聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問47「「神ではない神」ではなく」 ローマ一章20~21節

2015-05-05 12:04:13 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/05/03 ウェストミンスター小教理問答47「「神ではない神」ではなく」 ローマ一章20~21節

 

 みなさんは「アイドル」と言えば、どんな人が思い浮かぶでしょうか。有名な芸能人でしょうか、歌手でしょうか? 大好きなアイドルの熱烈なファンだったりすると、そのアイドルを観ただけで、大興奮して、キャーキャー騒ぐだけでなくて、失神してしまう人もいますね。そのアイドルのためなら、何だってする、ぐらいに崇めています。「アイドル」とは、もともと「偶像」という意味の英語です。本当に、その人にとって、神様のように大事になっているのです。大好きなスターや歌手がいるのは悪いことではないでしょう。でも、もしも、その人が、本当の神様に替わるようになっているとしたら、笑い事ではすまなくなることだってありますね。勉強や仕事もそっちのけで、追っ掛け回したり、そのために、お金も惜しみなくつぎ込んだり、果てはそのスターが引退したら、生き甲斐がなくなるのはどうでしょう? 次々に別のアイドルを追いかける人もいますけれど、それもやっぱりやり過ぎですね。どんなステキな人も、やっぱり人間であって、神にはなれないからです。また、本当の神様は、私たちが神様をそっちのけにして、違う何かを神にしてしまうことを、とても厳しく禁じておられるのです。

 神様が私たちに与えてくださった、大切な十戒の第一戒は、「あなたには、わたしの他に神々があってはならない」です。その第一戒について、こう言われています。

ウェストミンスター小教理問答47 問 第一戒では、何が禁じられていますか。

答 第一戒は、まことの神が神であり、また私たちの神であることを否定したり、まことの神を礼拝し、彼に栄光を帰すことをしないこと、また、まことの神のみにふさわしい礼拝と栄光を、何か他のものに与えること、を禁じています。

 天地万物を造られた神、そして、出エジプトやキリストの十字架の贖いによって、特別な関係を結んでくださった神。その神を否定したり、礼拝を捧げなかったり、他のものにその礼拝や栄光を与えることは、あってはならない。それが、第一戒の禁じていることです。それは、当たり前のことではないでしょうか。世界を造られた偉大な神と、他のものを取り替えるだなんて、よく考えたらあり得ないことです。けれども、実は、聖書は、如何に人間が、性懲りもなく自分のために、神ならぬものを神として、本当の神様に尻を向けてしまいやすい、失礼な存在であるかを語り続けています。

 聖書の時代にも、たくさんの偶像がありました。何度も何度も、そうした偶像に走ってしまったのが、イスラエルの民の歴史です。

日本にも、世界にも、そうした宗教はたくさんあります。

また、日本のキリスト教会は、戦時中に、天皇の写真(御真影)を教会の中において、拝礼する、という大きな違反をした歴史があります。これは、日本の教会にとって、忘れてはならない問題です。

けれども、その「宗教的な偶像崇拝」を止めても、人はどうにかして、真の神様に礼拝や栄光を捧げるのではなく、もっと違うもの、手近なものを神に祭り上げて、自分の心を満たそうとするのですね。

 例えば、最初に話したアイドルもそうですし、お金や宝物、一番になったり名声を得たりすること、力を持つこと、ステキな恋をすること、お酒とか食べ物…。そうした事が自分の生活の中心になってしまうのですね。

勿論、アイドルや恋人が「神」だと勘違いしている人は誰もいないでしょう。お金やお酒が全てではない、と分かっているとは言います。でも、そうは言いながらも、自分の人生の中心にしてしまうことがあるのですね。それは、私たちを造られ、今も私たちを愛しておられる神を押しのけて、違うものを自分の「神」としていることです。それ自体は、どんなに良い物であっても、もし、神を差し置いて、自分の幸せを違うものに求めてしまうなら、それは止めて、真の神様を礼拝し、第一にし、この神様だけに賛美と栄光をお返しするようにしましょう。神様以外のものは、必ずいつかなくなります。一時(いっとき)だけ幸せやサイコーな気分にならせてくれるかもしれませんが、本当に深い幸せをもたらすことは決して出来ません。

 現代社会には、「その人がどんな宗教を信じていようと、本人の自由じゃないか。結局は同じ神様を信じて、同じ幸せを求めているんだから」という考えが大きくあります。でも、それは真理ではありません。「自分が幸せになれるんだったら何に縋ったっていい」という考え自体が、自分を見失った姿なのです。私たちは、自分の幸せを第一に捜し求めるのではなく、神様にまず立ち返るべきです。私たちを造り、私たちを愛された神は、私たちが互いに愛し合うことを御心としておられます。自分の心の渇きや、虚しさを埋めるために、お金を貯めたり、理想の恋人や家庭を追い求めたり、幸せな気分とか一時的な感動などを求める人生は、必ず底をつきます。まず、生ける真の神様に立ち返り、このお方だけを礼拝するのです。そして、神様の恵みによって、私たちも人を愛し、自分を差し出す生き方へと変えられるのです。

 偶像やアイドルやお金は、そうはいきません。神ではないものは、私たちが頑張らなければ、幸せを感じさせてくれることさえ長続きしません。イエス様は違います。本当の神であるイエス様は、深く力強い憐れみによって、私たちを赦し、心を満たし、導いてくださいます。私たちの心の底まで全てお見通しの上で、私たちを受け入れ、慰めてくださるのです。なぜなら、この方こそは、まことの神だからです。それ以外のものは、私たちを幸せにするよりも、私たちの人生を振り回し、惨めにし、見失わせるだけです。

 私たちが、まことの神を神とするときに、実は、その他のもの、お金や勝負事や、恋人や食べ物、他の人やあらゆる生活のことが、正しい関係に収まっていくのです。それは、もう悩まないとか絶対に失わないし、うまくいく、という意味ではありません。神様ではないものなのですから、問題や限界はあるのです。でも、それによって、私たちが恐れたり絶望したりすることはなく、むしろ、神様を仰ぎながら、希望をもって歩むことが出来るので、振り回されることがなくなっていく、ということです。

 神様は、私たちに、神ではないものを神とすることを禁じるだけではありません。神ではないものを奪われたり、壊されたりするお方でもあります。でも、それよりも良いのは、私たちが毎日自分から、すべてのものを神にささげ、主イエス・キリストを通しての礼拝を進んでし続けることです。この方は、天地万物を造り、治め、私たちのためにひとり子イエス・キリストをさえ惜しまずに与えてくださるほどに、私たちを愛しておられる、真の神です。その神だけが神であることを認めて、他の何かに期待や幸せを求めすぎている間違いから目を覚ましましょう。その時、私たちは本当に自由にされ、神から来る救いの喜びが与えられます。第一戒もまた、恵みであり、自由の律法です。

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