聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/2/2 マタイ伝6章9~10節「御国が来ますように」

2020-02-02 16:33:14 | マタイの福音書講解
2020/2/2 マタイ伝6章9~10節「御国が来ますように」

 「御国が来ますように」。
 文語訳では
「御国を来たらせたまえ」。
 最初の「御名をあがめさせたまえ」を「私たちに御名を崇めさせたまえ」と誤解されかねないように、「御国を来たらせ給え」もひょっとすると「私たちに御国をもたらさせてください」だと思われているかもしれません[1]。これは神ご自身が御国を来たらせるの願いです。そして「御国に行けますように」でなく
「御国が来ますように」
だと驚かされることも、とても大切な気づきです。[2]
 賛美歌や聖歌でも「御国」といえば、死後に行く場所、所謂(いわゆる)「天国」という意味で歌われることが少なくありません。勿論、私たちは死の後に、主が私たちの魂を迎えてくださり、安らかに憩わせてくださることを期待して良いのです。しかし、それがゴールではありません。最後には、神が王として世界に来られる。やがて、この世界が本来の神の国に変えられて、永遠の御国が始まる。死後の魂の安らぐ場所はそれまでの「仮の場所」に過ぎません。だからここで祈るのも「御国に行けますように」ではなく
「御国が来ますように」
 私たちが生きている今この場所、この世界に神が来て下さって、王として治めてくださる。そのことを願うのです。
 このマタイの福音書は、特に
「神の国」
の事が繰り返して語られる福音書です。神の国を指す言葉が50回以上出て来ます[3]。他の福音書と比べて断トツです[4]。何より2章のクリスマスの記事で、東方の博士たちが言ったのが
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」
でした[5]。イエスの宣教の開始も
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
という言葉で、イエスが伝えたのも「御国の福音」と言われています[6]。この5章から7章の「山上の説教」の最初も「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」という語り出しでした。イエスは王として来られ、イエスが王である国を造ろうとしています。
 この「御国」という言葉も、場所としての「国」というよりも、支配そのものの事です。王という言葉から派生した言葉で、直訳すれば「あなたの王国」というのが正確です。イエスが王となる。そして、マタイの2章で「ユダヤ人の王」という言葉が投げかけられた、当時のユダヤの支配者ヘロデ王やその都の住民たちが激しく動揺したように、「御国が来る」という知らせは、この世界の支配者や体制にとっては、脅威でしかありません。自分たちが支配者だと思っている人にとって神が王として来られるのは甚(はなは)だ不都合なことです。そして、マタイにはそのような不都合さを感じた人びとが、ヘロデの他にも沢山いて、最後はイエスを十字架にかけてしまう。それがこの「王なるイエス」をテーマとするマタイのストーリーなのです[7]。
 私たち自身、「御国が来ますように」と祈る時、自分が王となろうとしていたことに気づかされるのではないでしょうか。「御国が来ますように」とは、神ではないものの支配から、神に支配権をお返しする祈りです。神の支配は世界全体に及ぶことでもありますが、まず私自身が、自分の握りしめている手を開いて、王であることを止めて、神の支配に委ねることを、繰り返し繰り返して決意する祈りです。神が王であるのに、神ではない者、誰かや自分を王や神にしていること-これが「罪」です。私たちは、自分が物事を支配していたい、自分の人生や自分の職場、家庭、周囲をコントロールしたい。神を信じるのも、神から力を頂いて人生を思うように乗り切りたい、という願いと紙一重であることが正直な現実です。イエスの弟子の母は
「御国で自分の息子たちがイエスの右と左に座れるようにしてください」
と願いました[8]。それは遠回しな支配欲や名声欲です。私たちは「あなたの御国が来ますように」と祈る時、自分は王ではない、物事を握りしめ、自分の思うままにしたい、という願いを完全に手放して、「私は王ではありません。あなたが王です。あなたが王として来て下さい」と祈るのです。
 しかし「神の王国」というと違う宗教を思い起こしかねません。王国、支配、王、どの言葉にもどっぷり手垢がついています。日本語でも本来、「支配」は「支え配慮する」ものなのに、経験的に支配には力尽くや権力というイメージが染みついています。神の支配も、圧倒的な力で治める。すべての悪や人間の罪を、有無を言わさずお裁きになる、恐ろしい支配を、教会の中でさえ教えていることが少なからずあるのです。しかし、マタイの福音書でイエスが語る「神の国の福音」は常に驚きです。聴く人にとって、価値を引っ繰り返す言葉です。先の弟子の母親が、息子たちをイエスの左右の地位を求めた後、イエスがこのように教えました。
マタイ20:25「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」[9]
 イエスは仕えられる王ではなく仕えるために、自分のいのちを与えるために来た王でした。そしてそれはこの世界に来た二千年前だけの特例ではなく、「仕える」こそが「神の御国」の原理でした。やがて神の国が現れて、力尽くで世界を治め、悪を一掃する…なんて宇宙人の侵略と変わらないような話ではなく[10]、イエスが来て、人に仕えてくださり、恵みの国をもたらしてくださることを願うのです。
 この世界の悪や正義の殺伐とした争いに疲れ切っている心を、イエスが癒やしてくださる。人を心の奥底から新しくしてくださる。
 神の御国は、心の貧しい者に与えられます。人の支配で抑圧され、裁かれている人に希望と回復をもたらします。
 人に赦しと和解を与えます。
 今ここでの自分の生活が、幸せに守られることを願う生き方から、今この世界では悲しみや暴力、競争や見せかけ、後悔や恐れが尽きない現実を受け止めます。
 失うことを恐れる生き方から、すべてを失っても神が私たち一人一人を愛されている事実を喜び、私たちも互いに分かち合い、祝い合う生き方に変えられて行く。
 そうなるのが、神の御国です。

