聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答116~117 ヨハネの黙示録20章20-21節「マラナ・タ」

2019-06-25 14:27:12 | はじめての教理問答

2019/6/23 ヨハネの黙示録20章20-21節「マラナ・タ」はじめての教理問答116~117

 神様は、私たちに聖書を与えてくれました。聖書は、長い年数をかけて、たくさんの人が書いてきた神様の言葉をまとめた本です。イエス・キリストも聖書の言葉を使いました。ですから、教会では聖書を基準に物事を考えます。皆さんにも、毎日、聖書を読むことをお勧めしています。それと同時に、教会が大事にして来た、三つの文書があります。「十戒」「主の祈り」「使徒信条」です。その一つが「主の祈り」です。イエス・キリストが教えて下さった、六つの願いからなる、お祈りのお手本です。これもぜひ、皆さんの毎日に取り入れてください。そして、主の祈りをただ繰り返すだけでなく、そこから自分の願いや周りの必要のためにも祈ってください。先週から、主の祈りを一つずつ見ています。今日は第二の願いですが、まさにこの願いは、私たちが自分のためにも、人のためにも、この世界全体のためにも祈るように教えてくれる祈りです。■

問116 第二の願いごとはなんですか?

答 第二の願いごとは「御国が来ますように」です。

 「御国が来ますように」の「御国」とは、神様の国のことです。また「国」とは王国(キングダム)という言葉です。神が王として治めてくださる国です。神様、あなたの国が来ますように、と祈るのです。私たちは今、日本に住んでいます。世界には沢山の国があります。国によって言葉も考えも、いろんな事が違います。けれども、その全ての国の人が、自分の国よりも大きな「神の国が来ますように」と祈るのです。

 今から二千年前、イエス・キリストが来られた場所は、ユダヤという国です。今のイスラエルという国のある辺りが聖書の舞台です。そしてイエス・キリストがおいでになった時、ユダヤの国は当時ローマ帝国という大きな国によって支配されていました。ローマの国は強くて、豊かでした。しかしユダヤの人たちは、ローマ人ではないので、馬鹿にされたり税金を沢山払ったり、悔しい思いを沢山していました。ですから、ユダヤの人たちは、神様がローマを滅ぼして、自分たちの国をまた建て直してくださるよう、願っていました。一方、ローマ帝国は、皇帝が治めていて、反逆する人たちは容赦なく殺されていたのです。強い国が弱い国を治めたり、戦ったりしている。それは、昔も今も世界中で見られている状態です。そういう中で、イエス様は

 「御国が来ますように」

と祈りなさいと教えました。それは、ユダヤ人にとっては、復讐や反逆を投げ出す在り方です。そして、ローマ帝国にとっては、反逆と見られるような祈りでした。自分たちの国ではなく、神が王となる国が来ると祈るなんて、とんでもない、と思わせたのです。そういう大胆な祈りをイエスは教えたのです。今、私たちがこの日本で

 「御国が来ますように」

と祈るのも、実はとても大胆な祈りです。私たちは、本気で、神が王となってくださる事を待ち望んでいるのです。

 ただし、それは決して、革命とかテロのような方法によってはなされません。武力や政治や力によって、神の国を来たらせることは出来ません。

問117 「御国が来ますように」とはどういう意味ですか?

答 もっともっと多くのひとが神さまの福音を聞き、信じ、従うようにしてくださいという祈りです。

 多くの人が神様の福音を聴き、信じ、従うようになる。それが、神の国が来ますように、ということです。神様がおいでになって、みんなが慌てふためいて、嫌がる人は反逆者として虐められる。そんな出来事は人間の歴史ではよくありますが、神の国はそんな国ではありません。神が王であるとは、人が神に出会って、神を心から信じて、心から従って生きるようになる。そうなることなのです。

 イエス・キリストが今から二千年前に活動をしたのは、30歳の頃の3年間だけでした。イエスは

 「悔い改めなさい。神の国は近づいた」

という言葉から宣教を始めました。イエス・キリストは神の子、神の国の王です。イエス・キリストが来たのは、この世界に、神の国が来たことの始まりだったのです。そして、イエスは、人々の神の国がどんな国なのかを教えて下さいました。譬え話や、奇蹟や、病気の癒やしで、また一緒に過ごしたり、一緒に食事をしたりすることで、神の国がどんな国なのかを教えてくださったのです。ユダヤ人でもローマ人でも、日本人もインドネシア人も、韓国人もアメリカ人も、今どの国の人でも、誰一人、馬鹿にされたり苦しめられたりしないのが、神の国です。神は、国が争ったり、国が違うからと嫌な思いをしたりすることを終わらせます。神が王として来てくださる。その嬉しい知らせを信じて、私たちは生きていくのです。

 今日は、ヨハネの黙示録24章20節、聖書の一番最後の言葉を読みました。

20これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

21主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。

 主イエスよ、来て下さい。この祈りが聖書の結びにあるのです。この言葉は、教会でとても大切にされていました。そして「主よ来て下さい」という代わりに

 「マラナ・タ」

とも言われていました。イエスが話していたアラム語の「来たまえ(マラン)主よ(アタ)」を、そのまま教会の中で用いたのです。ローマ帝国で、ローマ市民もギリシャ人も他の国の人々も、片隅のユダヤ人の言葉で「マラナ・タ」と声を合わせて、「主よ、来て下さい」と祈っていたのです。どんな国の人も、一緒に「主よ、来て下さい」と願うようになった。そこに、もう、イエスが仰った「神の国が近づいた」という知らせが形になっていたのです。国も言葉も肌の色や文化も越えて、一緒に

 「神様、あなたの国が来ますように」

と祈るようになりました。素晴らしい始まりです。

 今、世界は随分仲良くなりました。世界の人たちと繋がるようになりました。でもまだ国が違うと争うことがあります。同じ国の中でも喧嘩や虐めがあります。その仕返しをしたり、心が憎しみや悲しみで一杯になったりしています。その心にも、イエス・キリストは来て下さいます。私たちを癒やし、また誰かを憎んだりバカにしたりする心を恥じるようにしてくれるでしょう。そうして、全ての人が、神の国の中でともに祝う時を迎えるのです。その時が来ますように、と祈ります。その時は必ず来ると、信じて祈ります。そして、その時がもう来ているかのように、今ここでも歩みましょう。本当の王である神様以外のものを恐れずに、神の御国の民として一緒に生きていきましょう。

God' Dream by Desmond Tutu

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