聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問67-69「いのちは神のもの」 箴言二四11~12

2015-08-23 18:12:50 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/08/23 ウェストミンスター小教理問答67-69「いのちは神のもの」 箴言二四11~12

 

 今日は、十戒の第六の戒め、「殺してはならない」です。

問67 第六戒は、どれですか。

答 第六戒は、「殺してはならない」です。

問68 第六戒では、何が求められていますか。

答 第六戒は、私たち自身の命と他の人々の命を守るための、あらゆる合法的な努力を求めています。

問69 第六戒では、何が禁じられていますか。

答 第六戒は、私たち自身の命や隣人の命を不当に奪うこと、および、それに至る一切のことを禁じています。

 書いてある事を読めば、誰も反対する人はいないでしょう。殺してはならないことも、自分の命と他の人々の命を守るために、あらゆる合法的な努力が求められていることもその通りだと思います。命を不当に奪うこと、そしてそれに至る一切のことが禁じられている、というのもその通りですね。けれども、私たちの周りでも、世界でも、この戒めは破られ続けています。先週も、大阪では中学一年生の暴行死事件がありました。バンコクでは爆弾テロがあって、二十人が亡くなりました。日本では毎年千件近い殺人事件があるそうですが、危険な運転で交通事故に巻き込まれ亡くなる方も毎月三百名、そして、自分で命を絶ってしまう人は、毎月二千人前後だそうです。何と悲しいことでしょうか。いいえ、悲しいと言っているばかりでは何にもなりません。「殺してはならない」と仰った主なる神に、私たちは全力で立ち帰らなければならないのです。

 殺してはならない、命は守らなければならない。それは分かっているはずです。しかし、それがこんなにも簡単に破られるのは、命は大切なのは分かっていると言いながら、損をしたくないとか腹が立ったとか、ちょっとぐらいお酒を飲んでも車を運転しても大丈夫だろうとか、そんな自分勝手なことの方が大事になっているからです。でも、もっと根本的なことは、いのちは私たちのものではなく、神のものだ、ということです。自分のいのちだって、自分のものではなくて、神のものです。神のものですから、大事にしなければならないのです。決して、人が軽く扱って、傷つけてはならないのです。ただ、「殺すことは悪い」という道徳ではないのです。いのちは、どんないのちでも、殺したり傷つけたりしてはならない価値があるのです。そして、特に人間には、神様がご自身に似せてお造りになった、という「神のかたち」に造られた、特別な存在だと聖書は言っています。聖書が、殺人の禁止を最初に語った時点で、人は神のかたちに造られたのだから、人の血を流す者は自分も殺されなければならない、と教えています(創世記九6)。人間が、神のかたちに造られている、という特別な尊厳を私たちは心に刻まなければなりません。ですから、イエス様は、「殺してはならない」を踏み込んで、

マタイ五22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

とまで言われます。殺したり傷つけたりはしないけれど、口では馬鹿にしたり、心では腹を立てたりしているなら、「殺してはならない」という戒めを破っていることになる、というのです。これは大変です。でも、殺してはならないとはそういうことです。殺さなければ守っています、というのではない。命を愛おしむのです。決して殺したり傷つけたりしてはならない、大切な、尊い命なのだ、自分の命もあの人の命も。腹が立つこともある。邪魔に思えるような時もある。関係ないように思えるときもある。けれども、その全ての命が、尊い命なのだ。そう教えられているのです。

 そう考えると、これは何と素晴らしい言葉でしょうか。人は皆、殺されたり、命の価値に優劣をつけたりすることがあってはならない、尊厳ある存在だ、ということです。昔、エジプトの国にも「神のかたち」という言い方はあったそうです。しかし、それは、王ファラオだけの呼び名で、他の人には当てられませんでした。しかし、真の神は、王様だけでなく、すべての人が「神のかたち」だと宣言したのです。王も、兵士も、農民も、奴隷も、奥さんも子どもも、老人も、みんな「神のかたち」であって、「殺してはならない」と言ったのです。貧乏人でも、障がい者でも、病人でも、お腹の中の赤ちゃんでも、どんな生まれや、どんな事情があっても、人のいのちに優劣はありません。馬鹿にされたり、憎まれたりしてはなりません。「神のかたちに造られた」のであって、殺していい人などいない、としたのです。

 ただし、正当防衛まで禁じているわけではありません。暴力に抵抗して、殺すことはやむを得ないこともあります。律法も、殺人犯や誘拐犯は死刑だと厳しく言っています。また、人を助けるにも限界があります。そして、人は今はやがて必ず死ぬのです。限りある命です。でもその限りある命を、大切にしなさい、と言われています。ですから、命をぞんざいに扱うことも、遠回しな殺人になります。健康管理をいい加減にして、病気や過労死になることも、危険なドライブやスポーツや遊びをすることも、いのちを弄んでしまう愚かな行為ですね。むしろ、今日読んだ箴言の言葉のように、

箴言二四11捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。

 命を救い出すようにと、神様は私たちに命じておられます。それは、殺されそうな人を助け出すだけではありません。生きる意味を本当に多くの人が見失っています。お金があって幸せな筈なのに、生きている価値が分からずに、不摂生な生き方をしている人もいます。自分が大切だと思えないし、人の事も大切に思えない。しかし、この私たちのために、イエス様が救いの御業を果たしてくださいました。私たちを生かすために、十字架に死んでくださいました。どうして私たちが、そのイエス様の十字架の価値を蔑ろにしてよいでしょうか。生かされている事を喜ばなくてよいでしょうか。イエス様が示してくださった生き甲斐を、すべての人に証しする生涯を送らせていただきましょう。

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