聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問38「神を限りなく喜びとするようになる」

2015-03-08 16:59:30 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/03/01 ウェストミンスター小教理問答38「神を限りなく喜びとするようになる」

                                                        マタイの福音書十章32~33節

 

 よく、「人は死んだら天国に行く」という言い方を聞きます。今日は、それに近い話です。先週は、私たちが死ぬ時にいただく益を見ました。死んですぐに天国に行くのではなく、聖書から私たちが教えられているのは、やがてもう一度イエス・キリストが来られて世界を終わらせなさる。その時に、イエス様はすべての人を復活させられて、永遠の滅びか、永遠の天国に分けられるのですね。今日は、その時のことを話して、復活の時にキリストから受ける「益」を教えられるのです。

問 信者は復活のとき、キリストからどのような益を受けますか。

答 復活のとき信者は、栄光のうちによみがえらされたのち、裁きの日に[キリストのものとして]公に認められ、無罪とされ、また、全くの永遠まで、完全に祝福されて神を限りなく喜びとするようになります。

 イエス様は、約束してくださいました。

ヨハネ十一25…「わたしを(イエス様を)信じる者は、死んでも生きるのです。…」

 イエス様は、私たちをよみがえらせてくださり、いのちを与えてくださるのですね。栄光のうちによみがえらされる、と言われています。

 この言葉を聞いて、こんなことを考えた人がいました。「よみがえるのはいいけれど、もしそれが、栄光のうちにじゃなくて、腐ったままひどい状態でよみがえるならどうなるんだろう?」 そんな想像をしてあの「ゾンビ」の映画が生まれたらしい、という話を聞いたことがあります。本当に、そんな復活ならしない方がましです。人間はいろいろなことを考えますが、神様のご計画はそんなものではないのですね。ただよみがえるだけじゃなくて、神様の素晴らしさの中によみがえらせていただく。だから、希望が持てるのだなぁ、と思わずにおれません。先に読んだ言葉にもありました。

マタイ十32ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

 イエス様が、私たちを、ご自身のものとして、公に認めてくださるのですね。その逆は、イエス様が私たちのことを認めない。「わたしはあなたのことは知らない」と言われてしまうことです。イエス様はそのような人たちもいると仰いました。

マタイ七23…「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

と言われる人もいる。自分では神様に誉めてもらえる、自分が天国に入れて戴けないなんて事はない、とすっかり思い込んでいた人です。自信満々の人たちでした。しかし、イエス様の御国は、そのように思い上がった人たちの場所ではありません。自分を高くする人ではなく、自分を低くして、神様を崇めて、神様を信じる人たちの国が、神様の御国ですね。だから、神の子イエス様が、「わたしを信じなさい。わたしを信じる者をわたしは決して捨てない。わたしはあなたがたに永遠のいのちを与えるよ」と仰ってくださっていることが有り難いなぁと思うのです。そして、復活のときにはイエス様が、

「わたしはあなたを知っている。あなたはわたしのものだ。あなたはわたしの愛する者だ。さあ、永遠の祝宴にはいりなさい。わたしはあなたのために場所を用意しておいたよ」

 必ずそう言って戴けると約束されているのですね。そして、イエス様はその時だけ、取って付けたように、私たちを認めてくださるのではありません。今も、イエス様は私たちを知っておられ、ご自分のものとしてくださっているのです。ずっと、私たちとともにおられ、愛して、導き、守っていてくださるのです。そして、やがてどんな死に方をして死ぬとしても、終わりの時には、栄光のうちによみがえらせてくださって、公に私たちを認めてくださるのです。

 今日のこの問で、ウェストミンスター小教理問答の前半(教理篇)が終わって、次から後半(生活篇)に入って行きます。教理篇の最後が、この復活のときの「益」です。でも、その後、永遠が始まるのです。あと何十年で私たちは死にますが、よみがえった後は、何十年や何百年や何千年でさえない、永遠の話です。そこから始まる永遠こそが大事で、今この世界のことは振り返ったら一瞬でしかなくなるでしょう。でも、その時のことは、ここでは殆ど触れませんね。それからが始まりなのに、何が起きるか、どんなことが待っているのか、どんな生活をするのか、それはこの教理問答でも聖書でも、あまり詳しくは書いていません。それは、私たちのちっぽけなアタマでは、いくら説明されても、どんなに想像しようとしても、とても分からないくらい、素晴らしすぎる世界だからです。生まれたばかりの赤ちゃんに、幼稚園や小学校のことを話しても分からないでしょう。お腹の中にむかって、出て来た世界のことについて話しても決して分かりませんね。説明するよりも、優しい言葉をかけてあげて、「待っているよ」「大丈夫だよ」と安心させてあげれば十分です。

 神様もそうなのです。私たちに、永遠の御国のことを細々と説明しようとはなさいません。それは私たちには到底想像できない程の大きな、栄光に富んだものだからです。けれどもここに、肝心なことが言われています。それは、

「…全くの永遠まで、完全に祝福されて神を限りなく喜びとするようになります。」

という言葉です。完全な祝福。神を限りなく喜びとする。そういう永遠です。決して退屈などしない。虚しくもない。ガッカリすることも恐れもない。神様を限りなく喜びとする世界だと、楽しみにして、安心して、そして、私たちを公に認めてくださるという約束も信じてよいのです。問1は、

「人の主な目的は、神の栄光を現し、神を永遠に喜びとすること」

だと言っていました。いつか私たちは死に、やがて神様の栄光の中によみがえり、神様を限りなく喜びとするようになる。そのために人間が造られた、本当の目的を永遠に果たすようになるのですね。それは私たちには想像もつかない新しい事です。でも、それは素晴らしい始まりです。私たちを励まし、元気にし、イエス様を信じて従うようにと心を強めてくれます。今から、神様を心から賛美して従う歩みをいただきましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ルカの福音書二一章10~19節... | トップ | ルカの福音書二一章20-24節... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウェストミンスター小教理問答講解」カテゴリの最新記事