 私たちは、今ここに神が御国を来たらせ、神が本当の王であることを、既に始めてくださるようにと期待して祈るのです。私たちが祈るから来る、祈らなければ来ない、ではありません。御国はもうイエスによってきて、始まっているのです。やがて、神の国は完成するのです。人が考える支配や楽園とは全く違う、その人の考えそのものが神の恵みによって新しくされ、喜んで仕え合う御国が、必ず来るのです。聖書の最後にある言葉も、こうです。
黙示録24:20これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。21主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。
 主イエスが来る。「すぐに」が「まだまだ」に見えますが、それでもイエスが来て、全てを治める、という告白は聖書を貫く大事な告白です。私たちはお互いにも自分にも「御国が来ますように」と祈るよう励ましていく必要があります。今ここでの生活が永遠に続いたり、幸せに守られるような夢をこの世界の支配者は教えます。
 戦前の日本は「神国日本」を標榜して、日本の教会や指導者も「神の国」と日本をごちゃ混ぜにして、戦争の勝利を祈った。そんな時代がありましたし、教会の歴史ではそういう誤解が多くありました。だからこそ、私たちは「御国が来ますように」との祈りを教えられることが必要です。
 世界のどの国も神の国ではなく、永遠には続かないことを。
 そして、神の国は上からの支配ではなく、イエスの謙りの愛による支配であることを。
そして、今私たちがその支配に与って、変えられる。仕切ろうとか冷たい思いを手放して、主の良き支配を信じて、愛と喜びをもって生きるよう変えられ始めることだと教えられることが必要です。
 だから「あなたの御国が来ますように」と祈るのです。
「王なる主よ。あなたの御国が来ますように。それを妨げるものが私たちの中にあるとしても、どうぞ主よ、恵みの光によってその抵抗を溶かし、御国の平和に与らせて、愛と赦しと喜びを与えてください。今、そのしるしである聖餐に与ります。王である主がご自身の命をもって招いてくださったこの食卓を共に囲みます。どうぞ恵みによって私たちを養い、恵みの業を行う器とならせてください。私たちの歩みがあなたの御国の訪れを知らせるものとなりますように」

[1] 以前にもお話しした笑い話ですが、私が小さい頃、私の父や信徒さんが献金の祈りなどで「御国建設のためにお用い下さい」とよく祈っていました。私はてっきり「御国建設」というクリスチャンの建設会社があるのだと思い込んでいて、いつ頃かそれが、特定の会社のことではなく、全教会がともに取り組む「神の国」の建設の使命だと気づいて自嘲したものです。
[2] 「問 第二の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。 答 第二の祈願、すなわち「御国が来ますように」で私たちは、[第一に]サタンの王国が滅ぼされるように、そして[第二に]恵みの王国が前進させられ、私たち自身と他の人々がその中に入れられ、その中で守られるように、また[第三に]栄光の王国が早く来るように、と祈ります。」(ウェストミンスター小教理問答102)、「問123 第二の願いは何ですか。 答 「御国が来ますように」です。すなわち、あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで、わたしたちがいよいよあなたにお従いできるようにあなたの御言葉と聖霊とによって私たちを治めてください、あなたの教会を保ち進展させてください、あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての悪しき企てを滅ぼしてください、ということです。」(ハイデルベルグ信仰問答123)
[3] マタイで54回。3:2「「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。」、4:8「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、」、17「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」、23「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」、5:3「「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」、10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」、19「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」、20「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」、6:10「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」、33「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」、7:21「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」、8:11「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。12しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」、9:35「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」、10:7「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」、11:11「まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。12バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」、12:25「イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。26もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。」、28「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」、13:11「イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。」、19「だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。」、24「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。」、31「イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。」、33「イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」、38「畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。」、41「人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、」、43「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」、44「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」、45「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。」、47「また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。」、52「そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」、16:19「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」、28「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」、18:1「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」、3「こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。4ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」、23「ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。」、19:12「母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」、14「しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」、23「そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。24もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」、20:1「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。」、21「イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」、31「二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。」、43「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。」、22:2「「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。」、23:13「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。」、24:7「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」、14「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」、25:1「そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。」、(25:14の「天の御国」は意訳)34「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。」、26:29「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」その他、代名詞で引用されて、神の国の譬えが語られる箇所も多数。
[4] 「国」という言葉だけで比べると、マタイが54回に対して、マルコ18回、ルカ44回、ヨハネ3回。
[5] マタイ2:2。
[6] マタイ4:17、23。
[7] マタイ12:1~14、21:33~44、26章。
[8] マタイ20:20~23。「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」」自分がイエスを差し置いて王になろう、とは願いません。王座はイエスのものだと認め、イエスにひれ伏して、自分の息子たちには慎ましくも左右の座を求めただけ、に思えます。しかし、それは遠回しな、権力欲でした。
[9] マタイ20:24~28「ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
[10] 実際、アメリカのディスペンセーション主義と呼ばれる、携挙・再臨・千年王国を強調するロードマップは、UFOや宇宙人とのコンタクトを求めるメンタリティとの親和性があるのではないかと考えます。
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