聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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ルカの福音書二二章63~71節「悪口を浴びせられるキリスト」

2015-08-23 18:11:01 | ルカ

2015/08/23 ルカの福音書二二章63~71節「悪口を浴びせられるキリスト」

 

 私の周りには「ハタ」という名字の牧師が三人います。四国でならあの「ハタ先生か」と思えるのですけど、ややこしい時も多いのです。この前も、「ハタ先生が」と話をしばらくして、何となく会話がかみ合わず、「あ、あっちのハタ先生の話だ」と気づいたことがありました。同じ言葉を使っていても、実は違うことを考えている。そういうことは皆さんもあるでしょう。名前だけではありません。「神」とか「救い」とかいう言葉も、人によってイメージが様々で、全く話がかみ合っていないことがあります[1]。今日の箇所にもそんな噛み合わなさがあります。

67こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、

68わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。

 ここでイエス様は「わたしはキリストです」とは仰いませんでした。キリスト、とはヘブル語の「メシヤ」(油注がれた者)をギリシャ語訳した言葉で、神に油注がれて特別な働きをする支配者を指します。世界を新しくしてくださる、真実な王であり、救い主であり、希望そのもののお方です。旧約の終わりから、新約の初めにかけて、このようなメシヤ(キリスト)のおいでを待ち望む信仰がイスラエルの中に広がっていました。

 しかし、ここでさっき言った食い違いが起きていました。彼らが考えていた「キリスト」とは神の栄光を帯びた、輝かしく力強い勝利者でした。当時の世界を支配していたローマ帝国を打ち負かしてくれるようなヒーローです。ローマの軍隊と戦い、重い税金を払わなくてよくしてくれ、折れ掛かっている民族意識を持ち上げてくれるような救世主を「キリスト」として待ち望んでいたのです。これを「政治的メシヤ」とか「軍事的メシヤ」と呼ぶことも出来ます。政治的に、軍事的に、世界を救い出し、自分たちの生活を改善してくれるのがメシヤでした[2]

 しかし、主イエスはそういう「キリスト」ではありません。これは、今までルカ福音書を読んできた中で、繰り返されてきたメッセージです。実際、ここにおられるイエス様のお姿はどうでしょうか。63節から書かれている通り、ただの監視人たちにからかわれ[3]、鞭で叩かれ(続け)、目隠しをされて「今叩いたのは誰か、当てて見よ」と弄ばれるままの惨めな男です[4]。悪口を浴びせられても、罰しようとはしません。議会に引き出されて抵抗もせず、殴られた痕は腫れ上がり、流れた血とかけられた唾の跡が渇いて見えます。鞭打ちの傷の痛みにひきつったでしょう。夕べ遅くまで、汗と涙を激しく流しながら祈り続けられたまま、一睡もしていないのですから、憔悴しきっています。年の頃は三〇歳を過ぎたばかりですから、年配者が醸し出す威厳もありませんし、話す言葉はガリラヤ訛り。どう考えても、ヒーローとか解放者というイメージには届きません。けれどもイエスはその、惨めな汚れたお姿のままで仰るのです。

69しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。

 これはもう全く状況とそぐわない発言です。自分が今、悪口を浴びせられ、叩かれ、嘲られている状況さえどうにも出来ないし、どうにかしようとさえしていないのに、「神の大能」(力)の右の座に、今から着く、と仰るのです[5]。イエスの中には、その確信がありました。人から冷たい仕打ちや不条理な暴力を受け、敵意や悪意に取り囲まれても、それを何とか解決するかどうかは問題ではない。不正な状況を力尽くで変えて、改善することが神の力ではない。そうではなく、悪口を浴びせられても憎しみに囚われず、不条理の中でも恐れや絶望や孤独に流されずに、神の御心に従うこと。それこそが、神の大能の右の座に着くご自分の道なのだ、と確信しておられたのです。この言葉に、議会の人々は皆が言いました。

70…「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。

71すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから」と言った。

 「人の子」とイエス様が仰ったのは、ダニエル書七13に出て来る言葉から持ってきたメシヤの呼び名です[6]。そして、その人の子が「神の大能の右の座」つまり皇太子の御座に着くと言った時に、彼らはこぞって、「ではお前は神の子のつもりか」と言いました。イエスは、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と答えられました。神の威厳とか輝かしさとかは全くない、汚れた惨めなお姿のままで、そう答えられました。そして、そう答えることでこの議会に、冒涜罪の口実を与えることも承知の上で、そうお答えになりました[7]

 当時のメシヤ待望は、「政治的・軍事的メシヤ」だと言いました。「的」だなんて言っただけで、余所余所しい思いをするかもしれません。では、私たちはどんなキリストを期待しているのでしょうか。お金や貧困の問題をあっさりと解決してくれる「経済的メシヤ」とか、病気や健康、老化の悩みを取り去ってくれる「治療的メシヤ」。勉強や、心の不安や、人間関係や、様々な問題の解決を求めているものでしょう。どれも大事です。イエス様の時代に人々が求めた政治や暴力の問題も、それはそれで大事だったのです。けれども、そうした問題の解決がキリストのお働きなのでしょうか。病を癒し、嵐を沈め、どんな難問にも絶妙な名答でお答えできたキリストが、ここでそうした力を一切発揮せずに、ほんのちょっとでもやり返してやろうともせずに、惨めなお姿のままで「神の大能の右の座に着く」と仰っていること自体が、私たちの考え方を覆してしまうチャレンジではないでしょうか[8]

