聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答97~98 マタイ伝5章12~26節「怒りにまかせない」

2019-04-14 16:07:08 | はじめての教理問答

2019/4/14 マタイ伝5章12~26節「怒りにまかせない」はじめての教理問答97~98

 夕拝では十戒を学んでいます。今日は第六の戒め、「殺してはならない」です。

問97 第六の戒めはどういうものですか?

答 第六の戒めは、「殺してはならない」です(出エジプト20:13)。

問98 第六の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答  ひとのいのちを、不正に奪わないこと、そして怒りにまかせて罪を犯さないことを教えています。

 これは驚きですが、今読んだマタイ伝5章では確かにイエスは、

「殺してはならない」

という教えを

「兄弟に対して怒る者」

も同罪だと直結しています。兄弟を「馬鹿者」と見下す行為も、裁きに値すると言います。「ゲヘナ」とは元々、エルサレムのゴミ捨て場の谷で、いつもゴミを燃やす火が燃えていました。転じて、ゲヘナと言えば、神の裁きによって捨てられる場所、怒りの炎が永遠に燃えている場所のイメージになりました。兄弟に「愚か者」という者は、燃えるゲヘナに投げ込まれる、というのです。

 もちろん、

「殺してはならない」

とは「怒ってはならない」という事だけを言いたいのではありません。怒りとは無関係であっても、人を殺すこと、どんな人の命をも踏みにじることは禁じられています。他人の命だけでなく、自分の命であっても殺してはなりません。他殺も自殺も、神は喜ばれません。命は神のものであって、人が奪ってはならない。私たちは、どんな人の命も軽々しく扱ってはなりません。

 しかし、殺さなければ良いのか、と言えば、そうではなく、もっと深く、もっと積極的に、イエスは私たちにこの聖句の意味を教えます。それが、この「怒り」への言及なのです。誰かに対して怒ることは、殺人に等しい罪です。神は、私たちが誰をも殺さないことだけで満足されるのではなく、怒ることさえ望まれません。人との喧嘩、突発的な犯罪は、何かがあったときに怒りに駆られ、その勢いで相手を殴ったり首を絞めたりして起きるものでしょう。その最悪の形の殺人までは行かなくとも、その手前でも口をついて出て来るのは「馬鹿野郎」とか「お前なんか分からず屋だ」というような見下す言葉です。そして、そのような言葉を言われた相手は「馬鹿と言ってくれてありがとう」と思うでしょうか。いいえ、「馬鹿」「愚か者」という言葉は、大げんかや、心を深く傷つけるトラウマになり、心の病や自殺さえ引き起こすことがあります。

 因みに「怒る」という言葉は動詞です。行動です。兄弟に対して怒る、怒りをぶつける、怒りに任せて何かをすることに触れています。嫌なことがあった瞬間に、私たちの心には怒りの感情がわき起こります。カチンときたり、強く悲しく思ったりする。そういう怒りの感情は「痛い」「悲しい」と同じで、人の心の反応として当然のものです。心で怒ること自体が罪として禁じられているとまでは思わなくてよいでしょう。ただし、怒りは強い力を持っています。ですから、押さえ込むと溜め込むだけで却って爆発します。そういう失敗を、私は沢山してきました。また、怒りを感じないようにすると、心の感情全部が固まって無感覚になってしまいます。熱い怒りの代わりに、冷たい軽蔑、嫌

悪、憎悪を握りしめてしまうことにもなります。感情が違う形になっただけです。こうした私たちの心の感情は、とても大切です。怒りや憎しみの感情にまかせて罪を犯さないためにこそ、怒りを自分の心の中で、封じ込めずに、向き合う方が良いのです。現代も、子どもだけでなく大人でも、何かの弾みでぶちギレて暴力を起こす事件が続いています。「アンガーマネジメント」という怒りの感情の扱い方を学ぶ講座も広がっています。怒りとの上手なつきあい方が切実に必要になっています。

