聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問28「美しい心の秘訣」ヨブ記1章21-22節

2016-08-09 10:43:45 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/08/07 ハイデルベルグ信仰問答28「美しい心の秘訣」ヨブ記1章21-22節

 

 今読んだ、ヨブ記のヨブという人は、当時有数の裕福な人でしたが、その家畜や家族を一遍になくしてしまいました。その時に彼は、大変悲しみ、上着を引き裂き、神を剃り、悲痛な思いを表現しましたけれど、それでもヨブは神に愚痴を零さず、

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

と言ったのです。この言葉で、ヨブは知られています。ヨブは、神が財産やいのちを下さるとともに、財産を奪ったり、いのちを終わらせたりするのも神である、と理解していました。私たちの身の回りに起きること、世界の歴史で起きること、何一つとして、神の与り知らないことはない。それが▲前回お話しした「摂理」ということです。神が、全てのものと保ち、治めておられる、という信仰です。では、今日はその続き。

問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような恵みを受けますか。

答 わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どのような被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです。

 ここでは、神の創造と摂理を知ることの恵み(恩恵)が三つあげられています。第一が「忍耐」、第二が「感謝」、第三が「確信」ですね。忍耐、感謝、確信。どれも大事ですね。こういう品格を私たちが身に着けるようにさせてくれるもの、それが神の創造と摂理という教理を知ることなのです。

 しかし、神が全てを治めておられるというと、反発をしてくる人も沢山います。「それなら、犯罪とか地震とか日照りがあるのはどうして? 神がすべてを治めておられるなら、どうして苦しいことや悪いことがあるの?」 そして、クリスチャンでも、病気や事故、仕事や家庭や人間関係がうまくいかないことで、教会から離れたり信仰を捨てたりする人は少なからずおられます。私自身、どうでしょうか。これから、大きな災難にあったり、苦しい思いをしたりするような出来事があれば、信仰を揺さぶられないとは言い切れません。物凄く葛藤をするに違いないと思います。

 神がおられて、全てを支配しておられるのだから、それほど酷い事は起きない、とか、神が全てを善いようにしてくださるから、苦しみは私たちには降りかからない、逆境に遭うことはない、という保証はないのです。そういう特別扱いの守りを言ってはいないのです。私たちも、犯罪に遭うかも知れません。大きな事故に巻き込まれるかもしれませんし、災害に苦しみ、人間関係や社会の激変で人生が大きく狂ってしまうかもしれません。でも、そういう時にも、神の創造と摂理とを信じて、その時に忍耐し、恵みに感謝し、将来にも希望を見ることが出来るのだ、と聖書は言っています。

 決して聖書や教会の歴史では、摂理が信じやすかったから、大変なことがなくて、いつも問題が起きたら祈って解決して、順調な歩みをしてきたから、信仰することが出来てきたわけではありません。戦争や大虐殺もありましたし、民族の危機や、不公平な暴力、日照りや不作などもあったのです。そういう中で、神がすべてを治めておられるという信仰を深め、ますます神に拠り頼んできたのです。聖書が、そういう厳しい歴史を通っているからこそ、多くの人に読まれ続け、慰めや希望を与え続けて来たのです。

 ある結婚式で司式者が新郎に

「良い時も、悪い時も、富める時も、貧しい時も、病める時も、健やかなる時も、この女性を妻としますか?」

と聞くと、新郎は

「はい、いいえ、はい、いいえ、いいえ、はい」

と言いました。

 私たちは苦しいのは嫌いで、忍耐するより不満や被害者意識をもってしまいます。良いことがあっても、心から感謝するより、あって当たり前と思って、感謝には乏しいものです。せいぜいそこで良いことを話したり、立派なことが言えても、あまり魅力はありません。しかし、苦難の中で喜んでいる人には魅力があります。悩みの中で感謝している人には頭が下がります。大切なものを失った喪失の中でなお人に優しくある人には、心を打たれます。悪いことや貧しくなっても、病気になったり愛するのが大変になったりしても、なお愛し合っている夫婦にこそ、本当の愛を見る思いをします。そして、私たちもそれは大変だなぁ、と正直思いつつ、でももっと深い所ではそういう人に自分もなりたいと憧れてもいるのです。美しい心を持ちたいと願っているのです。いいえ、私たちがそれを願う以上に、神ご自身が、私たちにそのような美しい心をもたせたいと永遠から願われています。

 …わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どのような被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。

 摂理とはこのようなものです。神がヨブが財産も健康も家族も一切失う苦しみに遭うことさえ許されたのは、それほどの喪失さえ、神の愛からヨブを引き離すものではなかったからです。私たちはただ苦しみの中で、摂理に縋って忍耐と感謝と確信を握りしめるのではありません。その事を通して、私たちを愛する神の愛の深さに更に触れるのです。その苦しみを通って、そこから神を仰ぐ時に初めて分かる、神の愛の横顔があるのです。そして、その愛によって、私たちの心はますます美しくされます。

 神の善意や摂理が信じがたい思いをすることは沢山あります。でも、信じがたい時に尚、信じるに値する神の御心を知るからこそ、価値があるのです。あらゆる出来事は、この方の御手の中にあります。それは、私たちが操り人形のようだ、ということではありません。その反対に、私たちは忍耐と感謝と確信を持てる、ということです。

「恐れるな」

と言われている、ということです。今は起きている出来事の意味は全く分からないかも知れません。無理に神の摂理を持ち出して納得しようとする必要もありません。悲しい時は泣けば良いのです。苦しい時は叫んで良いのです。悲しみ、叫ぶことさえ、恐れることはないのです。その涙やうめきを、受け止めて下さるのが天の父なる神です。

 そのことを味わい知りながら、神の深い御心に近づけられ、私たちがまた他の人を支え、互いに理解し合うようになっていく。そういう現実の物語こそ、神の創造と摂理の目的です。

 

 

 歌「感謝します」

感謝します。試みに会わせ鍛えたもう主の導きを
感謝します。苦しみの中に育てたもう主のみこころを
しかし願う道が閉ざされたときは目の前が暗くなりました
どんなときでも、あなたの約束を忘れない者としてください

感謝します。悲しみのときに共に泣きたもう主の愛を
感謝します。こぼれる涙を拭いたもう主のあわれみを
しかし願う道が閉ざされたときは目の前が暗くなりました
どんなときでもあなたの約束を忘れない者としてください

感謝します。試みに耐える力をくださるみ恵みを
感謝します。すべてのことを最善となしたもうみこころを

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