聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き13章1-15節「主が召した働きに」

2018-01-07 15:08:51 | 使徒の働き

2018/1/7 使徒の働き13章1-15節「主が召した働きに」

1.第一回伝道旅行

 久しぶりに「使徒の働き」に戻ります。今日の一三章からパウロの三回の伝道旅行が書かれます。パウロ自身は三回の伝道旅行を計画したつもりはなかったでしょう。それどころか、誰も伝道旅行に出掛ける、宣教のためにどこかに積極的に出掛けていくという発想を持っていなかったようです。置かれたその場所で神の言葉を語り、散らされていったらそこで福音を伝えるという伝道で、教会は広がっていったのです。それがこの時初めて、アンティオキアの教会に聖霊が語りかけ、積極的に伝道のための旅行に出掛けていく、という行動に導かれたのです。

 バルナバとサウロを送り出す。それはアンティオキアの教会にとって大変痛い決断だったでしょう。初めての異邦人教会の成立は暗中模索だらけだったでしょう。1節の顔ぶれも

「ニゲル」

は黒人を指したでしょうし、領主ヘロデの乳兄弟という権力者の家系や、迫害者だったサウロ、五人とも個性派です。大都市アンティオキアは国籍も文化も言葉も多様な人種の坩堝でした。彼らが一つ教会として育ったのは、バルナバとサウロがいたからこそでした。しかし今、聖霊はその中心的なバルナバとサウロを聖別して、主が召した働きに就かせるよう言われます。宣教師を遣わす派遣団体では「教会が簡単に喜んで送り出す人物はいらない。『大切な人材だから送り出したくない』という人こそ、宣教師として相応しい」と考えるそうです。ここでも、バルナバやサウロを送り出すことには躊躇いがあったでしょう。けれども、彼らはその言葉を受け入れて、悲しみや心配を断食で十分に嘆いた上で、二人の祝福を祈って派遣したのです。

 これに似ているのが、大事な娘を嫁に出す、優秀な片腕が独立する、大切な人を惜しみつつ見送る、などでしょうか。主が一人一人をどう召されるかは、私たちの願いとは違います。それは主が冷たいお方だからではなく、主の深い憐れみによることです。バルナバとサウロには召された働きがありました。彼らの宣教を必要としている人々が待っていました。そしてアンティオキアの教会にとっても、主を信じて二人を送り出し、主に新しい展開を期待して、内向きではなく外に向かう教会として踏み出すことは大切な前進でした。私たちが、大事な何かを自分のモノとして握りしめずに手放し、主に献げるのです。教会も「自分たちの教会」ではなく「主の教会」として手を開き続けます。それは、それ自体が主イエスに従う恵みなのです。

2.魔術の敗北

 さて一行はアンティオキアから港町セレウキアに下って、船でキプロス島に向かいます。東西に細長いキプロスをユダヤ人の諸会堂で宣べ伝えながら、反対のパポスまで行きました。ここでバルイエスというユダヤ人の魔術師で偽預言者に出会います。彼が庇護を親しくしていた地方総督が、バルナバとサウロの話を聴こうとした時、この魔術師は邪魔をし出しました。その時サウロは聖霊に満たされて、彼をにらみつけて、実に容赦ない非難を浴びせます。すると、その言葉通り、たちまち魔術師を霞と闇が覆って、視力を失って、手を引いてくれる人を捜し回った、というのです。総督はこの出来事を見て、主の教えに驚嘆し、信仰に入ったのです。

 これはとても驚く出来事です。そして怖い出来事でもあります。決してこのような出来事ばかりが起きたわけではないし、反対者を呪うような、有無を言わせぬ神通力で圧倒しながら伝道をしたわけでもありません。実際この時もキプロスの諸会堂で神の言葉を宣べ伝えても芳しい反応はなかったようです。この地方総督が信じたものの、パウロたちはそこから去って、小アジアに船で渡り、更にピシディアのアンティオキアにまで上って行きます。先の出発地はシリアのアンティオキアからキプロスまで五百kmほどでしたが、更に北に五百kmの旅です。海抜が千百メートルという高地です。その手前のタウルス山脈という三千メートル級剣山の1.5倍の山道を、這いつくばに上って行ったのでしょう。

