聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒8章26-40節「一緒に座って」

2017-09-17 18:15:14 | 使徒の働き

2017/9/17 使徒8章26-40節「一緒に座って」

1.サマリヤからガザへ

 今日の箇所は「エチオピアの宦官」として知られるエピソードです[1]。とてもドラマチックで忘れがたい出来事です。不思議な出会いです。ピリポにしてみたら、八章前半で見たように、サマリヤでの大勢の回心や新しい宣教の広がりを見て喜んだのとは、また全く違う出来事です[2]。主の使いが直接語りかけて、

「エルサレムからガザに下る道に出なさい。このガザは今、荒れ果てている」

と命じました。荒れ果てた町ガザ、もしくはガザへの荒れ果てた道へ、なんで行かなければならないのか、と思いたかったかも知れません。ともかく暑い中、行ってみたら、エチオピア人の高官がエルサレムからエチオピアに帰る途中に出くわすのです。

「馬車に乗って」

とありますが、牛車にも使われる言葉です。ピリポが走って話しかけるには、馬車より牛車のほうがありそうです。近づくと、なんとイザヤ書の朗読の声が聞こえたのでした。

 この出来事と前半のサマリヤの宣教は対照的です。勿論、サマリヤ人も異邦人も両者とも、ユダヤ人にとっては他民族(余所者)として軽蔑していた人です。そうした他民族に福音を伝えて、民族の壁を越えた神の民とされていくという意味では通底しているものがあります。けれども、サマリヤの宣教で町中の人々が福音を信じて、魔術師シモンまでも自分の非を認めた、という大きなドラマだけであれば、やっぱり数とか上辺に囚われてしまったかもしれません。この興奮も覚めやらぬ段階で、主があえてピリポをエルサレムからガザに下る道、荒れ果てた、何の期待も出来ないような場所に遣わされました。すると、そこには聖書を読みながら帰って行くエチオピア人がいました。その一人のために、ピリポは遣わされ、またこの一人が洗礼を受けただけで、ここから取り上げられてアゾトに移されるのですね。一人のために、です。

 しかもその一人がエチオピアの高官だったのも誤解しやすいかもしれません。一人とはいえ有力者だった、名士だった、敬虔な人だった。ただの庶民やいい加減な信仰者ならこうはならなかった、と思いやすいのです。しかし、逆ですね。エチオピアの高官といえども、彼はエルサレムまで礼拝に上ってくる一求道者でした。その距離は北海道から九州までぐらいの二千キロだと言います。その距離を牛車でトボトボ何週間かかってくるのでしょう。それは彼の立派さというより、求める心の強さ、女王の財産全部を与りながらもそれでは満たされない切実な生き方でした。そして、神殿から帰る道もまだ聖書を読み、導きを求め、この預言の言葉は誰について言っているのだろう、と考え、悩んでいた一求道者だったのです。こういう彼にピリポは声をかけ、乞われて車に乗り込んで一緒に座りました。それは実に奇妙な光景です。

2.大臣と難民

 エチオピア女王の全財産を管理している大臣と、エルサレム教会で貧しい女性の世話に追われてきたピリポ。いや、先の大迫害でエルサレムを追い出され、難民となっていたピリポです。謁見に相応しいどころか、暑いガザへの道まで歩いてきて、牛車に走ってきて汗をかいていたピリポ。それと、牛車に乗って長旅をする、エチオピア女王の大臣。この組み合わせの不思議さも、今日の箇所の特徴でしょう。そして、それがそのまま肝心の質問に通じます。

32彼が読んでいた聖書の箇所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。

33彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。

34宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」

 イザヤ書五三章は、キリストの受難をハッキリ預言する、「苦難のしもべ」として知られる箇所です。それだけにイエス・キリストを知らなければ意味不明です。この高官もここの黙々と殺されていく「彼」、卑しめられて殺される「彼」は誰かと思案していました[3]。卑しめられ、殺される人物が神の民の回復に、二つとない役割を果たすという、それは一体誰のことかと引っかかっていました。でも彼はまさか神の子とは思わず、預言者か誰かとしか思えません。

35ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

 イザヤが語った、自分を小羊のように生贄に捧げて、神の民を回復するのは、イザヤでもなく他の誰かでもなく、神ご自身の御子イエスである。神の子がこの世界に人として来られ、十字架の死にまで卑しくなり、御自分を捧げてくださった。その出来事をピリポはエチオピア人に伝えたのです。まさか、という知らせでした。聖書が神の言葉で、特別な希望や光をもたらすとは信じていたでしょう。旧約の歴史からイスラエルの民と共に歩み、真剣でいてくださった主の不思議な御業にも感銘を受けていたでしょう。でもその神がまさか自ら人となり、卑しめられ、人間の裁判でも弁明せず、十字架に死んでくださった。その知らせにエチオピア人はどれほど驚いたでしょう。エチオピアの宗教にも世界のどんな宗教や人間の考える物語が到底思いつかない神です。そして彼は水のあるのを見て、洗礼を申し出て、キリストの民に加わることを願い出たのです。これにはピリポが驚いたのでしょう[4]。そして、洗礼を受けた後、主の霊がピリポを連れ去りますが、宦官は彼がいなくとも