 聖書にも、怒りは決して恥じられていません。腹が立ったことを率直に、激しく、神様に祈っている祈りが、詩篇には沢山出て来ます。例えば、詩篇139篇19節以下では、

神よ どうか悪者を殺してください。人の血を流す者どもよ 私から遠ざかれ。

彼らは敵意をもってあなたに語り あなたの敵は みだりに御名を口にします。

主よ 私はあなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。

あなたに立ち向かう者を 嫌わないでしょうか。

私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。 彼らは私の敵となりました。

 そうして、自分のうちにある怒りを神に対して吐き出しています。具体的に、ストレートに、余さず露わにしています。これを人に対してぶつけたり、怒りにまかせた行動を取ったとしたら、悪になるでしょう。けれども、その怒りを主に対して聴いていただく時、怒りを言葉にして言い表す時、逆説的に私たちは怒りに振り回されない生き方が出来ます。人の挑発に乗らない、賢明な生き方が選択できます。怒りに任せて罪を犯して、裁きを招くよりももっと良い道が、神との関係にあるのです。

 マタイ5~7章でイエスは「山上の説教」と呼ばれる大事な説教を語っています。

マタイ五17わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

 こう言われて最初に語ったのが、今日の「殺してはいけない」の「怒り」の問題です。イエスは「殺すな、怒りもするな」と命じた、のではありません。それでは律法は更に成就しにくくなるだけです。高尚な律法を言われても、私たちは守れません。それこそ「出来ない俺は馬鹿者だ。きっと神もお怒りに違いない」と思って、生きていけません。だからこそ、イエスは来て下さいました。そしてイエスはこの私たちを怒るのではなく、愛してくださった。私たちを馬鹿にしたり見下したりせず、私たちのために命を捨ててくださいました。そうして、罪を怒らないばかりか、心に愛や喜び、赦し、人を受け入れる思いを下さいます。生涯、働き続けて、人との関係も、自分の中の思いも深く取り扱ってくださいます。私たちが殺さないだけでなく、怒りに借られて罪を犯したり、馬鹿者と口走ったり、愚か者だとレッテル貼りをすることからも自由にしてくれます。それでこそ、イエスが律法を成就するために来た、という言葉は果たされるのです。

 殺人はなくても虐めや嘲り、人を貶めて楽しんで、でも心が殺伐としている社会です。それでもイエスは私たちを愛し、生かし、私たちが互いに生かし合うように働いておられます。勇気を出して「殺さない」だけでなく、生かし合う関係を作りましょう。人を馬鹿にせず、自分のうちの痛みをも丁寧に扱いましょう。どんな人も、生きる価値があり、笑われていい人は一人もいない。そう確信できるとはなんと幸いなことでしょう。

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受難週「棕櫚の主日」礼拝 マタイ26章36~46節「イエスの祈り」

2019-04-14 15:38:14 | 聖書

2019/4/14 マタイ26章36~46節「イエスの祈り」

 イエスは今から二千年ほど前、イスラエルのエルサレムで、十字架に付けられて死に、三日目に復活されました。時は、ユダヤの「過越の祭り」というお祭りで、このお祭りは毎年、春分の日以降の満月を基準に、毎年日付が変わりました。そこで、教会がイエスの十字架と復活を記念する「受難週」も、春分の日の次の満月に合わせて決まる「移動祝日」となっています。今年は、今日からの一週間を受難週、そして来週の日曜日を復活主日として世界で祝うのです。

 今日は「ゲツセマネの祈り」として知られる箇所を読みます[1]。この祈りの後にイエスは民衆に捉えられて裁判にかけられ、翌日十字架によって処刑されます。その事を既に知っていたイエスが、御自分の最期を思い、祈りに三時間を費やして、父に祈られた姿がここに記されています。ここでイエスは

