聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記八章(1~10節)「訓練する神」

2015-05-05 12:01:57 | 申命記

2015/5/3 申命記八章(1~10節)「訓練する神」

 

 神様は恵み深いお方です。私たちに豊かな祝福を下さるお方です。でも、その豊かな祝福を戴くと私たちの心はいつの間にか、恵みを下さった神を忘れ始めます。楽しみ、浮かれてしまい、神の恵みではなく自分の力で今の立場を築き上げたかのように天狗になってしまう。これは、何と情けなく申し訳ない…喜劇というか、皮肉というか、そしてありがちな事でしょうか。

 今日の申命記八章は、今までの申命記で語ってきたように、主の命令を守り行いなさいと繰り返しています。けれども特に「豊かになるときの危険」という点から強調しています。これまでの荒野の四十年を振り返りつつ、これからの約束の地での豊かな歩みにおいても、主を忘れずに歩みなさい。厳しく苦しい荒野をも主が導いてくださった恵みを、荒野とは正反対の、潤って、作物も果物も豊かにある地での歩みでも覚え続けなさい。何もない荒野では、苦労や飢えがありました。食べるものや水の保証もない生活でしたが、主が飲む水も食べ物となるマナも奇跡的に備えてくださいました。着物はすり切れず、足も腫れずに過ごしてきました。主が私たちを生かしてくださることを味わい知らされてきたのです。また、

 3…人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたがたにわからせるためであった。

ということを、身を以て学んだ四十年だったのですね。その事を、これから始まる、約束の地での満ち足りた生活でも、忘れることなく、覚えていなさい、と繰り返されているのです[1]

 主は私たちをただ苦しめ悩まそうとは思ってはおられません[2]。豊かに祝福したいのです。溢れる祝福で、私たちを潤し、幸せにされるのが主の御心です。でも、その祝福を戴いた途端に、人間の心は高ぶり始めます。四十年も荒野で体験してきた、自分たちの無力さ、小ささ、主の力と御真実、主の御言葉の尊さ、それに従うことの幸いも、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、神様なんかなしで、自分たちで幸せになれるかのように思い始めるのです。勿論、それをあからさまにそう言う程、恩知らずではないかもしれません。ここで、

17あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。

とあるのが鋭いなぁと思いますね。口では神様の恵みだ、神様の祝福だ、と感謝はしているのですが、心のうちに「(神よりも)私がやったんだ」と言い出しているのです。それは、他から入ってくる言葉ではありません。どこかから忍び込んでくる言葉ではありません。心の中から出て来るのです。人間の心の内側にこういう、神を恐れぬ思い上がったものがあるのです。そして、祝福や豊かさ、安全や将来の心配をしなくても良い状態で、一見、神に拠り頼まなくてもよいような楽な生活において、その思いが膨れだして、神を忘れてしまうのです。

 よい生活、ご馳走、緑豊かな生活環境など、それは神様の溢れる祝福であって、決してそれ自体が悪いのでも誘惑や魔力があるのでもありません。問題は人間の側にあります。私たちの心に、神を忘れようとする性質があるのです。「豊かな暮らしや楽しい毎日、充実した仕事や不安のない家庭生活が営みさえ出来ればいい」。その幸せを下さるのは神様であり、幸せの中心にあるのは、パンでも満ち足りた生活でもなく、神の口から出る言葉に従うことであるのに[3]、神よりも自分の心地よさを愛する言葉が、私たちの心の底から涌き上がってくるのです。

 そして、実際に聖書には、そのような歩みが繰り返された歴史が語られていますね。このモーセの言葉を聞いた民は、この後まもなく主を忘れて、高ぶってしまいます。申命記の次、ヨシュア記、士師記はもうそんな歩みばっかりです。更に、イスラエル王国で豊かさを極めたソロモンも、晩年に主を忘れて、偶像崇拝を持ち込ませてしまいます[4]。また、ホセア書で主は、

ホセア十三5このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。

 6しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。

とあって、今日の申命記八章を踏まえた言い方をしています。これが旧約聖書で主の民が示したパターンでした。奴隷生活をしていたエジプトから連れ出されて、沢山の恵みと憐れみを荒野で味わって、彼らは「主の契約の民」として約束の地に入りました[5]。でも、豊かな祝福を戴けば、人間はすぐに神を神として恐れ敬うことを止める。祝福の中でこそ、人間の不信仰や滑稽な思い上がり、「バベルの塔」を築き始めるのです。ですが、主が願っておられるのは、その心の中でこそ、私たちが主を褒め称え、「自分が」という勘違いを捨てることです。そして、そのために主イエス様はおいでになりました[6]。そして、ご自身の十字架と復活の御業だけでなく、聖霊を私たちの心に与える御業によって、私たちの心を新しくしてくださるのです。聖霊なる神が私たちの心に主を思い出させてくださいます[7]。私たちの心を照らして、福音を理解させて、キリストへの信仰、罪の悔い改めをもたらしてくださるのです。そして、私たちの心が、「この私の力が自分を築き上げたのだ」というような言葉ではなく、新しい言葉に聞くようにしてくださいます。「私ではない。神が私を導き、苦しみも幸いも与え、私たちを訓練され成長させ、私たちを幸せにしてくださるのだ」という言葉です[8]。そして、そのような言葉になっていくようにと、主は私たちを訓練されるお方です。今も私たちに荒野を通らせたり、恵みを溢れたりさせながら、私たちの生涯をかけてじっくりと、御霊によって深く、私たちの心の言葉を、「私」から「神の民の言葉」へと書き換えておられます。

