聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問119「祈りのお手本」マタイ6章5-15節

2018-04-23 06:34:15 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/22 ハ信仰問答119「祈りのお手本」マタイ6章5-15節

 夕拝では「祈り」についてともに教えられてきました。前回は、私たちはすべての必要を神に求めるよう命じられていることと、その事をイエスが教えてくださったという問118でした。それを受けて、今日から主イエスが教えられた主の祈りに入ります。

問119 主の祈りとはどのようなものですか

 その答は、先ほどもご一緒に口にしました「主の祈り」が引用されるのです。そして次から主の祈りの言葉が一つずつ丁寧に解説されていきます。今日は、言葉の細かな所ではなく「主の祈り」の全体的なことを見ていきましょう。

 まず、先のマタイの福音書でありましたように、これは、主イエスご自身が弟子たちに教えて下さった、祈りのお手本です。マタイの六章とルカ一一章に記されています。その二つは細かく見ていくと意味が違う所もありますが、元々イエスご自身があちこちで何度も「このように祈りなさい」と教えてくださっていたのでしょう。その時に、少しずつ違う言い回しを使っておられたのかもしれません。ルカが書いたものとマタイの記録とが違っているのは、矛盾や食い違いではなく、むしろ、イエスが教えられた祈りの豊かさ、型にはまらない自由さの現れだと思うのです。

 これは「主の祈り」そのものに言えます。イエスは私たちにこのように祈りなさいと教えてくださいましたが、ただ「主の祈り」を機械的に唱え続けるようにと命じたのではありません。一字一句間違えずに、繰り返していればいい、というのではありません。「主の祈り」は祈りのお手本であって、この祈りをよく味わい、身に着ける事で、私たちの祈りの土台や骨組みが作られるのです。イエスが仰ったのは「このように祈りなさい」という手引きで、祈りの決定版を下さったのではありません。

 よく考えもせず、分かってもいない言葉をただ繰り返すような事があったために、その反動で教会の中にも、祈りの言葉を嫌う傾向があります。「成文祈祷」より「自由祈祷」を推奨する教会が多いのです。確かに、成文祈祷より自由祈祷の方が「自由」ですし型に囚われず、自分の心の思いを祈る事が出来ます。しかし、それで祈りが成長するかというと結局リードしてもらう事がないので、成長がないことが多いのです。また、意外と誰か周りの人の繰り返している言葉を真似していて、「自由」とは限りません。そしてそのような自分なりの「祈祷文」を繰り返しているだけで、必ずしも心がこもっているとは限りません。独り善がりな祈りのまま終わってしまいます。そして、こちらの自由裁量に任されてしまうだけに、心が落ち込んだり塞いだりして祈れない時には祈れなくなって、ますます神が見えなくなってしまいます。

 ある方が、私たちは「主の祈り」の逆で祈る事が多い、と言いました。「逆」とは

私たちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
私たちに負債のある者を赦しましたように、私たちの負債をもお赦しください。
私たちの日ごとの食物を、今日もお与えください。
御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。
御国がきますように。
御名が聖とされますように。

 「助けて下さい、罪は責めないでください」、まず自分のことを祈って、それから神様の御心を祈り、御名が崇められますようには一番最後になりやすい。それが私たちの思いつく、そして戻ってきやすい発想です。だからこそ、主イエスが教えてくださった祈りを味わう時、私たちは、自分流の祈りを繰り返す事から解放されるのです。自分が助かることが一番大事になってしまう考えから、もっと大きく、神の御名が聖とされることを第一に願う考えへとシフトチェンジしてもらうのです。自分の名前よりも、神の御名のために祈る。自分が王様のように思い通りにしたい考えから、神が王である御国の来る事を願う。そのように自分の思いを軌道修正してもらうのですね。私は「主の祈り」を自分にとっての「軌道修正の祈り」と呼んでいます。

 マタイの福音書でイエスが「主の祈り」を教えられた時も、父なる神に対する根本的な勘違いをまず指摘なさいました。人に見せるために祈るのではなく、隠れた所で見ておられる神に祈りなさい。また、同じ言葉を繰り返して、長々と祈れば聞いてもらえると思うような神を小さく考える間違いを止めなさい、と仰いました。私たちの必要をすべてご存じの神に、また隠れた心の奥までご存じの神に、祈っているのだと思い出させてくださいました。この絵のように、沢山の生贄を献げたり、ゴージャスな礼拝をしたら神を動かす事が出来る、という宗教がたくさんあったのです。

 今でも教会の中に、熱心に祈れば、神様を祈り倒せると言っている教派があります。それはイエスが引っ繰り返された考えです。神の偉大さ、また私たちに対する深い関わりに立ち戻らせつつ、主イエスは「主の祈り」を教えてくださったのです。

 神は私たちのすべての必要をご存じで、それを満たしてくださる「天の父」です。すべてをご存じの神です。では私たちは祈るのでしょうか。祈らなくても、神は私たちの必要をご存じなのではないでしょうか。この事については、問116で既に見ましたが、こう言い換えることも出来ます。神は私たちの必要をご存じです。その神が私たちに祈りを教え、こう祈りなさいと「主の祈り」まで与えてくださった、ということは、私たちに祈りが必要だ、ということです。「主の祈り」を祈る事で、私たちは、すべての必要をご存じである神を、天の父として仰ぐことが出来るのです。祈る事で、焦りや疑いや傲慢や裁く事から救われるのです。軌道修正をしていただくのです。自分のことしか見えない生き方から、神の広い世界に立ち戻って、深く息を吸って、伸び伸びと歩むことが出来るのです。飾ったり、格好をつけたりせず、聴いておられる神の前に、自分の思いも悩みも恐れも悲しみや怒りも祈ることが出来るのです。

 「主の祈り」をそれぞれの生活でゆっくり味わいつつ、祈っていきましょう。立ち止まりつつ、繰り返したり前に戻ったり、自分の祈りも合間に差し挟んだりしながら、天の父とお話ししましょう。そして主イエスがこの祈りを教えてくださったのですから、天の父が自分の祈りを聞いてくださらないはずがないと信じる時、私たちは、実にこの世界で大切な役割を果たしているのです。天と地とをつなげる祈りに加わっています。また、世界中の人たちがそれぞれの言葉で「主の祈り」を祈っている、その大きな輪に連帯しています。この祈りを学び、普段毎日祈り、そして魂を養っていただきましょう。

 

 

成文祈祷

自由祈祷

主の祈り、聖書の祈り

「祈祷書」や先輩たちの祈り

「成文祈祷」を使わない

利点

リードしてもらえる

内容・言葉などを教えられる

深みがあり、養われる

教会とつながる

祈りが出て来ない時も使える

自由に祈れる

型に囚われない

自分の思いに気づける

 

欠点

言葉だけの繰り返しになる

心がこもらない

理解が難しいときがある

進歩がない

意外と誰かの言葉の真似が多い

心がこもっているとは限らない

独り善がりで終わる

祈りが出て来ない時は出来ない

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