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」

と言われます。

「ひれ伏して祈られた」

とありますが、当時の祈りは立って顔を天に向ける姿勢でしたから、ひれ伏すのは立っていられない程の緊張、恐れだったのでしょう。ルカ伝には、

イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。[2]

という一文が入った写本もあります。本当に激しく、苦しい思いでした。イエスが十字架にかかられたこと、私たちが今も毎年受難週を覚え、世界中の教会とともに想うキリストの苦難は、私たちの想像を絶する、リアルな苦しみでした。本当にイエスは、残酷極まりない拷問の十字架にかかり、弟子たちに裏切られる孤独、為政者や通行人から笑われる辱め、そして、何よりも天の父から見捨てられるという底知れない恐怖-思うだけでも立っておれず汗がほとばしる苦しみ、死ぬ程の悲しみを体験しました。それが

「この杯」

です。イエスはその杯を飲んだのです。しかし、それはイエスにとっても堪え難いものでした。ですからイエスは正直に

「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」

と、率直に祈っています。十字架や鞭打ちや嘲り、人間が与えた暴力から目を逸らして「イエスだから我慢できたのだ、十字架も神の子イエスは喜んで背負われたのだ」と簡単に考えてはなりません。イエスにとっても考えるだけで堪え難いことでした。そして実際に十字架を負い、身も心も引き裂かれて、最後には力尽き、息絶えたのです。その恐ろしさに、人でもあったイエスは決して平気なふりや、強がることなどせず、恐れる自分をさらけ出しました。同時に、

「…しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

とも祈りました。イエスは、自分の願いを正直に訴えつつ、それ以上に、天の父なる神が望まれることを優先して欲しいと、自分を明け渡したのです。

 この

「あなたが望まれるまま」

とは何でしょうか。結果的には、それはイエスが

「この杯」

を飲むこと(=十字架にかかること)です。けれどもイエスは以前から、天の父なる神の御心を丁寧に語っていました。ここで「望む」と訳されている言葉をマタイ伝で辿るだけでも、こんな言葉が浮かびます。

9:13「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

 このように、神の願い(望み、御心、喜び)は真実の愛です。この言葉は欄外にもあるように

「あわれみ」

と訳されるですが、元々のホセア書6章6節が

「真実の愛」

と訳される「ヘセド」という「真実、恵み、変わらない愛」などとても深く豊かな訳しきれない意味の言葉です。マタイはこのホセア書を二回引用して、神の御心が真実の愛であることを強調します[3]。そしてそれが現れるのは、神の

「罪人を招く」

御業に現れています。更に、18章14節でも、

小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父の御心ではありません。

と言われています。天の父の御心は、真実の愛(ヘセド)であり、罪人を招くこと、小さい者たちの一人も滅びないことを願う、憐れみなのです。この御心の具体的な現れとして、イエスは来られました。ゲツセマネの時だけ、

「あなたが望まれるように」

と祈ったのではなく、イエスの御生涯全体が、天の父の御心を現すものでした。イエスが来られた事自体が、天の父の望まれるままに従ったことでした。そして、イエスはハッキリと天の父が喜びとするのは、いけにえではないと仰っています。神は罪人を罰して滅ぼさずにはおれない方ではありません。また、罪人を罰する代わりにイエスの十字架という

「いけにえ」

で満足する方でもありません。天の父の御心は、罪人だろうと取るに足りないとされる者だろうと、滅びないことです。それは、神が

「真実の愛」

のお方だからです。しかし、だからこそ、人が神との関係に背いて罪を持ち込み、神を愛さなくなったことは測り知れないダメージをもたらしてしまった出来事です。その結果の個々の罪も、償いが必要です。しかし、その償いによって関係を修復することは出来ません。神との「真実の愛」は、どんな生贄や償いによっても癒やせません。それは、ただ一つ、神ご自身が命を賭けてその傷を塞いでくださる事によってのみ、修復できるのです。そして、神はそうすることを願って止まず、実際にそうしてくださるお方です。神ご自身がどんな犠牲も犠牲と思わずに払うことも惜しまない程の憐れみのお方です。それがイエスを遣わして、その十字架によって果たされる「贖い」です。イエスも、父のその「望まれるまま」に心から同意して、この恐ろしい杯を引き受けることをも祈っておられるのでしょう。十字架にかけるのが御心だ、というのではなく、罪人を滅ぼさず、招かれる御心への明け渡しなのです。