 思い出してください。主の掟は、私たちが神を礼拝し、互いに神の民として愛し合うことを命じる掟です。事細かで高尚な要求だと思わないでください。神は、私たち一人一人に「立派になれ、聖人になれ」などという成長は望んでおられません。私たちが神の民、神を中心とした礼拝の「共同体」としてともに歩んでいくという成長であり、そこに向けての訓練です。個人的な成長をして、私たちが強く逞しくなる、という事ではありません。立派なクリスチャンになる成長なんかではありません。主が願っておられる成長は、私たちが、神の民として結ばれていくための「訓練」です。そしてそれは痛みを伴うことなのです。私たちに苦しみに相応しい問題があるからではなく、私たちが変えられて行くために苦しみは必要なのです[9]。思い上がりや独り善がりを捨てて、自分の危うさを弁えるのです。神の前に謙り、人を大切にせよという御心に従っていく「成長」です[10]

「キリスト者が苦しみに会うのは、苦しみに負けない強い人間になるためではなく、他者とともに苦しむことが出来るようになるためです」[11]

 今日の言葉は、私たちが普段、心で何を言っているかを問うてくれています。自分の中でどんな言葉を言っているでしょうか。神を忘れた言葉を口ずさんでいる事に気づいたら、今日の聖書の箇所は、そんな私たちのために語られていると思いましょう。神に愛され、他者とともに生かし合って、私たちは幸せになるのです。その現実に気づかさるためですから、苦しみも尊いのです。心の中に、「自分が」ではなく、主を礼拝し、他者を愛する言葉を育てましょう。

 

「主よ。あなたは私たちを愛され、荒野や楽園を通らせながら、私たちの思い、言葉を替えることによって、私たちを幸せに導いてくださいます。その深い御心を感謝します。主よ、私たちが高ぶるとき、取り返しがつかなくなる前に、遠慮なく速やかにそれを挫いてください。傲慢からも孤独からも救い出し、あなた様の愛の言葉によって生かし合う者とならせてください」



[1] 12節から14節aでは、将来への警告を語った上で、2節から5節で語られた度荒野での主の導きをもう一度思い出させます。この長い挿入をしてから、そのような主が、私たちを訓練され、私たちを幸せにしてくださる主を忘れて、「17あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。」と言われるのです。

[2] 哀歌三33「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」

[3] この言葉は主イエスの「荒野の誘惑」で引用された言葉として有名です。マタイ四4「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 補足ですが、ここで主イエスは、申命記の「すべてのことば」を「一つ一つのことば」と言い換えています。ちなみにルカでは、申命記の前半部分「人はパンだけで生きるのではない」だけを引用しています。そうした編集の意味についても注目する価値はありますが、今回は省力します。いずれにせよ、これは、「神の言葉に聞くこと(=デボーションなど)」が人を生かす、と捕らえがちですが、申命記も主イエスの実践も、ただ「聞く」だけでなく、「従う」という、より積極的な行動を表しています。

[4] そのことを書いたⅠ列王一〇章一一章には、この申命記の七章八章が実によく重なります。

[5] 決してその律法を守ることで救われて契約を戴いたのではありません。ただ恵みによって神の民とされたのです。律法は、その恵みを戴いた民としての、新しい道、生き方です。救われるための条件ではなくて、神様の恵みに与った民の、当然の生き方なのです。

[6] そのイエス様が来られることも、旧約の預言者たちが予告していたことですが、石に書かれた律法ではなく、人の心に律法を書き刻んでくださるお方としてキリストが来られ、新しい契約を立ててくださる、というメッセージです。エレミヤ書三一31「見よ。その日が来る。-主の御告げ-その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。…33…わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」など。

[7] ヨハネ十四26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

[8] ダニエル書四章では、バビロンの王ネブカデネザルさえ、そのように訓練されました。

[9] 5節は、ヘブル書十二7で、「主の懲らしめ」の中で弱り果てることなく戦い抜くよう勧める奨励において、次のように引用されています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。」

[10] 「従う」は律法主義的に聞こえるでしょうか? いいえ、「従いなさい」と言われるのは、主がご自身の民に繰り返して呼びかけてくださる、深い恵みの歩みです。復活後のペテロにも、主は「赦し」以上の言葉として、「わたしに従いなさい」と仰いました(ヨハネ二一章)。「従う」とは、主の御心が「細かな規則を遵守する」という以上に、「主を礼拝し、互いに愛し合う」(十戒に示された通り)という御掟であることを覚えながら、赦された者、尊いいのちに召された主の民として歩み続けるのです。

[11] 出典は分かりませんが、ある書評からです。聖書的根拠は、Ⅰコリント一二章や、Ⅱコリント一章など、きりがありません。

 

「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」 マザー・テレサ

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