2021/5/30 マタイ伝20章1~16節「気前が良すぎる神」[1]
1天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
と始まるこの譬えは、朝早くからぶどう園で働いた者も、9時や12時、3時、最後の5時から一時間だけ働いた人も、同じ日給をもらった、という話です。
「一デナリ」は当時の一日分の労賃と欄外にもあります。一日中働いて一デナリ、というのは安すぎたわけではありません[2]。後から働いた人が、一日分もらったのは気前が良すぎるにしても、朝から働いた人が損をした、という事ではないはずです。それでも、この話を読むとなんとも腑に落ちない、不公平な思いをして、11節12節で不満を言う声に同意したくなる、という人が多いのではないでしょうか。感謝すべきことに、その人たちのためにこそ、イエスはこの譬えをお語りになったのです。
この譬えの前、19章の後半には、
「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」
と尋ねて来た青年の話がありました。イエスは彼に、ただお一人の
「良いお方」
を語り、すべてを献げて、ご自分に従って来なさい、と仰いました。青年は、その言葉を聞いて悲しみながら去って行きましたが、それを聞いていた弟子たちが今度は27節で、
「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。…」
と胸を張ります。イエスは、28~29節で、彼らに豊かな報いを語った上で、30節で言います。
30しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。
こう言って今日の譬えが語られます。その最後14、15節で主人(天の御国)は言います[3]。
この最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。15自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。
と[4]。欄外にあるように「気前がいい」は「良い」です。あの青年も弟子たちも、自分が良いことをする報いを期待したのに対して、イエスは、良いお方を語ったばかりか、神の国そのものの気前良さを語るのです。それは、最後に一時間だけ働いた人、それまで誰にも雇われなかった人、理由はどうあれ、必要とされなかった人にも同じだけ与えたい。それが天の御国なのです。私がどんな良いことをした、よりも先に、神ご自身が良いお方、天の御国の良さがあります。余りに気前が良すぎるので、人間の「報い」の目には入りきれず、不満を言いたくなるほどです[5]。だから、この譬えの最後にもう一度、直前と同じ事が繰り返されます[6]。
二〇16このように、後の者が先になり、先の者が後になります。
自分は先にイエスの弟子になり、すべてを捨てて従って来ました、などと誇る人は最後に呼ばれる。それどころか、そんなやり方に文句を言い始めて、窘められる。御国の心とは反対だったことが暴露される。そういう逆転が起きる、というのです。神ご自身の良さ、良くしたいという惜しみない心が分からず、忘れたり信じられなかったりして、人間は「報い」ですべてを考えます[7]。そしてお互いに競ったり、努力や成果を比べたりします。私の努力の以前に、私が最後の人であったとしても神は最初からの人と同じだけ与えたいと願って下さっている、という恵みが土台です。だからこそイエスは、気前の良すぎる神を語るのです。そして、私たちはそれを忘れて自惚れて、先の者だと思っていたら恥をかいて、最後だと思っていじけていたら思ってもいない祝福を戴いて、を繰り返すのでしょう。そうして、報いや誇りを超えた、神の惜しみない気前よさこそが、私たちを支えているのだと、気づかせてもらい続けるのです。
では「それならそもそも働かなくてもいいのか、働くのは損だ」ということなのでしょうか。譬えの最初に戻りましょう。
「天の御国は、自分の葡萄園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです」。
大金持ちで面倒なことは家来に任せて、朝も寝坊し、王宮でのんびりご馳走を食べ遊び暮らす王、ではなく、葡萄を育て、自分一人では管理しきれないほどの農園で働く者は何人でも一デナリで働いてもらおうと、朝早くから歩き回り、一日に何度も市場や町中を訪れて、立っている人に声をかける、物好きな主人です。葡萄作りが好きな農園主が、その作業の、大変だけれどもやり甲斐のある作業に大いに人を招きたい、一緒にこの作業の苦楽をともにして最後は収穫の喜びをともにお祝いしたい。出来る人には朝早くから、それが出来なくても最後の僅かな時間だけでもこの作業に加わってほしい。葡萄園にも、出会う人々にも惜しみなく与えたい農園の主人。それが天の御国だと、イエスは大胆にも仰る。
御国は、良いことをしないと入れないどころか、天の御国の方から私たちを捜し、気前よく仕事も労賃も十分に与えて、その働きに巻き込んでしまう国です。先の者が後になり、後の者が先になる。朝早くから労苦と暑さを辛抱したり[8]、夕方まで誰にも雇ってもらえなかったり、約束通りなのに文句を言われたり[9]。そうした説明のつかないゴタゴタした事情をすべて引っくるめて、葡萄畑の仕事に招いて、一人一人に十分な報いを与えたい。それが神の国なのだ。
こう語ったイエスこそは、ご自身から人を捜して歩き回り、労苦と惜しまず、焼けるような暑さの中で十字架にかかってくださった。それでもまだ気前よさはつきず、私たちに尊い働きも十分な報いも与えてくださるのです。そう、報いは十分に与えられます。でも、報い以前に、与えたい、一緒に働こう、と気前よく、惜しみなく願ってくださる神がおられるのです。
