聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問29「イエスはユニーク」使徒4章11-12節

2016-08-14 20:12:49 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/08/14 ハイデルベルグ信仰問答29「イエスはユニーク」使徒4章11-12節

 皆さんは自分の名前が好きですか。こんな名前だったらいいのに、と思うことはあるでしょうか。私は、自分の「和男」という名前、結構好きです。でも、子どもの頃から「和男くん」と呼ばれることは余りありませんでした。「古川」という名前の方が珍しいし、特徴がありますから、「古川」と呼ばれたものです。だから、「和男」と呼ばれると嬉しかったものです。でも、今は「和男」という名前も珍しくなってしまいました。珍しい名前の人は、もっと普通の名前がいいなぁと思うかも知れません。よくある名前の人は、ありふれた名前で損だなぁと思うかも知れません。

 聖書が書かれた時代、「イエス」という名前はどうだったと思いますか。珍しい名前だったのでしょうか、よくある名前だったのでしょうか。鳴門の教会にも、「あい」ちゃん、「ともこ」さん、「まさこ」さん、「まなみ」さんが何人かいますけど、聖書にも「イエス」と呼ばれた人は、三人か四人いるのですね。とても特別な名前と言うよりも、「イエス」と呼ぶ人たちは、とても身近な、親しみを感じたのでしょう。

問29 なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。

答 それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、他の誰かに救いを求めたり、ましてやそれを見出すことなどできないからです。

 イエスの元々の意味は「救済者」だとあります。「イエス」とはギリシャ語の発音で、元々のヘブル語では「ヨシュア」の事です。モーセの後を継いでイスラエルのリーダーとなった、あのヨシュアですね。その名前をギリシャ語風に発音すると、イェースースとなって、ヨシュアになるのだそうです。旧約聖書の有名な人物に肖って、子どもにイエスと名づける親はたくさんいたのも分かりますね。

 しかし、イエス・キリストの名前は「よくある人気の名前」だったから付けられたのではありませんでした。ヨシュアという名前には「救済者」または「主は救い」もしくは「主は救う」という意味があったんですね。「ヨ(イェ)」は「主(ヤハウェ)」の「ヨ」で、「シュア」は救い(救う)を現す言葉です。ですから、ヨシュアとは「主が救われる」という告白を込めた名前だったのです。そういう意味の名前をキリストが持たれたのは、偶然ではありませんでした。新約聖書の始め、マタイの一章には、キリストがお生まれになる前に、御使いがヨセフに夢でこう言います。

マタイ一21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 ここにハッキリと言われています。イエスと付けるのは、生まれてくる方が、ご自分の民をその罪から救ってくださる方だから、なのです。そして、イエス・キリストは、私たちを私たちの罪から救ってくださるのです。そのような救い主は、他にはいません。この方が、私たちの罪からの救い主であることは、完全に保証されているのです。

 後にペテロが言ったのが、先に読んだ「使徒の働き」の言葉です。

使徒四10皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。

11『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。

12この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 当時の人々にとっては、イエスなんてありふれた名前だし、十字架に殺してしまえばいいと思うほど、無力で平凡な人間に思えたのでしょう。イエスは

「捨てられた石」、

役立たずで使う価値のないものとしか思われませんでした。でも、そのありふれた一人となり、捨てられるくらい卑しくなったイエスこそ、天の下でただ一人、私たちを罪から救ってくださるお方なのです。昔のヨシュアに肖ってとか、響きが格好いいから、といのではなくて、本当にその名前の通り、主の救いを果たしてくださるお方として、イエスはこの世においでになったのです。

 ここで、この方は

「私たちを私たちの罪から救ってくださるから」

と言われています。ただ、滅びや苦しみから救う、ではないのです。勿論、イエスは私たちを滅びから救い、最後には神の国に迎え入れてくださいます。死を迎えても、永遠の滅びを恐れる必要はありません。それは測り知れない祝福です。けれども、それ以上に、

「私たちを私たちの罪から救ってくださる」

のですね。私たちには、自己中心的な罪の思いがあります。人には見せたくない恥ずかしく身勝手な心もあります。何よりも、神を信じないで、神以外のものに頼り、縋り付こうとする間違った傾向があります。でも、そういう心の深い所での間違いから、イエスは私たちを救い出してくださるのです。

 こういう救い主は、イエス以外にいません。私たちが自分で「良い子」「良いクリスチャン」になったらイエスも救ってくださる、ではないのです。私たちが自分では自分を救えない罪を抱えていることをイエスは知っておられます。そして、そんな私たちを呆れたり責めたりせず、救いたいと願って、イエスはこの世に来られ、十字架に殺されてくださったのです。本当にご自分を惜しみなく与えてくださったのです。そのイエスが、私たちと今もともにいてくださって、私たちを罪から救い出すと約束してくださっています。私たちの人生をかけて、心に深く働きかけて、私たちを私たちの罪から必ず救ってくださるのです。なんという有り難いことでしょうか。

 この問29から、使徒信条の

「御子なる神について」

の解説が続きます。私たちが

「われはそのひとり子、我らの主イエス・キリストを信ず」

と告白するのはどういうことなのか。その最初の「イエス」について、今日はお話ししました。イエスとはヨシュアと同じで、「救済者」私たちを私たちの罪から救ってくださるという意味の名前です。そして、本当にイエスは、私たちを私たちの罪から救ってくださる、唯一のお方なのです。この「イエスを信ず」私たちは、罪からの救いをも信じ、求めて行く集まりでもあります。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 申命記三三章(26-29節)「... | トップ | Ⅰ歴代誌29章10-19節「歴代誌... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ハイデルベルグ信仰問答講解」カテゴリの最新記事