 私たちはこう思っていないでしょうか。
「神には何も出来ない事がないのなら、この状況を変えて欲しい、自分のささやかな願いを叶えてくれてもいいぢゃないか、こんなに傷つくような思いをどうしてしなければならないのか」。
 勿論、そう願って解決を祈ることが悪いのではありませんし、諦めずに祈ってよいのです。しかし、それ以上に、私たちはこのイエスのお姿を通して語られています。今の私の状況においても、イエスは神の大能の右の座に着いておられて、御業をなしておられるのだ、と。疑い、呟き、恐れて、神を呪うことを止めて、今ここでキリストの良き御支配を信じることを迫られます。状況が苦しいからと、ペテロのように嘘を吐いたり逃げ出したりしてしまう、その被害者意識や自己憐憫からこそ、私は救ってもらう必要があるのだと、気づかされたいと思います。

 主は全能のお方です。政治や経済、私たちの状況やあの人この人を変えることもお出来になりますが、主は何よりも、私たち自身の心を、神の愛によって満たしたいのです。傲慢やプライドで占められて、思うようにならないと傷つき、怒り、裏切るような心から救い出したいのです。神が私たちを愛されているのですから、どんなに人から罵られようが、苦しかろうが、神が私たちを導き、治め、愛されている事実は変わりません。必ず主イエスがともにいて、私たちを、神の大能により、闇の中でも支えてくださるのです。その主に、私たちの状況も、私たち自身の心、根本的な生き方も委ねましょう。

 

「主が本当に酷い扱いをも進んで引き受けてくださったのは、あなたの無力ではなく、神の大能のゆえでした。今世界を治めておられますあなたに、ますます深く期待させてください。その深い大能によって、私たちをどうぞ御心のままに造り変えてください。思い上がりや不平不満から救われて、今ある所で主がともにおられる幸いに絶えず立ち戻る幸いをお恵みください」



[1] だから、私たちが神ご自身の御言を通して、神がどんなに偉大で真実であるかを教えられていることが大事になってくるのです。

[2] しかし、当然ながらそれは、ローマの支配に対する反乱でもありますから、議会はイエスがキリストを名乗るならば、ローマ総督のピラトに、反逆罪で訴えるという算段もあったのです。なぜなら、彼らが言う「キリスト」は政治的な解放者を指したからです。

[3] 「からかう」エムパイゾーは、十八32「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます」といわれていた言葉です。その成就がここであり、二三36「兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し」です。ちなみに、二三35の「あざわらい」はエクミュクテーリゾーで別の語です。

[4] 63節の「イエスをからかい、むちでたたいた」の過去形は、一度きりではなく、継続的な行為であったことを現す時制です。また、64節の「言い当ててみろ」は、直訳すると「預言せよ」で、イエスの預言者としての資質を嘲り、挑発したものです。

[5] これは、詩篇一一〇1「主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」」を引用したものです。「右の座」とは、王の「右手」となって統治する権威の座です。神である主が、主(メシヤ)に、完全な裁きの実行に至るまで、メシヤに権威を与える、という宣言です。決して、「右の座でゆっくり休んで待っていなさい」ということではありません。むしろ、このユダヤの議会の真ん中で、被告席にいるようでいて、実は、キリストが裁きの座に立ち、議員や世界の人々を裁き、敵を確実に踏みにじる、と仰るのです。しかし、二〇41~44でも詩篇一一〇が引用されていました。ダビデの子以上に、神の子である、と宣言されていたのです。しかしその言葉にも聞こうとせず、揚げ足を取り、責任を擦り付けることしか考えていないのでした。

[6] ダニエル七13「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」この、比較的マイナーな「メシヤ称号」をイエスは好んで使われました。それは、もっと手垢のついたメシヤ称号で政治的なメシヤの期待を抱かせないためです。

[7] ユダヤ人からすると、「偉大な神の子が、おまえのような惨めで、願わしくないものであるはずがないのに、それでもお前は神の子だと詐称するなら、冒涜罪で死刑だ」と言う意図がありました。イエスからすると、「わたしこそは、弱く惨めに謙ってまで、正義を行い、人を底辺から造り変える神の子である」と仰っています。ここにも、言葉のイメージが違うために、すれ違いが起きています。そのかみ合わない会話が、「わたしがそれだと言っているのは、あなたがただ」という歯に物が挟まったような言い方になっていますが、イエスの言葉は、ただのすれ違い以上に、彼ら自身の、真理を求めるよりも何とかして揚げ足を取ってでもイエスを殺そうという悪意があり、その責任は彼ら自身にあることを指摘しているのです。

[8] ルカは、イエスの裁判において、訴えの証拠が見つからなかった、偽証で陥れようとした、神殿を壊す罪を問われた、沈黙を貫いた、サンヘドリンでも殴られ、唾をかけられた、といった、マルコ、マタイの記述は省略しています。それ以上に、マタイ、マルコはイエスの裁判を先にして、ペテロの否認をその後にしていますが、ルカはそれも逆転しています。そして、侮辱したのが、裁判後の議会においてではなく、裁判前(有罪確定前)の「監視人ども」としています。また、マルコが、再臨のキリスト証言を伝えるのに対して、ルカは、「今から後」と現在化しました。このように、ルカの裁判記事は、短く編集していながら、要点を非常に分かりやすく凝縮しています。それは、この酷く扱われるお方こそキリストであり、それはユダヤ人たちには悟ることが出来なかった「メシヤ理解」だ、ということです。これは、ルカ全体を一貫しているテーマです(参照、ルカ二四44~49)。

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