聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き二五章6-22節「聞いてみたい話」

2018-06-10 16:48:38 | 使徒の働き

2018/6/10 使徒の働き二五章6-22節「聞いてみたい話」

 使徒の働き二五、二六章には、ローマから新しく着任した総督フェストゥスが使徒パウロの処遇をする経緯が詳しく書かれています。この新任の総督が、ユダヤ当局が目の敵にしているパウロと出会って戸惑う。そこにユダヤのアグリッパ王も巻き込まれて、パウロをどうしたらいいか、まずは話を聴いてみたい。興味をそそられて大会議が開かれていくという見せ場です。

1.「カエサルに上訴します」

 ざっくり言えば、パウロはギリシャまでの諸外国を巡ってイエス・キリストの福音を伝えてその諸教会からの献金を預かって、エルサレムにやってきたのですが、ユダヤの保守的な人たちにはパウロは赦しがたい存在でした。外国人と分け隔てなく接するなんてあり得なかったのです。新しい総督フェストゥスは、この問題を押しつけられる形になり、どうしようか困ってしまう。パウロに落ち度はないようでユダヤ議会の訴えも立証は出来ないし、かといって、パウロを釈放すれば、ユダヤ人のご機嫌を損ねてしまう。そういう板挟みになっていた様子がよく分かります。そういう所で、フェストゥスは苦肉の策として、9節で提案をします。

…「エルサレムに上り、そこでこれらの件について、私の前で裁判を受けることを望むか」

 ローマの行政上の首都カイサリアからユダヤ人にとって神殿もある中心地エルサレムに移すことは3節で出されていた祭司長たちからの懇願でした。ただしそれは、パウロを途中で殺してその口を封じるための思惑でした。フェストゥスは自分が一緒に行って、裁判を取り仕切ることで落とし所としようとしたのでしょう。そもそもユダヤ人の機嫌を取ろうとしての発言ですから、パウロの命を真剣に考えていたわけではないでしょう[1]。ですから、パウロは、

11もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカエサルに上訴します。」

12そこで、フェストゥスは陪席の者たちと協議したうえで、こう答えた。「おまえはカエサルに上訴したのだから、カエサルのもとに行くことになる。」

 こうして27章でパウロはローマの未決囚として兵士たちに囲まれて船に乗せられ、なんとかローマに辿り着いて、使徒の働きは終わります。そのクライマックスへの曲がり角が、このカエサルへの上訴だと言えます。パウロは首都ローマに上って、その教会を訪問したいと願っていました。主もパウロにローマで証しをすると約束しておられた。そういう将来が、思いもかけず未決囚としてローマ兵の護衛付きで適うのでした。神様のなさることはやっぱり不思議だなぁ、予想もしなかった形で実現するのだなぁとしみじみ思うところです。

2.「カエサルに上訴しなければ」

 しかしこれは結果的に、です。パウロの上訴は思いがけない、大胆な発言です。フェストゥスがパウロにエルサレムでの裁判を提案した時、それをパウロは承諾すると思ったのでしょう。或いはそれを辞退して釈放を願うとは予想したかも知れません。せめて総督フェストゥス自ら裁判に同席するという恐れ多い申し出に、恐縮するだろうと予期したでしょうか。断って上訴なんて想定していたでしょうか。

 確かにローマ市民のパウロは上訴権がありました。しかしそれを実際行使するかどうかは別問題です。ローマ市民が全員、この上訴権を行使したとしたら、ローマは溢れかえり、費用も馬鹿になりません。まして、ローマ帝国の西の辺境であるユダヤからローマまで行くのは大変なリスクが伴います。

 二六章でパウロの弁明をじっくり聞いた最後で、フェストゥスたちはパウロの無罪を確信して、上訴しなければ釈放してもらえたのに、という感想をもらしているのです。パウロの見た目は貧しいユダヤ人です。祭司長たちが憎んで訴えているなら、コッソリ引き渡そうかと考えたコマの一人です。しかしその見窄らしいパウロが、カエサルへの上訴を申し出た。フェストゥスはパウロを何度も見直したことでしょう。

 もし皆さんがこのパウロのそばにいたらどうでしょう。カエサルに上訴なんて遠慮しようとしないでしょうか。フェストゥスの提案を祈りつつ受理しようとするでしょうか。そんな大それた状況は想像できなくとも、もっと身近な所で、自分の権利とか自由、チャンスを十分に生かしているでしょうか。助けを求める手段があるのに、遠慮したり言い出せなかったり、躊躇うのではないでしょうか。自分を主張する事は目立つようで、謙遜さがないようで、神を信じる信仰と相容れないように思ってしまう。そういう心理が働くのかも知れません。

 学び会で取り上げている内容に「アサーション」というコミュニケーションがありますが、ここでは「アサーティブ権」と言って次のような権利を挙げています[2]

 私はこうした権利をお互いに大事にすることに気づかされました。こういう考えを押し殺して、諦めて、裁き合って、気づいてもらうことを待つだけで流されていることが多いなぁと思います。

