聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マルコ伝16章1-8節「驚きのイエスの福音 マルコ伝」

2018-08-26 18:24:33 | 一書説教

2018/8/26 マルコ伝16章1-8節「驚きのイエスの福音 マルコ伝」

 今月の一書説教はマルコの福音書です。短いだけに、始めて聖書を読む人には、系図から始まるマタイよりも、このマルコから読むことを勧められることも多い書です。

1.「驚き」の福音書

 マルコの福音書は全16章、新改訳2017で41頁です。イエスの誕生(クリスマス)はすっ飛ばして、

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」

と書き出して本論に入る単刀直入な福音書です。一章の一頁に

「すぐに」

が10節12節と二回出て来ます。41回も「すぐに」を繰り返す、スピード感に満ちた福音書です。かといって、細かい所は端折った簡潔な書き方かというと、逆です。マタイやルカより詳しい記事が多いのです。背景の説明や、人物の描写はとても丁寧です。何よりイエスの感情が詳しい。あわれみ[1]、怒り嘆き悲しみ[2]、ため息をつき[3]、憤り[4]、愛しみ[5]、とイエスの感情表現が豊かです。また弟子たちの無理解を度々嘆く箇所があります[6]。神の子イエス・キリストは、本当に人間となってくださった。それも非の打ち所のない聖人ではなく、豊かな感情を持つ人であった。その不思議こそマルコの主題です。

 ですから、この福音書には驚きが満ちています。

「驚く」「驚嘆する」「恐れる」

といった言葉が27回も出て来ます。民衆がイエスの教えに驚き、イエスの癒やしに驚き、弟子たちもイエスが嵐を鎮めるのに恐れ[7]、嵐の上を歩くのに恐れ、不可解な十字架の予告に恐れ。そして最後の最後、十六章8節は、イエスの十字架の死から3日目、墓に駆けつけた女弟子たちが、イエスがよみがえったと知った時、彼女たちが驚き、恐れた姿で閉じるのです。

十六8彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 この終わりでは余りに中途半端だと、後から付け加えられた結びが何パターンかあって、それも聖書には載せられていますが、古い重要な写本は8節で終わっています。明らかに本来は8節の

「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」

で閉じていたのです。勿論、実際そのまま黙していたはずはなく、立ち上がってイエスの復活を告げに行き、宣教が始まりました。でも、その前にどれほどイエスの復活に驚き、震え上がり、気も動転して、誰かに何かを言うどころではなかった。それぐらいの恐れ、驚きをマルコはまず大事にしたかった。神の子イエス・キリストが人となって来られた不思議に、十分驚き、恐れることを迫られます。

2.「仕えられるためではなく仕えるため」

 マルコの福音書は8章の最後が大きな分岐点になります。27節でピリポ・カイサリアに行ったとあります。これはガリラヤから更に北に50kmも上った所です。その北の町で弟子たちがイエスを

「キリスト」

と告白します。その後イエスは初めてご自分が

「多くの苦しみを受け…捨てられ、殺され、3日目によみがえる」

という衝撃の予告を告げるのです。そういう意味でもこのピリポ・カイサリアが大きな転換点です。でも弟子はイエスの苦難予告を理解できません。一番弟子のペテロは、キリスト告白した直後なのに、苦しみの最後を語るイエスを脇にお連れして諫め出すのでして叱られる。それでも弟子たちは理解できません。出来ないまま、イエスに着いていきます。着いていきながら弟子たちは

「誰が一番偉いか」

という議論を始め出します[8]。よいでしょうか。イエスは十字架の苦しみを引き受けよう、限りない謙りで、最も低く卑しくなるおつもりでいるのに、弟子たちはイエスが王様になったら誰が一番偉い地位をもらえるかを話題にしていたのです。そういう弟子たちに向かってイエスはこう仰います。

十43しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。44あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。45人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

 イエスは仕えられるためではなく仕えるために、自分のいのちを与えるために来た。弟子たちにはピンと来なかったでしょう。それでもイエスはそのために来られ、真っ直ぐ十字架に進んで行きました。イエスが十字架に死んだ時、弟子たちは男も女も、それをあり得ないこととして深く悲しみに暮れました。ところがそれこそ神の子イエスの選ばれた道だ、自分たちが今まで慕い、馴れ馴れしくし、時には窘めたりもして一緒に過ごしてきたイエスが、本当に神の子だった。それもメシアとしての力を振るって敵も世界も従わせる英雄になる事も出来たろうに、気取らず私たちの友となり、徹底して仕え、自分のいのちを与える道を選ばれた。その事に驚き、震え上がりました。神観のどんでん返しでした。そして、「誰が偉いか」と背比べをする人生観もすっかり覆されたのです。

 『世界一孤独な日本のオジサン』という本では、現代の孤独の問題を解き明かしていました。男性が出世や仕事ばかりで生きてきて、強さや孤独が格好いいとされやすい。それで、コミュニケーション力や人との繋がりは避けたまま、気がついたら淋しい。それを見せるのも難しくて、悶々としたままますます孤独で不機嫌で病気になる、世界的な大問題です。そういう「男性社会」にとって、イエスは全く衝撃です。「偉くなるのが男」と思い込んでいた人生のルールが、実は全く逆だったと気づかされるのです。この世界を造られた神が、プライドも何もかも投げ捨てて飛び込んで、人の友となったというショッキングなメッセージです。

