聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/8/2 ガラテヤ書2章16節「何を信じるか 誰を信じるか」ニューシティカテキズム33

2020-08-01 14:57:08 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/2 ガラテヤ書2章16節「何を信じるか 誰を信じるか」ニューシティカテキズム33

 「何を信じるか 誰を信じるか」。二つは似て違います。「何」を信じるか、地球は丸いと信じる、明日は晴れだと信じる、いつかコロナが収まると信じる。それが「何を信じる」です。神を信じる、という時も「神がいると信じる」という意味のことは多くあります。それと違って「誰を信じる」は、友達や誰かが「信頼できる」と信じる。嘘をつかない、その人の言葉や人格を信頼する、という意味です。「神を信じる」も、神がいると信じるだけでなく、神を信頼する、神の言葉を信頼して、自分の生き方もお任せする、という意味です。教会では、当然、イエス・キリストを信じます。今から二千年前、エルサレムで十字架に死んだ「ナザレのイエス」が神の一人子キリストであり、私たちの主であり、私たちを救って下さり、今もともにおられて、これからもずっと私たちを導き、世界を完成させてくださる。そう信じています。でも、そういう知識を信じるという以上に、イエス・キリストというお方を、信頼し、安心していくのですね。
 そして、私たちは、特にイエス・キリストが私たちの救い主だと信じます。イエスを私たちの救い主として信頼する。だから、私たちの行いとか何かも足さないと不十分であるかのようには考えないのです。今日は、私たちの信仰がイエスというお方への信頼であることを、何か別のものを頼ろうとしなくていいことだと学びましょう。

第三十三問 キリストへの信仰を持つ者は、自分の行いやそれ以外の何かに救いを求めるべきですか? 答 いいえ、そうするべきではありません。救いに必要なすべてはキリストにあるからです。良い行いによって救いを求めることは、キリストが唯一の贖い主であり救い主であることを否定することになります。

 私たちはイエス・キリストに信頼しつつ、それだけでは足りないように思ってしまうことがあります。奉仕や礼拝や、献金や苦行に頼ることがあります。また、私の信仰、イエスへの信頼が不十分だ、と思ってしまうこともよくあります。イエス・キリストが救い主だと言いながらも、でも、それだけでは心細くて、自分たちも何かしなくてはいけないはずだ、と思い込んでいる。それが、私たちに染みついている傾向です。だから、今日のこの問いではそのことを取り上げて、「いいえ、…救いに必要なすべてはキリストにあるからです」と言うのです。だから、私たちはイエス様を信頼するのです。
 もっと言えば、私たちはキリスト教という宗教を信じるのでもありません。イエスは、宗教については語りませんでした。私もあまり「キリスト教」という言い方は好きではありません。キリスト教という教え、宗教、考え方といった途端に、イエス・キリストというお方への信頼とは違う信仰になってしまいます。私たちは、私たちを救うために、この世界に来られて、十字架にかかり、死んでよみがえってくださったイエス・キリストを信頼します。イエスも、私たちに、ただ信じることをお求めになるのです。
2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
 何か、神様の律法、戒めを守ること、何かをすることでは、神様との正しい関係を結ぶことはできません。ただ、私たちのために、イエスが完全な橋渡しをしてくださった。神であるイエスが、人間となってこの世界に来られて、私たちのために死んで下さいました。十字架という、想像を絶する苦しみを引き受けて、罪の赦しを引き受けてくださいました。そのことに私たちが何かを足さなければならない、何かいいことをしなければとか、信じ方をもっと純粋にしなければ救われないなんて考えたら、それはイエス・キリストの御業をとても薄っぺらにしてしまうことでしょう。
 イエスの所にやってきた人の中には
「何をしたら永遠のいのちを得ることが出来ますか」
と質問した人もいました。「何をしたら」「私が何をすれば」という質問に対して、イエスは、全財産を捨てるとか、敵を愛するという生き方が出来るか考えさせられました。私たちには、神様との間に橋を架けるような良い行いをする力は全くありません。もし私たちが、神様との関係を作るような力があれば、イエス・キリストがわざわざこの世界に来て、十字架の苦しみを受ける必要はありませんでした。出来ないから、イエス・キリストが来て下さったので、そこに私たちが何かを足すような必要はありません。
 神の側からの一方的な贈り物としての救いを信じることは、私たちの生き方をどう変えるでしょうか。大違いに変えます。救いが差し出されて、信じることだけが求められているのであれば、私たちの周りに何があっても、それは私たちの行いが足りないからだと思う必要はありません。この福音を知らなければ、病気になったり感染症が大流行したり、大雨や地震や災害があったりすれば、それは自分か誰かの不信心のせいではないか、神の要求に誰かが応えていないから、と思うことが起きます。私たちが何かしなければ神様との関係は回復できない、と言う考えが、いやなこと、苦しい事を見る目を歪めてしまいます。また、大変な思いをして辛い人にも、「そんなことが起きたのは、あなたの神様に対する行いに問題があるからに違いない」と責めることも起きます。そして、そんな神様との関係に疲れたり、神を憎むようになってしまうのです。

