聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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出エジプト記19章3-9節「わたしの宝とする 出エジプト記」

2019-01-27 14:21:52 | 一書説教

2019/1/27 出エジプト記19章3-9節「わたしの宝とする 出エジプト記」

 今月の一書説教は「出エジプト記」です。エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエル人を、神が力強い奇跡で救い出して、神の民としての新しい歩みを下さった。何度も映画化される、ドラマチックな内容です。イスラエルの民は、このエジプト脱出を記念する「過越」を毎年春にお祝いし続けて、自分たちの原点としています。そしてイエス・キリストは「過越の祭り」において十字架に架かり、私たちに新しい歩み、神の民として解放を与えてくださいました。出エジプトの過越と、海が割れた奇跡、そして五十日目のシナイ山での律法付与は、イエスの十字架の死と三日目の復活、そして五十日目に聖霊が注がれたペンテコステと平行関係にあります。キリスト教的には、出エジプト記自体が、やがてのキリストの御業の予告なのです[1]

 大変内容の濃い中で、今日の19章3~4節の言葉を、中心聖句の一つとしてご紹介します。

出エジプト十九3モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』…」

 「鷲の翼に乗せて」とは文字通りではなく、力強くという詩的な表現ですね。そんな言い方に相応しく、主はイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出してくださいました。でもそれがゴールではありませんでした。これから自覚的に主の声に聞き従う。主の言葉に生かされていく。その歩みに踏み出して、あらゆる民族にとって、主の「宝」となる[2]。祭司とは神と人間との間に立つ橋わたし、繋ぎ目となる存在です。イスラエルの国が「祭司の王国」だとは、自分たちだけが特別な神の民で他の民族は滅びる、というのではなく、全世界と主とを繫ぐ存在、蝶(ちょう)番(つがい)となる、ということです。それも、イスラエルの民が主の声に聞き従い、主の契約を守ること、言わば、主との関係を豊かに育てて行くことが不可欠だったのです。

 確かにイスラエル人はエジプトから力強く連れ出されました。しかし「救い出されて万々歳」ではなく、その後すぐに露わになるのは、民の文句や傲慢、頑固さでした。海の奇跡の後は、

十五21ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」

と言いますが、その直後には、水がない、パンがない、文句を言い、喧嘩を始める姿です。

十六3…「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」

 こんな事を言い出す姿です。奴隷生活からは救い出されたけれど、その心には奴隷根性やお客様意識や無責任な生き方がすっかり染みついています。そして32章では、神がモーセと語っているシナイ山の麓でとんでもない事件が起きます。

「金の子牛」

を造って、それを礼拝してお祭り騒ぎを始める。奴隷生活から救い出された民が、まだ神ならぬものに心を奪われている。まだシッカリ歪みが染みついている。救って下さった神を怒らせて滅びを招くような反逆をしてしまう。そういう民を、神は忍耐し、時には厳しく向き合いながら、神の言葉によって教え、育て、変えようとしておられる。そうやって神の民が、本当に謙虚にされて、成長していくことを通して、周囲にとっても「神の宝」となる。神と全ての人を結びつける「祭司の王国」としての役目を果たしていく。この出エジプトが指し示す私たちキリスト教会の歩みも同じです。キリストの十字架と復活によって神の民とされました。それでも私たちは不完全で、頑固で、罪や歪みがあります。感謝を知らず、不平や不信仰があります。「信じたら救われる」だけではなく、信じて神の民とされても、問題があるのです。「それでもいい」でも「それではダメ」でもなく、その問題に気づかされて、御言葉によって、主の恵みや赦しを体験し続けながら、変えられて行く。主の恵みに心から新しくされて、思い上がりや思い込みを砕かれ、謙虚になり、そういう私たちを永遠に愛される主の恵みを味わい知っていく。そういう歩みが、周囲の人にとっても、祭司となる。神がどんな方かを知らせる存在となるのです。

Ⅰペテロ二9しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。[3]

 出エジプト記と言えば、エジプト脱出のドラマを思い出すと同時に、後半の律法や十戒を思い出す方も多いでしょう。中には、イエスの来られる以前は、あの律法に従わなければ救われなかったのだ、怖い時代だったと思う方もいるかもしれません。しかし、順番はまず一方的な救いがあり、その上で律法が与えられるのです。それは救われるための掟ではなく、神の民としての生き方です。人を束縛したり、上下を付けたりする生き方から救い出すための光なのです。そして、その途上でしくじり続ける私たちとも、神は変わらずともにおられるのです。

 出エジプト記のメッセージを、後半に詳しく繰り返されている「幕屋」を手がかりに覚えてください。

 幕屋とエジプトのシンボルであるピラミッドを比べましょう[4]。ピラミッドは、ファラオや一部の支配階級が上から全体を支配している社会、下に多くの人が犠牲にされ、人間扱いされずに抑圧されている社会です[5]。ある人たちが頂点に立って、他の人を踏みつけて成り立つシステムです[6]