 それでも、イエスがこの世界と神との架け橋になることは、身悶えする程の苦しみが伴いました。真実の愛である神に背いた人間を取り戻すためには、イエスご自身が死ぬ程の悲しみ、孤独を味わわれなければなりませんでした。口先だけで「君のためなら何でもする。愛しているから何でもしてあげる」というのは簡単ですが、それが口先だけでなく本物の愛であることがこの世界と神との関係を償うために最大に悲しまれたイエスのお姿には証しされています。神と私たちとの間に立つことの、とてつもない苦しみと、そうしてでも人を神に立ち帰らせたいという御心、この二つの相反する思いに引き裂かれる葛藤を、イエスは引き受けたのです。

 イエスはこのようにして、十字架に至る苦難へと進まれました。繰り返しますが、それは十字架という苦難が父の御心だという以上に、父が私たちを招いてくださるという御心を見遣ったことでした。私たちはこのイエスの十字架によって救われます。しかし、それがゴールではありません。ここには、私たちも、天の父の御心が生贄ではなくて憐れみである。真実の愛であることが最大級に現されています。であるならば、今ここでの私たちの生き方も、イエスのように父なる神の御心を行うものへと変えられて行く道が続いている、と改めて思います。

6:10「みこころが天で行われるように地でも行われますように」

7:21「主よ、主よ、というものではなく、天にいますわたしの父の御心を行う者が」

12:50「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

 現実に生きる中で、苦しみや悲しみを私たちは体験します。それは勿論避けたい痛みです。でも時として「神の御心があるのに、恐れや不安など不信仰だ。口先だけでも感謝や従順の祈りを捧げるべきだ」と思ったりしませんか。或いは「どうせ御心しかならないのだから」と思って、苦しみも控え目に曖昧な祈りをしていたりします。しかし、イエスのように、恐れや悲しみや願いを率直に祈りつつ、主の深い御心がなりますように、と自分を差し出すような生き方へと私たちは招かれています。主の御心は犠牲を求めるような「御心」ではなく、真実な愛に満ちた御心です。私たちは、自分の痛みや弱さも正直に申し上げつつ、それよりも遥かに大きな父の御心を想い、この世界の苦しみや罪や分断を贖う御心を知らされています。だから正直に自分の願いや痛みを祈りつつ、あなたが望まれるままに、と祈るのです。

「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

 こういう関係を、私たちに与えるためイエスは十字架にかかりました。この祈りを手本に、私たちも、正直な願いと、それを超えて大きな主のあわれみを信じて祈るようにするのが、イエスの果たされる「御心」です。そのためにイエスは、世界にある様々な悲しみの中に立って、不条理や矛盾や葛藤を味わってくださいました。イエスは生きる難しさを味わい知っています。そして今もイエスは私たちとともにいて、私たちの生活を通して御心を果たし続けておられるのです。

「主イエス様。あなたの十字架と、包み隠さぬ願いと、御父への信頼は、何と尊い御業でしょう。本当に私たちと一つとなり、私たちを神との生きた交わりに招き入れてくださり感謝します。確かに罪の赦しが与えられ、神の子とされた恵みを感謝します。受難週、主の苦しみと、父の御心との確かさを思い、私たちのうちにもこの主の祈りを教え、願いとさせてください」



[1] 「ゲッセマネ」と呼ばれることが多いですが、旧「新改訳 第三版」も「新改訳2017」、また「新共同訳」でも、「ゲツセマネ」としています。

[2] ルカ二二44。

[3] この言葉は、十二7でも繰り返されます。

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