その神が、ご自身の葡萄園であるこの世界を育てる働きに、私たちも巻き込んでおられるのです。
「惜しみない恵みの主よ。あなたは私たちに、命も働きも、喜びも報いも、それぞれに気前よくくださいました。あなたの良さを忘れて、自分の働きばかりを考える貧しさを、どうぞ笑わせてください。そして、与えられたあなたの業の一端を担う働きを支え、十分な報いをもって励ましてください。あなたが一人一人それぞれに、違う働きを担わせています。それぞれに豊かな報いを与え、私たちがともに労い合い、祝福し合い、毎日を終える歩みをお恵みください」
※ 葡萄園のすばらしい画像は、こちらのリンクから拝借しました。
脚注
[1] 「これから私は、とても難しいことをするようにと、あなたにお願いしたいと思います。あなたが神について知っていると思っていることをすべて、いったん脇に置くようにしてください。もちろん、そんなこと不可能だと思われるでしょうし、確かにそうかもしれません。でも、あなたは神について何も知らないのだというふうに想像してみてください。そして今まさにイエスがあなたに向かって、神について、またそのお方がどのようにあなたとかかわりを持つのかについて物語ろうとされていると想像するのです。単純に、しかも先入観なしに、イエスがご存じの神について語られるそのことばに耳を傾けてください。」(ジェームズ・ブラウン・スミス『エクササイズ』131頁以下)と前置きして、今日の箇所、マタイの福音書20章1~15節が読まれるのです。スミスは、神学者エレミアスの言葉を引用します。「イエスの例え話において、最後に雇われてきた労務者たちは一日分の賃金を要求できるような正当な理由など持ち合わせてはいなかった。それにもかかわらず賃金を受け取ることができたのは、一にも二にも雇い主の好意によるものである。このようにして、見たところささいな記述の中で、「「(行いに対する)報いという世界」と「(神からの一方的な)恵みの世界」、すなわち律法と福音という二つの世界の間に横たわる違いが対比されるのである。……さて、あなたは神の気前よさに対して不平をつぶやくだろうか。気前の良さこそ、福音に関するイエスの弁明の中核にあるものである。すなわち、「神がどのようなお方であるかをご覧なさい。そのお方こそまったきよいお方なのですから」。」(134-135頁)。また、次のような引用文も印象的な注解です。「イエスは要求なさる神ではなく、与えてくださる神を啓示なさった。すなわち、そのお方は抑圧なさるのではなく、引き上げてくださるお方であり、傷つけるのではなく、癒やしを与えてくださり、非難なさるのではなく赦してくださるお方である」(ブレナン・マニング)」
[2] 「相当の」ディカイオス 正しい 「不当なことアディコー」 4節「相当のディカイオス」と対応しています。ここでの労働者は、暑さの中で、不当に安い賃金で働かされたり、無償の奉仕を強いられたのではありません。働ける者には、正当な賃金が払われています。しかし、働けない者にも、同じだけを与えたい、というのがこの主人(天の御国)のあり方であり、それに対して不満を言う人間の心は神の心から離れているのだと浮き彫りにする譬えなのです。
[3] 13節の冒頭には「友よヘタイロス」と呼びかけられています。これは、マタイで度々出てくる、敵対者に対する、和解と気づきの呼びかけです。22:12、26:50。
[4] 14節「帰りなさいヒュパゴー」は、4,7節の「行きなさい」と同じ言葉です。「帰れ!」と追い出したのではありません。
[5] 20節の欄外注にあるように「あなたはねたんでいるのですか」は直訳すると「あなたの目が邪悪なのですか」という言葉です。(6:23「目が悪ければ」)。目が悪い、とは悪意がある、というよりも、神の良さ(恵み深さ、気前よさ)を理解できない「悪さ」です。私たちは良いにつけ悪いにつけ何かあると「きっと何か理由があったのだ」という目で見てしまいます。神の恵みより、神抜きの「因果応報」で考えるなら、そこにも注がれる、神の大きな恵みを妬んで、妨げてしまいます。
[6] 19章30節(しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。)と20章16節(このように、後の者が先になり、先の者が後になります。)は、厳密には違いがあります。順番の前後、「多くの」の有無。その違いはそれぞれに味わってくだされば良いと思います。
[7] 10節の「思う」ノミゾーは「合法だと見なす」の意です。5:17「律法を廃棄するために来たのだと思ってはいけません」、10:34「平和をもたらすために来たのだと思ってはなりません」。神の「相当・不当ディカイオス」と、人間の「合法ノモス」との違いが浮き彫りになります。
[8] 「辛抱した」バスタゾー 3:11、8:17(これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちの煩いを担い、私たちの病を負った。」)
[9] でも、そんな理由捜しの説明では人の命も人生も測れないものです。後の者が先になり、先の者が後になる。報いという物差しでは間に合わない展開があります。神ご自身が、この世界をそんな園としてお造りになりました。楽な楽園ではなく、ともに労苦して、邪さで目が曇っている私たちは、生涯、後になり先になりを繰り返します。恵まれては勘違いして高ぶり、人と比べては蔑んだり妬んだり、不満でふくれ面をし、恥をかいてイジけて自己卑下し…。でもその私にも「同じだけ与えたい」という御声を聞いて、神の恵みに心砕かれ、でもまた自惚れて…を繰り返すのです。そういう私たちにも、主は確かに気前よく、惜しみなく、十分に働いて、恵みを現してくださるのです。
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