 イエス・キリストが救って下さる。私たちは、そこに何も付け加える必要はなく、ただイエスを信頼するだけ。そう信じるキリスト者は、コロナウィルスや悲劇的な出来事の中でも、神の罰とか自分の足りなさを責めることはありません。何しろ、イエス・キリストご自身が、この世界に来て、病気や苦しみに触れてくださったのです。すべての罰を負われたのです。私たちの救いを願って完全な贖いを果たしてくださり、「わたしを信じなさい」と言って下さったのです。私たちは勇気をもって生きることが出来、ほかの人にも神の祟りや天罰ではない、信頼に満ちた生き方を伝えていくことが出来ます。

「ただ一人唯一の神よ、どうか私たちが自分の良い行いに頼ったり、その行いによって救われたのだと信じて生きたりすることのないように助けてください。ただ恵みのみに頼り、主こそ救いの創始者であり完成者であるという約束に命を懸けることができますように。そしてこのように生きることで、あなたの恵みを讃えることができますように」
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2020/8/2 マタイ伝9章1~8節「本当の権威」

2020-08-01 14:47:23 | マタイの福音書講解
2020/8/2 マタイ伝9章1~8節「本当の権威」

 イエスの所に中風の人が運ばれてきました[1]。イエスが多くの病人を癒やしていると聴いて、この人も癒やしを願ったのでしょうか。いや、本人より周りの人の方が熱心だったのかもしれません。連れてこられた時に、イエスは
「彼らの信仰を見て」
とあります。この人の信仰とは言いません、連れてきた人たちも含めた信仰を、イエスはご覧になったのです。他の福音書ではもう少し詳しく書かれて、連れてきた人の一途さが印象的です[2]。しかしマタイでは、彼らの信仰を見たイエスに目がとまります。私たちの行動、ぎこちない、小さな信仰をさえ見てくださって、喜ばれて、応えてくださる。人が誰かを助けよう、病気の人を放っておけない、そういう思いをイエスは見ています。しかし、その次にイエスがなさったのは、中風の癒やしではありませんでした。
「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」。
 こう仰ったのです。
 今までイエスは教えを語りました。その教えも権威があることに人々は吃驚仰天しました[3]。その次にイエスは病人を癒やされました。大勢の人が集まってきました。次に、イエスはそこから湖を渡って向こう岸に行かれましたが、途中で嵐になった時、風と湖を叱りつけて従わせ、弟子たちはここでも驚きました。その後、向こう岸では悪霊に憑かれた人から凶暴な悪霊を追い出す、という出来事があって、悪の霊、邪な人格というものに対しても、イエスが圧倒的な力を持っていることが証明されました。教え、病気、自然界、霊に対しても、イエスには権威があると示されてきたわけです。その上で、イエスは身体が麻痺した病人に向かって、
「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された(赦されている)」
と言う。これまた新たな、本人も周囲の人々も驚かせた、イエスの爆弾発言だったでしょう。特に居合わせた律法学者たちが、
3…心の中で「この人は神を冒涜している」と言った。
とあります。イエスの癒やしや働きを見に来ていたこの学者たち、聖書の専門家たちは、この言葉に「冒涜だ」と鋭く反応したのです。おおっぴらには言いませんでしたが、心の中で言ったのです。すぐに6節の
「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」
を仰ったのなら、反応も違ったのでしょう。それをイエスは
「あなたの罪は赦された」
と仰った。それはここまでの驚きにまた新しい驚きを重ねる発言でした。律法学者たちは
「神を冒涜している」
と思いました。
 しかし、イエスからすると、この罪の赦しこそ言おう言おうと待っていた言葉、と言って良いのでしょう[4]。今までの病気の癒やしも嵐を鎮めた奇蹟も、イエスが神から授かった権威を表しています。その、天地のすべての権威を持っているイエスが、私たちの罪を赦す。神が求められる生き方をせず、神との関係も人との関係も自分との関係もこじらせて、二進も三進もいかなくなってしまう人間の罪を、イエスは「あなたの罪は赦された」と宣言してくださる[5]。
5『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
 どっちも難しいのです。今まで病気を癒やした延長で、「起きて歩け」と言われて歩かせたとしても驚くべきこと。その難しいことをなさる権威を持っているイエスが、罪を赦す。そして現実に人を、囚われていた罪から解放して、歩み出させる。それこそイエスの権威です。神の、いいえ本当の権威というものは、人を生かすからこそ、権威として重んじられるのですね。
 律法学者たちにイエスは
「心の中で悪いことを考えている」
と言いました。神は罪の赦しのために、一人子イエスを送ってくださったのに、赦しなんて冒涜だ、もっと神は厳しい方だ、と邪魔立てする考えを、イエスは「悪いこと」と厳しく仰います。この言葉も驚きです。神はイエスを通して
「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」
と告げるお方。この憐れみこそが権威なのです。
 私たちは聖書を通して、この世界のすべてを作って今も支えておられ、必要とあらば、病気を癒やしたり、嵐を鎮めたり、いや、世界をひっくり返すことも出来るお方を信じています。そのお方が、私たちを愛しておられ、今日も私たちを支えている、という大胆な告白をしています。そして、その神が、ご自身や人との間に抱えているあらゆる罪を、脅したり謝罪を求めたりする先に、赦し、解放してくださる、とさえ告白する。抱えている心の重荷を、やがては手放させてくださる。私たちが「しっかり」生きることが出来るように助けてくださる方だ、という本当に不思議で恐れ多い告白を、イエスにあってしていけるのです。
 この礼拝は
「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」
という御声を聴く場です。イエスが「あなたの罪は赦された」と言ってくださって、新しい一週間に踏み出します。「しっかり」出来ない時もあるし、罪を繰り返すことが続いても、それでも主イエスがこう仰る言葉に、力をいただけます。勿論、癒やされたい病気もある、必死に祈っている問題もある。それを叶える力のある主が、私たちの心の奥深くの罪を扱ってくださる。水を差す言葉も溢れていますが、主は「しっかりしなさい」と仰って、そうさせてくださいます。世界を作られた主は、私たちの思いもつかないような方法で、この世界に働いています。そのしるしとして差し出された主の聖晩餐を、今パンと杯をいただきませんが、制定の言葉で味わいましょう。