 この手前、13節で助手のヨハネは一行から離れて帰りました。なんで帰ったのか、あれこれ言われますが、むしろパウロとバルナバがピシディアまでの百kmの旅路を行こうとした方が驚きなのかもしれません。そうしてやっと着いたアンティオキアでようやく

49…主のことばは、この地方全体に広まった」。

実りらしい実りがあるのです。そこでも反対がありますが、パウロがにらみつけて何かが起きたとか、奇跡の力で人々が入信したりはしません。むしろパウロもバルナバも実りが少ない中、足にまめを作り、反対者の迫害を交わしながら、地味に黙々と伝道したのです。ですから、この聖霊によって魔術師に荒っぽい応対をしたのはよっぽどの緊急事態、特例措置なのです。

3.主のまっすぐな道

 聖霊に満たされたパウロが語った言葉を見てみましょう。

10こう言った。「ああ、あらゆる偽りとあらゆる悪事に満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。

 エリマはユダヤ人で魔術師で、神の言葉を預かって語ると偽る偽預言者でした。そして地方総督の下で助言や怪しげな魔術で驚かせて庇護を得ていたのでしょう。真理を知っている、総督を導くことが出来る、と豪語する大嘘つきだったと推測できます。そしてバルナバとパウロに反対する時は、そういう自分の本音や嘘や騙してきたことは棚に上げて、「バルナバとパウロの言葉など嘘だ、耳を貸すな」と言いくるめようとしたのでしょう。聖霊はパウロを通して、この魔術師の本心をズバリと言い当てたのですね。「お前こそあらゆる偽りとあらゆる悪事に満ちているではないか」と。主のまっすぐな道を自分のトリックや嘘で誤魔化して曲げて伝えているではないか。そう核心を突くのです。魔術師の本心を突きつけるのです。それで

「しばらくの間」

目が見えなくなって、惨めな思い、自分の無力な真実を味わわせて、考えなおさせるのです。パウロが怒りに任せて口汚く罵ったのではなく、聖霊がパウロを通して彼の真実をさらけ出した台詞です。売り言葉に買い言葉ではなくて、まだ誤魔化して生きようとしている魔術師への荒療治であり、ちゃんと彼の問題を見ておられる方の言葉なのです。

 これはパウロの伝道旅行でも極めて稀な出来事です。私たちが怒りや憶測で人を悪人呼ばわりしてよい訳ではありません。でも聖霊に導かれるとは、決して善い人になる事でもありません。人の心を見ている、まっすぐなお方に導かれて、悪意に対して強い態度を取ることもあるのです。善い人になろうとするよりも、真実でありましょう。主は人の心をご存じです。この魔術師のような悪意もご存じです。そして他の人や私たちの心にあるあらゆる思いもご存じの上で、簡単にダメだ、悪い思いだ、と叱り飛ばしはなさらない方です。事実、このパウロ自身、かつては主の道に反対していた人です。かつての彼は、恐れ多い神を、十字架に架かって死んだナザレのイエスと等しく考えるなんてけしからん、滅ぼしてやると迫害に燃えていました。しかし、神は人を罰して冷たく滅ぼすような方ではありませんでした。十字架のイエスこそ、神が遣わされた救い主でした。真っ直ぐな救いでした。その間違いから回心するため、目を打たれた経験がある人です。でもそれは彼の心の目が開かれて、主を信じるためでした。

 聖霊は人の心もご存じで、厳しく荒っぽい事もなし得るお方です。しかし、その方があえて非常手段よりも、私たちとともにおられて、見えない形で導いて、宣教のご計画を果たされていくのです。成果が現れなくても、それは主が無力だとか自分が召されていないとか何かがダメだからではありません。この驚嘆すべき出来事も踏まえつつ、あえて主がパウロたちを長い旅路に送り出され、回りくどい歩みを通して、救いをピシディアのアンティオキア、更に遠くマケドニアまで届けられていくのです。そして、そこに私たち自身の歩みを重ねて、励ましや慰めを戴き、私たちが神によって召された働きを果たさせていただきたいと願います。

「主よ、あなたが召された働きは人の思いとは異なるものですが、あなたは真っ直ぐな命のご計画を持っておられます。人の嘘や悪意よりもあなたは強く、私たちを召してそのご計画を果たされます。上辺の力を求めがちな私たちですが、主よ、どうぞこの心をあなたが照らして、恵みで満たしてください。怒りや対決も恐れず、それを通してもあなたが崇められますように」

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