「喜びながら帰って行った」

のです[5]

3.一緒に座る

 これは私たちにとっても深く思い巡らさせられるエピソードです。サマリヤの大きな出来事も尊いことでした。しかし主はあえて、そのような成長のただ中でこの先の展開を期待し夢を膨らませる上り坂におらせるより、もっと違う所に私たちを置かれるお方です。人里離れた場所で、意外な一人と向き合わされ、ほんの僅かな時間一緒に過ごさせられることもなさいます。そしてそこでの出会いを通して、イエスを分かち合い、それによって相手が喜びに溢れて帰って行く。ピリポはそれを見送るだけで手を離させられるのですが、それでもそのためだけに、荒れた道に行かされる事があります。

 正直な話、私たちは反射的にこう考えるはずです。「その大切さは分かるけれど、そもそも御使いが直接宦官に話しかけたらいいじゃないか。去る時みたいに、最初もパッと彼のそばに現れるようにしてくれても良かったじゃないか」。

 けれども、主イエスご自身がどうだったでしょうか。神の力や見えない導きだけで済まさず、二千キロどころではない天と地、創造主と被造物という無限の隔たりを越えて私たちの所に来て下さいました。宇宙の片隅の小さな星で一瞬現れては消える虫けらに等しい人間の存在です。女王の高官だろうとローマ皇帝だろうと、庶民も貧民も「団栗の背比べ」です。でもその私たちに世界の造り主なる神は目を留め、私たちを愛しまれます。私たちに走り寄り、私たちの人生で隣に喜んで座ってくださり、疑問や呻きや祈りに耳を傾けてくださいます。ご自身の犠牲も惜しまずに私たち一人一人を生かし、神の子、神の民として生かしてくださる王です。

 そしてこの王は私たちをも導かれ、ユニークに出会わされます。肩書きや関係にパターンはありません。見知らぬ人か、よく知った家族かも知れません。しかし、その出会いや煩わしさや会話を通して、誰よりも私たちの隣にいるイエスを分かち合うことが出来ます。その時に、私たち自身が新たにイエスに出会わせていただく。私たちを愛して御自分を捧げられたイエスの姿が、改めて心の目に焼き付けられるのです。華々しく劇的な働きから、主は思いがけない導きによって荒れた地に送られもするのです。それは私たちが一人と関わり、限られた出会いを通して恵まれ、イエスを知るためです[6]。使徒八章の思いがけないこのエピソードは、私たちの人生にもある思いがけない出来事、予期しない出会いや展開を、主の導きの光で見せてくれます。

「主よ。あなたは私たち教会に、拡大や成長ではなく、迫害や中断、荒野の道を通らせて祝福なさるお方です。神の恵み、聖霊の力、御使いの助けによって、私たちの今週の出会い、人間関係をも導いて、あなたの栄光を現してください。また私たちが、本当に御子イエスが命を捧げてくださった驚くべき愛を、小さな出会いや会話から改めて受け取ることが出来ますように」



[1] けれどもこのエチオピアは現在のエチオピアではなくエルサレムからはその一つ手前のスーダンなのだそうです。

[2] 25節で「このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、…」とあるのは「彼ら」です。使徒(ペテロとヨハネ)だけでなく、ピリポもサマリヤを引き上げ、エルサレムに帰ったのかもしれません。そして、26節の言葉は、サマリヤからではなく、エルサレムからガザへ行けと命じられたことは十分あり得ます。その場合でも、サマリヤにかかり切ったのではなく、エルサレムに引き上げたピリポたちの姿勢は、一考の価値があります。

[3] 彼がちょうどこの箇所を読んでいる所に通りかかった、と見ることも出来ますが、彼がギモンに思っていたこの箇所辺りを繰り返して読んでいた、と考えることも出来ますし、その方が自然に思えます。

[4] 洗礼を勧めたのでもないのに、相手の方から申し出たのです。

[5]「宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った」と訳されているこの言葉は直接には「…彼を見なかった。彼(宦官)が喜びながら帰って行ったからである」です。宦官が十分に喜びに満たされて、もうピリポの存在や導きを必要としなかったかのようです。

[6] しかし、そういう私たちが変えられて、人数や出来事や地位とか影響とか、そういうことの大きさや楽を考えるより、本当に一人を大事にすること、出来る労苦を淡々としていき、この一人の喜びを大切に、一緒に喜ぶように変えられる事を迫られるのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 問87「もったいない生き方」1... | トップ | ダニエル書六章「ライオンの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

使徒の働き」カテゴリの最新記事