聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/7/26 Ⅰペテロ書1章1~2節「成長させてくださる神」ニュー・シティ・カテキズム31

2020-07-26 15:55:15 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/7/26 Ⅰペテロ書1章1~2節「成長させてくださる神」ニュー・シティ・カテキズム31

 今日のタイトルは「成長させてくださる神」としました。「成長」。これはキリスト教会の考える救いをよく表した言葉でしょう。教会に限らず、多くの宗教でも「救い」を歌います。しかし、同じ「救い」という言葉でも意味は様々です。キリスト教会でいう救いとは、どういう事でしょうか。今日読んだペテロの手紙第一はこう言います。
…選ばれた人たち、すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、…ますます豊かに与えられますように。

 「イエス・キリストに従うように」。
 これが、神が私たちに考えておられる「救い」です。ここに、前回も「使徒信条」で確認した「三位一体」が出て来ます。父なる神の予知、ご計画のままに、御霊(聖霊)による聖別、お働きによって、イエス・キリストに従うことが私たちに始まる。この父と御霊とイエスの三位一体のチームワークで、私たちに与えられる救いがあるのです。私たち人間は、それぞれに自分なりの「救い」を考えて、神さまに期待します。イエス・キリストがそれを叶えてくださることを期待します。その私たちの理想よりも、神は遥かに大きく、私たちの救いを考えています。それが、私たちがイエス・キリストに従って歩む、という私たちの変化・成長なのです。
第三十二問 義認と聖化とはどういう意味ですか?
答 義認とは私たちが神の御前に義と宣言されることで、私たちのためのキリストの死と復活によって可能となりました。聖化とは私たちの義が徐々に成長していくことで、私たちの内に働く御霊によって可能となりました。
 「義認」と「聖化」。この二つの言葉が、いきなり出て来ます。それは、この二つの言葉が、キリスト教の救いを分かりやすく教えてくれるからです。まず、私たちは、キリストの身代わりの死と復活によって、自分の罪の罰を受けることなく、義とされます。私たちは、イエスの死のゆえに、もう「罪人」とか「滅びの子」という肩書きではなく、「神の子ども」「キリスト者」という立場を戴けるのです。誰も、それを否定できる人はいません。神ご自身が、私たちの罪を赦しを願い、御子イエスが罰を受けてくださったので、誰もそのことに文句を言う筋合いはありません。

 それは私たちの親子関係にも似ています。親が子どもを産んで、出生届を出せば、もうその子どもは正式な親子関係を持ったのです。まだその子は、そんなこと知らないかもしれません。どんなお父さんで、自分がその子どもであることがどういうことか、赤ちゃんには分からないでしょう。それでも、もう事実、その家の子どもなのです。赤ちゃんがまだしわくちゃでも、何か病気や障害があっても、泣いたりおしっこをもらしたりしていても、誰かが何と言おうと、その子はまぎれもなく、親にとっての子どもです。
 「義認」とはそういうことです。神が私たちを、義と認め、神の子どもとして受け入れてくださったのです。神の御子イエスが、私たちのために人となってくださって、私たちの罪も引き受けてくださったので、私たち人間が、神の子どもという立場をもらいました。まだ私たちは、それがピンと来ないかもしれません。神さまがよく分からず、びくびくしてしまうかもしれません。他の人が、「お前が神さまの子どもになるなんて、信じられないよ」とか「そのうち見捨てられちゃうよ」とか、勝手なことをいうかも知れません。でも、人がどんなことを言おうと、イエス・キリストが私たちの救い主だということは、もう神が私たちの裁きではなく、義を宣言してくださった。神の家族の立場をいただいたのです。これが「義認」という、救いの一面です。

 でもそれで終わりではありません。赤ちゃんは、いつまでも赤ちゃんでいたら勿体ないです。段々成長します。自分で歩くようになり、考えるようになり、社会のことを学んでいきます。そして、本当にその家の子どもらしく、言葉や仕草や考え方を身につけていきます。身分がその家の子どもだ、というだけでなく、心も人格も、頼もしい少年、青年、大人に成長していくでしょう。心も生き方も本当にその家の子どもになるのです。
…聖化とは私たちの義が徐々に成長していくことで…。
 神が下さった「義」(神との正しい関係)は、私たちの中で徐々に成長していきます。それは
「私たちの内に働く御霊によって可能と」
なった、神の子どもとしての成長です。神の子イエスが、父なる神様に信頼して、父に従ったように、私たちも神に信頼して、神に従っていきます。イエスが、私たちを愛して、私たちを受け入れてくださったように、私たちも、自分も他の人も心から愛して、受け入れるようになります。まだ罪や悩みはあります。完璧になるのでも、完璧なイエスの真似をするのでもありません。イエスは、真似とか見せかけなんて、全く気にしなかったのです。そして、イエスは、私たちを、罪も弱さも問題がどんなにあろうとも、私たちを愛し、喜んでくださり、神の子どもに受け入れてくださいました。
 そして、聖霊は私たちが成長するよう働き続けてくださっています。だから、私たちも、そのイエスのように、聖霊のように、不完全な自分を愛します。成長途上の隣人や他の人を愛し、その長い成長を助け合います。それも、一生掛けて、愛するように、素直に生きるように、心から与えるように、神さまの愛を受け取れるように、少しずつ少しずつ、成長させていただくのです。

 C・S・ルイスという人がこんな事を言っています。
「神は私たちを幸せにしたいのではない。私たちを成長させたいのだ」。
 そうです。神は私たちを成長させてくださる方です。それが、聖書を通して語られている救いです。イエス・キリストが下さったのは「罪の赦し」(義認)から始まって、「義に成長する」(聖化)の旅という大きな救いです。そして、神は私たち一人一人を違うように作られたのですから、一人一人に違う旅を用意しています。誰もが、特別なその人生を歩みながら、神の子どもとして成長して行きます。そして、お互いのその歩みを通して、励まされたり助け合ったり、一緒に神の御業を崇めていくのです。「義認」と「聖化」。立場と成長。神が下さる救いは、本当に豊かなものです。その救いの旅を、一緒に歩んで行きましょう。

「私たちの救い主、主よ、あなたは義認の御業を完全に成し遂げ、今、聖化の御業を始めてくださっています。私たちが完成に辿り着く最後まで、あなたがその旅路を守り導いてくださることを信じます。どうか日々私たちを主の似姿へと造り変え、あなたの道にふさわしいものとしてください。アーメン」

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