3.イエス、ペテロ、マルコ

 その代表格が一番弟子のペテロです。マルコはペテロの通訳をしていたと伝えられています。マルコの福音書はイエスの最も身近にいたペテロの説教集です。ペテロはかつてイエスを理解せず、逆の道、偉くなり、自分を誇示して尊敬されたい弟子でした。しかし最後にペテロは、「イエスなど知らない」と三度も否定してしまいます。背伸びをしてきた生き方がペシャンコにされた、立ち直りようのない挫折でした。しかしそういう人間の罪や鈍さ、頑なさや甘えも承知で、神の子であるイエスは低くなって人間となり、人に憤りや苛立ちも現しつつ、徹底的に仕えてくださいました。ペテロは挫折とともに、そのイエスを味わいました。自信、プライドが粉々に砕けた時、神の子イエスが全く反対の卑しい道を歩まれた。それも、この勘違いした自分のため、ボロボロの自分にいのちを与えるため、苦痛と屈辱と恐怖と絶望を味わうことを躊躇わないで十字架に死なれた。ペテロはこのイエスに仕え、イエスとともに仕える人生を歩んだのです。そのペテロの助手として通訳したマルコが、この福音書を書いたのです。

 そのマルコ自身、「使徒の働き」で明らかなように、伝道旅行の途中で戦線離脱した失格者でした。後からパウロに、あんな人材は連れて行きたくないと失格の烙印を押されたマルコでした。もう一つ、この福音書で、マルコが自分のことを書いたのではないかと言われる箇所が一つだけあります。14章51節52節に出て来る

「ある青年」

です。逮捕されたイエスについていったけれど、捕まりそうになって、まとっていた亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げていった。この裸で逃げた青年がマルコ自身かもしれません。そんな失敗や挫折をしたマルコにとっても、自分の恥や過去を受け止め、その自分のために恥も苦しみも厭わなかったイエスの姿は、驚きであり、慰めであり、何も言えなくなるような「福音」であったに違いありません。

 神の子イエスが私たちと同じ人となった。感情を持ち、苛立ち、憤り、人を愛しむ人間になってくださった。そして、十字架に死んでよみがえってくださった。教会はその事を「使徒信条」に告白して、私たちも毎週「使徒信条」を告白していますが、それは実に驚きに満ちたとんでもない告白です。そして、神の子イエスがそのようになった以上、私たちも偉くなろう、人にバカにされまい、背伸びしようとする生き方を変えられて、イエスに従うのです。イエスの福音は驚きであり、私たちの生き方にも新しい力と慰めをもたらす物語です。

「神の子イエス。あなたが仕えられることを願わず、私たちに仕えるために人となり、深く謙って十字架の死まで進まれたことに驚き、御名を崇めます。ペテロやマルコ、そして私たちを選ばれ、あなたの器としてくださいました。福音書を読み、そこに私たちへの限りない愛とチャレンジを受け止めさせてください。今も私たちに仕えてくださっている主の御名によって」



[1] 一41、五19、六34。

[2] 三5

[3] 七34、八12

[4] 十12

[5] 十21。

[6] 四13、八17~21など。

[7] 「非常に驚く」(エクサンベオー、マルコのみに四回。九15(群衆が下山したイエスを見て)、十四33(イエスが深く悩み、もだえ)、十六5(女弟子たちが御使いを見て)、6)、「驚く」(サウマゾー4回、五20(イエスの宣教に人々が)、六6(イエスが人々の不信仰に)、十五5(イエスの沈黙にピラトが)、十五44(イエスの死が早いのにピラトが))、「驚く・驚嘆する」(エクプレッソー5回、一22(人々がイエスの教え方の権威に)、六2(ナザレの人々がイエスの教えに)、七37(人々がイエスの教えの力に)、十26(弟子が金持ちが神の国に入るよりは駱駝が針の穴を通る方が易しいとのイエスの言葉に)、十一18(群衆がイエスの教えに驚嘆していた))、「驚く」(サンベオー3回、一27(人々がイエスの悪霊を追い出す権威に)、十24(弟子たちが金持ちが神の国に入る難しさを教えるイエスに)、32(弟子たちが先頭を進まれるイエスに)、「驚く」(エクシステーミ4回、二12(皆が中風の人が立ち上がる癒やしに)、三21(人々がイエスはおかしくなったと)、五42(ヤイロの娘の復活に口もきけないほど驚いた)、六51(弟子たちが嵐を鎮めたイエスに))、「驚嘆した」(エクサウマゾー1回、十二17(カエサルのものはカエサルに、の言葉で))。「恐れる」(フォベオー、四41(弟子たちが、嵐を鎮めるイエスに)、五15(人々がイエスが悪霊を追い出したのに)、五33(長血の女がイエスの言葉に)、六50(湖を歩くイエスに弟子たちが)、32(弟子がイエスの受難予告に)、十32(イエスが先頭を行くのに、弟子たちが)、十六8(イエスの復活に女弟子たちが))、「恐れる」(エクフォボス、九6(ペテロが山上の変貌に))、「口もきけないほどに恐れる、気も動転する」(エクスタシス、五42(ヤイロの娘の復活に人々が)、十六8)。

[8] 九33-37、十35-45。

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