に心から同意して、この恐ろしい杯を引き受けることをも祈っておられるのでしょう。十字架にかけるのが御心だ、というのではなく、罪人を滅ぼさず、招かれる御心への明け渡しなのです。

 それでも、イエスがこの世界と神との架け橋になることは、身悶えする程の苦しみが伴いました。真実の愛である神に背いた人間を取り戻すためには、イエスご自身が死ぬ程の悲しみ、孤独を味わわれなければなりませんでした。口先だけで「君のためなら何でもする。愛しているから何でもしてあげる」というのは簡単ですが、それが口先だけでなく本物の愛であることがこの世界と神との関係を償うために最大に悲しまれたイエスのお姿には証しされています。神と私たちとの間に立つことの、とてつもない苦しみと、そうしてでも人を神に立ち帰らせたいという御心、この二つの相反する思いに引き裂かれる葛藤を、イエスは引き受けたのです。

 イエスはこのようにして、十字架に至る苦難へと進まれました。繰り返しますが、それは十字架という苦難が父の御心だという以上に、父が私たちを招いてくださるという御心を見遣ったことでした。私たちはこのイエスの十字架によって救われます。しかし、それがゴールではありません。ここには、私たちも、天の父の御心が生贄ではなくて憐れみである。真実の愛であることが最大級に現されています。であるならば、今ここでの私たちの生き方も、イエスのように父なる神の御心を行うものへと変えられて行く道が続いている、と改めて思います。

6:10「みこころが天で行われるように地でも行われますように」

7:21「主よ、主よ、というものではなく、天にいますわたしの父の御心を行う者が」

12:50「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

 現実に生きる中で、苦しみや悲しみを私たちは体験します。それは勿論避けたい痛みです。でも時として「神の御心があるのに、恐れや不安など不信仰だ。口先だけでも感謝や従順の祈りを捧げるべきだ」と思ったりしませんか。或いは「どうせ御心しかならないのだから」と思って、苦しみも控え目に曖昧な祈りをしていたりします。しかし、イエスのように、恐れや悲しみや願いを率直に祈りつつ、主の深い御心がなりますように、と自分を差し出すような生き方へと私たちは招かれています。主の御心は犠牲を求めるような「御心」ではなく、真実な愛に満ちた御心です。私たちは、自分の痛みや弱さも正直に申し上げつつ、それよりも遥かに大きな父の御心を想い、この世界の苦しみや罪や分断を贖う御心を知らされています。だから正直に自分の願いや痛みを祈りつつ、あなたが望まれるままに、と祈るのです。

「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

 こういう関係を、私たちに与えるためイエスは十字架にかかりました。この祈りを手本に、私たちも、正直な願いと、それを超えて大きな主のあわれみを信じて祈るようにするのが、イエスの果たされる「御心」です。そのためにイエスは、世界にある様々な悲しみの中に立って、不条理や矛盾や葛藤を味わってくださいました。イエスは生きる難しさを味わい知っています。そして今もイエスは私たちとともにいて、私たちの生活を通して御心を果たし続けておられるのです。

「主イエス様。あなたの十字架と、包み隠さぬ願いと、御父への信頼は、何と尊い御業でしょう。本当に私たちと一つとなり、私たちを神との生きた交わりに招き入れてくださり感謝します。確かに罪の赦しが与えられ、神の子とされた恵みを感謝します。受難週、主の苦しみと、父の御心との確かさを思い、私たちのうちにもこの主の祈りを教え、願いとさせてください」



[1] 「ゲッセマネ」と呼ばれることが多いですが、旧「新改訳 第三版」も「新改訳2017」、また「新共同訳」でも、「ゲツセマネ」としています。

[2] ルカ二二44。

[3] この言葉は、十二7でも繰り返されます。


はじめての教理問答95~96 エペソ書6章1~3節「敬えるしあわせ」

2019-04-07 16:52:45 | はじめての教理問答

2019/4/7 エペソ書6章1~3節「敬えるしあわせ」はじめての教理問答95~96

 夕拝で、十戒を見てきました。十戒、「十の言葉」は前半が主に対する姿勢、後半が人に対する姿勢を取り上げています。今日は第五戒を見ます。第五の戒めは、前半の主に対する戒めと、後半の人に対する戒めをつなぐ、結びとなる内容です。

問95 第五の戒めはどういうものですか?

