2020/8/2 マタイ伝9章1~8節「本当の権威」
イエスの所に中風の人が運ばれてきました[1]。イエスが多くの病人を癒やしていると聴いて、この人も癒やしを願ったのでしょうか。いや、本人より周りの人の方が熱心だったのかもしれません。連れてこられた時に、イエスは
「彼らの信仰を見て」
とあります。この人の信仰とは言いません、連れてきた人たちも含めた信仰を、イエスはご覧になったのです。他の福音書ではもう少し詳しく書かれて、連れてきた人の一途さが印象的です[2]。しかしマタイでは、彼らの信仰を見たイエスに目がとまります。私たちの行動、ぎこちない、小さな信仰をさえ見てくださって、喜ばれて、応えてくださる。人が誰かを助けよう、病気の人を放っておけない、そういう思いをイエスは見ています。しかし、その次にイエスがなさったのは、中風の癒やしではありませんでした。
「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」。
こう仰ったのです。
今までイエスは教えを語りました。その教えも権威があることに人々は吃驚仰天しました[3]。その次にイエスは病人を癒やされました。大勢の人が集まってきました。次に、イエスはそこから湖を渡って向こう岸に行かれましたが、途中で嵐になった時、風と湖を叱りつけて従わせ、弟子たちはここでも驚きました。その後、向こう岸では悪霊に憑かれた人から凶暴な悪霊を追い出す、という出来事があって、悪の霊、邪な人格というものに対しても、イエスが圧倒的な力を持っていることが証明されました。教え、病気、自然界、霊に対しても、イエスには権威があると示されてきたわけです。その上で、イエスは身体が麻痺した病人に向かって、
「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された(赦されている)」
と言う。これまた新たな、本人も周囲の人々も驚かせた、イエスの爆弾発言だったでしょう。特に居合わせた律法学者たちが、
3…心の中で「この人は神を冒涜している」と言った。
とあります。イエスの癒やしや働きを見に来ていたこの学者たち、聖書の専門家たちは、この言葉に「冒涜だ」と鋭く反応したのです。おおっぴらには言いませんでしたが、心の中で言ったのです。すぐに6節の
「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」
を仰ったのなら、反応も違ったのでしょう。それをイエスは
「あなたの罪は赦された」
と仰った。それはここまでの驚きにまた新しい驚きを重ねる発言でした。律法学者たちは
「神を冒涜している」
と思いました。
しかし、イエスからすると、この罪の赦しこそ言おう言おうと待っていた言葉、と言って良いのでしょう[4]。今までの病気の癒やしも嵐を鎮めた奇蹟も、イエスが神から授かった権威を表しています。その、天地のすべての権威を持っているイエスが、私たちの罪を赦す。神が求められる生き方をせず、神との関係も人との関係も自分との関係もこじらせて、二進も三進もいかなくなってしまう人間の罪を、イエスは「あなたの罪は赦された」と宣言してくださる[5]。
5『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
どっちも難しいのです。今まで病気を癒やした延長で、「起きて歩け」と言われて歩かせたとしても驚くべきこと。その難しいことをなさる権威を持っているイエスが、罪を赦す。そして現実に人を、囚われていた罪から解放して、歩み出させる。それこそイエスの権威です。神の、いいえ本当の権威というものは、人を生かすからこそ、権威として重んじられるのですね。
律法学者たちにイエスは
「心の中で悪いことを考えている」
と言いました。神は罪の赦しのために、一人子イエスを送ってくださったのに、赦しなんて冒涜だ、もっと神は厳しい方だ、と邪魔立てする考えを、イエスは「悪いこと」と厳しく仰います。この言葉も驚きです。神はイエスを通して
「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」
と告げるお方。この憐れみこそが権威なのです。
私たちは聖書を通して、この世界のすべてを作って今も支えておられ、必要とあらば、病気を癒やしたり、嵐を鎮めたり、いや、世界をひっくり返すことも出来るお方を信じています。そのお方が、私たちを愛しておられ、今日も私たちを支えている、という大胆な告白をしています。そして、その神が、ご自身や人との間に抱えているあらゆる罪を、脅したり謝罪を求めたりする先に、赦し、解放してくださる、とさえ告白する。抱えている心の重荷を、やがては手放させてくださる。私たちが「しっかり」生きることが出来るように助けてくださる方だ、という本当に不思議で恐れ多い告白を、イエスにあってしていけるのです。
この礼拝は
「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」
という御声を聴く場です。イエスが「あなたの罪は赦された」と言ってくださって、新しい一週間に踏み出します。「しっかり」出来ない時もあるし、罪を繰り返すことが続いても、それでも主イエスがこう仰る言葉に、力をいただけます。勿論、癒やされたい病気もある、必死に祈っている問題もある。それを叶える力のある主が、私たちの心の奥深くの罪を扱ってくださる。水を差す言葉も溢れていますが、主は「しっかりしなさい」と仰って、そうさせてくださいます。世界を作られた主は、私たちの思いもつかないような方法で、この世界に働いています。そのしるしとして差し出された主の聖晩餐を、今パンと杯をいただきませんが、制定の言葉で味わいましょう。
「主よ、世界を作り、天候も、頑丈な身体も作りうるあなたが、私たちの心や、罪の苦しみや、精一杯の信仰に目を留めておられます。何でも出来る方が、私たちのために人となり、ご自身の命で、赦しと励ましをくださいました。その愛で私たちを満たしてください。今この困難な時代に、どうか私たちを生真面目であなたを歪めた悪い考えから救い出し、互いに生かし合い、励まし合わせてください。そこにも、あなたが権威をもって働いてくださり、支えてください」
[1] 新改訳2017では欄外に「すなわち「からだが麻痺した人」」と書かれています。今では脳卒中で重い麻痺が残っている、と言った方が分かることばです。動けない人なので、床に寝かせたまま運ばれるしかなかったのです。
[2] この同じ出来事を伝える、マルコやルカの福音書では、詳しくは四人の人が連れてきて、イエスのいる家がぎっしりだったために、家の屋根に上り瓦を剥がして、イエスの前に下ろした、と書かれています。マルコ2:3「すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。4彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。」、ルカ5:19「しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。」
[3] 7章28、29節。
[4] マタイは、罪の赦しを繰り返して強調する。主の祈りで「お赦しください」と祈るよう命じ、赦されたのだからあなたがたも赦せ、と念を押す。例え話でも。教会の「鍵の権能」では、教会にこの「権威」が与えられている。12:1でも。こんな権威を、イエスという人だけでなく、教会という人の集まりにも託される。それは、神の御心が赦しだから。それを邪魔立てするのは「悪いこと」と言われるから。
[5] 罰して叱りつけて、あるいは「まず謝りなさい。悔い改めて、しっかりした信仰を見せなさい、そうしたら赦してあげよう」とは言われないことにも注意。「しっかりしなさい」も、「勇気を持ちなさい。確信を持ちなさい」とも訳せるニュアンスです。「(赦されたのだから)しっかりしなければいけない」というより、「(赦されたのだから)堂々と生きなさい。確かな恵みに立って生きることが出来るのだ」という壮行の辞です。
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