 これに対して幕屋は平面です。上下とか抑圧はありません。幕屋は主の臨在を表し、その周りには十二部族が集められています。役割の違いはあっても、格差や順位はなく、多様で伸び伸びとした姿です。外国人の寄留者さえ酷使は禁じられました[7]。主を中心に、上下関係のない、フラットな集まりがここに始まりました。また、ピラミッドは動かせませんが、幕屋は折りたたんで動かせました。実際、民の歩みは旅だったのです。その旅を主がいつもともにあって導いてくださって、約束の地へと連れてくださっている。

 でも旅をしていれば、途中ではいざこざが付き物です。その時こそ幕屋に行くのです。主は罪のための生贄や和解のための決まりを定められました。それは罪を責めたり人を非難するためではなく、民の罪が丁寧に解決されて、問題を丁寧に乗り越えるためでした。ピラミッド社会ではトップの罪がもみ消されたり、スキャンダルとして下に蹴落とされる汚点になったりするでしょう。主が建てられた幕屋は、その中心に人間の罪の赦しがありました。祭司や指導者も正直に非を告白するし、庶民もそれぞれに自分の罪を告白して、和解するよう求める招きがありました。何より、出エジプト記の筋書きが示す通り、人は奴隷生活から救われても、散々不平を言い、金の子牛を造ったりして、主を怒らせたのです。それでも主が赦し、忍耐して、今私たちの真ん中にいてくださる。主の臨在が幕屋の真ん中にある。幕屋の祭壇で捧げられる生贄の煙とともに立ち上っている。

 出エジプト記の最後は、幕屋を建てて、まだ全部の儀式が済んでいないうちに、待ちきれないかのように、もう幕屋を主の栄光の雲が満たしてしまう、という光景です。主は私たちのすべてを全部知った上で、私たちとともにいたいと願って止まない。その事を深く覚えて、謙虚にされ、ともに旅を続けていく。ピラミッド型でなく幕屋型。主を中心とした、フラットで自由で、回復のある在り方。

※「ピラミッド」vs「幕屋」
上からの支配   フラットな関係(焚き火的!)
奴隷による重労働 神の民の献身
絶対服従     赦しと和解が中心
カースト的    すべての人が招かれている
恐怖による支配  贖いの想起による一致
重厚       軽量・コンパクト
不動       旅を進める
王の墓      生ける神の臨在

 そういう神の民の姿、教会の背伸びしない歩みが、この世界にあって主と人とをつなぐ「祭司の王国」の歩みなんだ。そうされていく旅路が、神の民の歩みなのだ。そういう出エジプト記全体のメッセージなのです[8]

「主よ、私たちを、奴隷の家から神の家族へと招き入れてくださり感謝します。どうぞ私たちの生き方、考え、言葉をあなたの恵みで新しくしてください。私たちの心の頑固なピラミッドを崩してくださって、聖霊によって、あなたの恵みに生きる者と変えてください。まだまだ旅の途上にある私たちとも、あなたがいてくださり、私たちを主の恵みの器としてください」



[1] フランシスコ会訳聖書では、出エジプト記の概説においてこのように紹介しています。「旧約聖書全体の基礎をなす書であるとともに、イスラエルの人々が神の民とされた始まりについて記すものである。」

[2] イスラエルの民を「宝」と呼ぶのは、この他に、申命記七6、十四2、二六18、詩一三五4、マラキ三17

[3] この言葉は、明らかに出エジプト記19章3~6節の言葉を下敷きにしています。同時に、そのオウム返しではなく、当時の読者に合わせたアレンジをしています。現代においても、聖書の字面通りのオウム返しに終わらず、現代人がどのような言葉・メタストーリーを持っているかを理解して、それにアプローチする宣教の創造が望まれているのでしょう。

[4] エジプトと言えばピラミッドやスフィンクス。紀元前千八百年頃は既に全て揃っていましたから、イスラエル人がピラミッドを建てたわけではありません。しかし、主がエジプトを「奴隷の家」と呼ばれた事は、このピラミッドのイメージがピッタリでしょう。

[5] 主は、そのような社会の底辺で苦しんでいたイスラエル人の叫びを聞かれました。またそこで神のように振る舞っているファラオやエジプト人に、自分たちが神ではないことを力強く示されました。そして主は、ピラミッドのような「奴隷の家」、格差社会、人を奴隷のように扱う生き方とは違う在り方を造られます。

[6] これは特にレビ記で強調されています。十一45「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」、十八3「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。」ここから始まるレビ記十八~二十章は「神聖法典」と呼ばれ、主の民として「聖である」ことが求められますが、その「聖」の対極にある在り方が「エジプト」の習わしとして例証されるのです。

[7] 律法では、外国人排斥ではなく、寄留の外国人を大事にしなさい、あなたがたも寄留者で苦しい思いをしたことを知っているのだから、と繰り返されています。出エジプト記二二21「寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。」、二三9、レビ記十九34、申命記十19なども。

[8] しかも、ピラミッド的な社会構造を引っ繰り返すのは、クーデターや革命ではなく、フラットなコミュニティ形成によってであることが示されています。対決的なアプローチではなく、創造的な生き方そのもの、価値観そのものが引っ繰り返され、自由になり、文句や抑圧や反応的な生き方ではない、神の民としての破れ口に立つ生き方が、何より有効な変化の力なのです。

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