 確かに聖書は謙ることを教えます。神に信頼することを命じます。罪のない人は一人もいないことを宣言します。しかし、その人間の罪の教理を最も明確に宣言したのは誰でしょう。使徒パウロです。そのパウロが、ここで堂々と自分の権利を行使して、大胆に最大限に自分の希望を具体化する提案をしたのです。罪を謙虚に認めることは、自分の価値や自由を低く見積もることとは違います。むしろ、罪の赦しを下さるキリストから十分に赦しの恵みを戴くのです。罪は人の身分や政治的な損得や何かで命を差別して犠牲にします。ですが私たちは、遠慮や気後れなしに、自分も総督もカエサルも、犯罪者も異邦人も同じ人として生かそうとします。

3.「その男の話を聞いてみたい」

 13節以下アグリッパ王とフェストゥスの会話は、「死んでしまったイエスという者…が生きていると主張している」パウロから話を聞く場を設けようとなります。でもそんな奇想天外な主張なら、他にいくらでも信じがたい主張をする人はいたでしょう。しかしパウロはイエスの復活を主張するだけでなく、それがユダヤ当局から目の敵にされるほどの存在感になり、今は皇帝への上訴も厭わない。イエスが生きたもうという主張が、パウロのユニークな生き方、大胆な行動力、自由さになっていたからこそ、その男の話を聞いてみたいと思わせたのではないでしょうか。それはそのまま私たちがイエスから頂いた自由で無駄な遠慮の無い生き方です。

 パウロの願いはただ生き延びるとか無罪放免になる以上に、ローマを訪問することでした。でもそのためには無罪になって自由の身で伝道旅行を再開するだけが道でなく、上訴して未決囚としてローマに行く道もある、と柔軟に考えたのでしょう[3]。勿論「自分には自由になる権利があるのだ」と脱獄や不正や愚痴をこぼしていたでもありません。そんな苦々しい思いではなく、パウロは自分の願いのために生かせる機会を十分に生かしたのです。主が奇跡を起こして下さるのを待つよりも、今そこで使える手段を最大限利用しました[4]

エペソ五15…自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、16機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。」

 フェストゥスたちは「パウロは上訴しなければ良かったのに」と言い、聖書の注解者たちもそれぞれパウロの行動をとやかく批判します。でも、パウロが置かれた状況でどんな道があったかは、パウロでなければ分かりません。皆さんが置かれた状況でどう生きるのが賢明か、それは結局、他の誰でもなく自分で判断することです[5]。そして自分が伸びやかに生きて、周囲の方々にもイエスがそういう生き方を下さるのだと伝わるなら、それこそ、そこにはどんな話があるのか「聞きたくなる」ものでしょう。囚人が自尊心を持っている、奴隷が権利を行使する、病気で苦しむ人が芸術を作り、貧しい人が思いやりを示し、人間関係でズタズタに傷ついた人がユーモアを示す。そういう事実は、私たちの心を打ちます。

 

 そして私たちがそうできるかどうか以前に、イエスを思い出しましょう。イエスは、神の座から貧しいこの世界に来られました。抑圧され、憎まれ、病気の人の友となり、罪人と食事をともにし、裏切られ、あざけられました。囚人として捉えられ、理不尽に鞭打ちをされ、そして死なれました。イエスはその十字架の死を経て、そこからよみがえられて、今も生きておられるのです。今も生きておられ、どんな人をも尊厳を与え、生きる場所で出来ることを始めていく生き方をさせてくださるのです。

「生きておられる主よ。あなたが下さった尊い価値が私たちの心も生き方も新しくしますように。あなたは私たちを生かすために、死んでよみがえってくださいましたから。『出る釘は打たれる』と言われようと、臆せず遠慮せず、何が最善かを賢明に選ぶことが出来ますように。そして、私たちの精一杯よりも遥かに大きく不思議なあなたの導きを受け取らせてください」



[1] パウロは、フェストゥスの提案するエルサレムでの裁判には期待が出来ない現実も見据えています。既にユダヤ人の法廷には期待が出来ず、正義が明らかにされるとは考えていません。また、そこでの殉教も惜しまない弁明が「証しの機会」になればいい、という発想もしていません。翻って、冤罪が発生するシステムの一つに、「裁判でなら事実が明らかにされるだろう」という見込みがあるとも言います。パウロは、そしてキリスト者は、そういううぶな期待をしないのです。

[3] 上訴が協議で却下されたなら、釈放されてローマに行けば良いのです。

[4] ただ人が良いとか、立派だというのではなく、悪びれずにカイザルへの上訴を語るパウロの存在に興味を抱かずにおれなかったのです。それは私たちの模範でもありますし、私たちは自分にもどんな人も、囚人であろうと過去がどうであろうと、人がどう言おうと、与えられた機会を十分に生かして歩んでよいのだ。遠慮したり諦めたりせず、自分の願いや命を大事にして、助けを求めて良いのだ、という証しになっていけば、嬉しい事です。

[5] また、自分の価値を抑圧しようとすると、逆に卑屈さの苦しみから、自罰的だったり反抗心からだったりする行動を取ってしまう、痛々しいメカニズムになってしまいます。だからこそ、反抗心や諦めきれない思いや、臆病や自己卑下から行動せず、自分の心につながり、機会を十分に生かして、祈りつつ、出来る限りの行動を取ろう。肝心な決断を人任せにして、誰かが察したり、気づいて行動したりしてくれるのを待たず、自分から堂々と声を上げよう。それは、やがて神が私たちのために正しく裁いて下さる、という正義への希望からの行為なのだ。

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