答 第五の戒めは、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」です(出エジプト20:12)。

問96 第五の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答 両親や、神さまが目上のひとと定められたすべてのひとを愛し、従うことを教えています。

 第五の戒めは

「あなたの父と母を敬え」

です。父と母だけでなく「神様が目上の人と定められた全ての人を愛し、従うこと」まで含んでいます。先日、高校を卒業して一人暮らしを始めたばかりの方が、こんな話をしてくれました。「今まで自分は『親なんか絶対敬えない。うるさいし、勝手だし。家と食事とお金さえくれればいい』と思ってきたけれど、一人暮らしを始めて、何も生活が分からない。どれだけ自分が親に助けられてきたか。そもそも自分がいることが親のお陰だって分かって、親を敬おうと思った」。そんな話を正直にしてくれました。とても心に響きました。

 聖書に「父と母とを敬え」とあっても、父と母を敬うことが出来ないこともあります。いいえ、聖書が「父と母を敬え」と書くこと自体、自分を生んで育ててくれた親を敬うことが当たり前ではない、あえて言われなければならないぐらい、家庭や親子の関係が崩れている証拠でもあります。この次に

「殺してはならない」「姦淫してはならない」

と続きますが、

「父と母を敬え」

はそれより先で、それも「あなたの齢が長くなるためである」という約束が伴っています。今日のエペソ書でパウロはもっと言い換えます。

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。

 この戒めは五つ目ですが、

「第一の戒め」

と言われるぐらい、実際の生活では、殺すな、姦淫するな、よりも先に来る大事な戒めなのです。親子関係は、人にとって生まれた時から始まっている基本的な関係です。親との出会いは、自分との出会いよりも先にあるのです。親との関係を整えることは、大きな幸せなのです。

 とはいっても、決して、親を理想化して、何でも親の言う事に服従せよ、ということではありません。「主にあって従う」と言います。親に従うことが主にある在り方、キリストによって始まった新しい生き方を損なうようなら、立ち止まって良いのです。親も人間で、間違うこともあります。自分の不安を押しつけたり、無理難題をふっかけてきたり、時には虐待や犯罪を命じる場合さえあります。イエスご自身も、母マリアに口答えをしたり、願いに素っ気なくされたりしました。しかし、その事によって、マリアはハッと気づかされて、賢明な行動を取ったのです。私たちも「おかしいな、嫌だな」と思いつつ従うのではなく、親の間違いや限界を見極めて、ノーはノーと言うのです。しかし、親の間違いや弱さを受け入れつつ、それでも敬うこと。その言葉に耳を傾けること。いろいろあっても、お父さん、お母さんがいてくれての自分である事実を受け止めることは、幸せなことです。親を敬うことで幸せがご褒美にもらえるというのではなく、親を敬えること自体が、幸せな心なのです。聖書の最初には、

創世記二24…男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

とあります。人が父と母を離れる。親離れする。それは「敬う」ことと矛盾しません。また、旧約聖書の一番結びのマラキ書の、その最後の言葉はこれです。

四5…わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。…

 これも「親離れ」と矛盾しません。人は父と母を離れて自立するとともに、互いに向き合い、敬っていくのです。これが旧約聖書最後の約束です。それくらい、世界の親子関係はもつれています。近い家族だからこそ、こじれてしまいます。そして、一番近い家族での関係で、尊敬がないことは、本当に悲しいことです。親を尊敬できないなら、尊敬できない親の子どもである自分にも深い失望を持つそうです。親を敬えないと、自尊感情も持ちにくいのだそうです。そして親への反抗とか、「親のせいだ」と引っかかったまま生きることになります。いつも心の中に、親への敬えない心があって、それが自分が親になることにも影響してしまうことがあります。それはとても不幸なことです。

 主は、そのような関係を癒やすために

「あなたの父と母を敬え」

と言われます。いいえ、主が遣わして下さる方によって、

「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」

と約束してくださったのです。最近

「自分を愛するように隣人を愛するとは、自分の不完全さを受け入れて、隣人を愛することです」

という言葉を読み、心に留まりました。それは親子関係にも当てはまることでしょう。親の過去の間違いが消えることはありません。完璧な親に変わる訳でもありません。自分の性格や過去も変わらないでしょう。その不完全さを受け入れて、父と母をも敬えるようになる。敬えるような心を、主は与えてくださるのです。その時、人は「私は、お父さんとお母さんの子で良かった」と本当に心から言う事が出来る。それは他の幸せとは比べられない幸せです。

Ⅰテモテ二1…すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。

 第五戒は、親だけでなく、目上の人、社会で上に立てられているすべての人にも、十分な敬意を払うことを語ります。権威を軽んじる人は聖書では強く諫められています。権威には危険が伴い、間違った権威を正当化することは出来ません。でも、社会の中で秩序を守ることは安心できる生活に直結しています。

「私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活」

が出来るのは、社会を保つ権力者たちなのです。その務めを果たせるよう、理解し敬うことが、私たちの幸せになります。親も目上の人も完璧ではありませんから、その人のために尊敬を持って祈ろうではありませんか。