「主よ、世界を作り、天候も、頑丈な身体も作りうるあなたが、私たちの心や、罪の苦しみや、精一杯の信仰に目を留めておられます。何でも出来る方が、私たちのために人となり、ご自身の命で、赦しと励ましをくださいました。その愛で私たちを満たしてください。今この困難な時代に、どうか私たちを生真面目であなたを歪めた悪い考えから救い出し、互いに生かし合い、励まし合わせてください。そこにも、あなたが権威をもって働いてくださり、支えてください」
[1] 新改訳2017では欄外に「すなわち「からだが麻痺した人」」と書かれています。今では脳卒中で重い麻痺が残っている、と言った方が分かることばです。動けない人なので、床に寝かせたまま運ばれるしかなかったのです。
[2] この同じ出来事を伝える、マルコやルカの福音書では、詳しくは四人の人が連れてきて、イエスのいる家がぎっしりだったために、家の屋根に上り瓦を剥がして、イエスの前に下ろした、と書かれています。マルコ2:3「すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。4彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。」、ルカ5:19「しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。」
[3] 7章28、29節。
[4] マタイは、罪の赦しを繰り返して強調する。主の祈りで「お赦しください」と祈るよう命じ、赦されたのだからあなたがたも赦せ、と念を押す。例え話でも。教会の「鍵の権能」では、教会にこの「権威」が与えられている。12:1でも。こんな権威を、イエスという人だけでなく、教会という人の集まりにも託される。それは、神の御心が赦しだから。それを邪魔立てするのは「悪いこと」と言われるから。
[5] 罰して叱りつけて、あるいは「まず謝りなさい。悔い改めて、しっかりした信仰を見せなさい、そうしたら赦してあげよう」とは言われないことにも注意。「しっかりしなさい」も、「勇気を持ちなさい。確信を持ちなさい」とも訳せるニュアンスです。「(赦されたのだから)しっかりしなければいけない」というより、「(赦されたのだから)堂々と生きなさい。確かな恵みに立って生きることが出来るのだ」という壮行の辞です。
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