聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/8/23 ヨハネ伝14章16~17節「助け主なる神」ニューシティカテキズム36

2020-08-22 13:39:23 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/23 ヨハネ伝14章16~17節「助け主なる神」ニューシティカテキズム36

 夕拝で、お話をしている「ニュー・シティ・カテキズム」は、今日から最後の部分、第三部に入ります。
 今まで、第一部では「神・創造と堕落、律法」という土台の話を
 第二部では「キリスト、贖い、恵み」という福音の話をしてきました。
 ここからは、神が作られた世界で、救い主イエスの救いが、私たちにどのように届けられていくのか、をお話ししていきます。ただ、聖書のすばらしいお話を私たちが信じるとか、イエス様の救いを私たちが信じる、という以上のことが聖書の救いなのだと、今日から見ていきましょう。その最初に触れるのは、聖霊のことです。先週、信仰も神が下さる、神が信仰を聖霊によってプレゼントしてくださる、というお話をした、その流れです。

第三十六問 聖霊について私たちは何を信じていますか? 答 聖霊は神であり、父、子と共に永遠であり、神は信じるすべての者に聖霊を必ずお与えになります。

 「聖霊」という字を、パソコンで打ち込むと「精霊」と変換されるかもしれません。精霊とはフェアリー、妖精みたいなものですが、教会で言う聖霊は、神ご自身です。この世界のすべてを作り治めている、永遠で、父なる神、御子なるキリストと等しいお方です。その神である聖霊が、御父が決断し、イエス様が人となって果たされた救いの御業を私たちに届けてくださるのです。もっと言えば、神が聖霊なる神を私たちに与えてくださるのです。聖霊が来て下さることによって、私たちは、信じる心を持ち、イエス様の救いに与ることが出来ます。私たちが今、イエス様が少しずつでも分かっていくとしたら、信じたいと思い始めているとしたら、聖書の言葉が私たちの心に働いているとしたら、それは、他ならない聖霊のお働きによるのです。聖霊が私たちのところにきてくださらなければ、決して私たちは、信じることも救いを求める事も出来ません。
ヨハネ一四16そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
 主イエスはこう言われました。イエスが父にお願いして、父が私たちに与えてくださる助け主。それが聖霊です。神は、聖霊を通して、私たちに救いを届け、信仰を与えてくださいます。ですから、私たちが、キリストの救いをいただくことが出来るのです。
 聖霊は「この方」と言われています。聖霊は、神であられて、人格をお持ちです。イエス様と違って、目には見えませんし、父なる神よりももっと思い巡らしにくいですが、何よりも私たちに近くおられ、私たちを愛しておられる、人格的なお方です。聖書には、
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
という言い方も出て来ます(エペソ4:30 )。悲しまれ、喜ばれ、私たちを愛されるお方です。父なる神も、御子イエスも聖霊をただ遣わすだけでなく、愛しておられます。神は、深く深く愛しておられる聖霊を、私たちのうちに住まわせてくださっています。ですから、この方がただの助け手、力ではなく、心あるお方であることを思い出すために、「聖霊」と呼び捨てにするのではなく、「御聖霊」とか「聖霊様」と呼ぶのは相応しいことですし、私たちの心に聖霊への畏敬の念を呼び覚ましてくれます。本当に恐れ多いことに、聖霊なる神様が、私たちのうちに、信仰を届けて、救いを確かに届けてくださるのです。
 しかし聖霊は、「キリストの御霊」です。私たちにご自身を示そうとはなさいません。私たちが主イエスを知り、主イエスの仰った御言葉を理解するようにしてくださるのです。「聖霊が見たい、感じたい、体験したい」と思う人もいますが、聖霊のお働きは、私たちが主イエスを信頼し、主イエスに結びつくことにあります。中には、聖霊を体験した、身体が熱くなったり、感じたり出来るような出来事をした人もいます。そういう人もいれば、そうでない人もいます。大事なのは、何か特別な霊的体験をすることではなく、私たちがますます主イエスを信じ、イエスに結びつくこと。イエスを知って、イエスへの信仰を深められ、イエスに従うよう変えられていくこと。体験も憧れる気持ちも分かりますが、体験や奇蹟がなくて、信仰を吹き消すような状況の中でも、それでも主イエスに心を向けるような信仰を持っていくことです。それが、聖霊のお働きなのです。
 聖霊の働きは「メガネ」のようです。メガネをかけると、周りが見えるようになります。メガネが見えるようになるのではありません。「目が見える」というのも面白い言い方で、目が見えるのではなく、目の前にあるものが見えるようになるのです。聖霊が来て下さると、聖霊が見えるのではなく、主イエスが見えるように、心の目が開かれるのです。「聖霊は謙虚な神」とか「控えめな神」「慎ましい神」とも言われるのです。

 しかし、聖霊が私たちに働いて、イエスが見えるようになり、神の恵みによって、神の子どもとされたと知るなら、私たちは慎ましいとか、控えめ、遠慮がちに生きるはずがありません。主イエスは、弟子たちに
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」
と言われました(使徒1:8)。聖霊は、私たちに信仰や救いを与えるだけでなく、私たちをイエスの証しとしてくださるのです。神は私たちを通して、私たちの思いを超えた、大きな事をなさろうとしています。そしてそれは、私たちの心に信仰を持つという、目には見えない本当に地味なことからしか始まらない、とてもデリケートなことなのです。その結果、私たちは勇気を持ち、大胆になります。安心して、もっと自分らしく、本領を発揮して、面白い人になるはずです。
 今日も礼拝の最後に、祝福をします。主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、そして「聖霊の交わり」があるように。皆さんに聖霊が来て、働きかけて、主イエスの福音を豊かにいただけますように、そうして主イエスの証人として出て行きましょう。

「助け主、主よ。私たちに聖霊を送り、その御霊を私たちのうちに住まわせてくださり感謝します。聖霊が私たちを戒め、訓練し、力づけ、慰めてくださりありがとうございます。どうか私たちが自分の力に頼らず、御霊の助けによって、信仰の道を進むことができますように。どうか従順の道を歩み、喜びに満たされますように。アーメン」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/8/23 マタイ伝9章35~38節「深く憐れむイエス」

2020-08-22 13:22:46 | マタイの福音書講解
前奏 
招詞  マタイ11章28~30節
祈祷
賛美  讃美歌71「造り主よ」①③
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇23篇(6)
賛美  讃美歌504「実れる田の面は」①②
聖書  マタイの福音書9章35~38節
説教  「深く憐れむイエス」古川和男牧師
賛美  讃美歌504 ③④
応答祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌545下「父の御神に」
*祝祷
*後奏

2020/8/23 マタイ伝9章35~38節「深く憐れむイエス」
 主イエスの教えと奇蹟とを綴っていくマタイ福音書は、この九章の終わりで一区切りします。次の10章からは第二段階になります。35節の「イエスはすべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」は4章35節とほぼ同じ言葉で、4章から公式に始まったお働きがいったん総括されたと言えます。多くの人に語って、弟子も集まり、奇蹟も沢山なさった。その時、イエスは何を思ったのでしょうか。
36また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
 「深くあわれまれた」。この言葉は何度もお話ししていて、それでも思い出したい言葉で、内蔵(腸)から来ています[1]。「あわれむ」というと、同情、蔑む、「上から目線」という響きもないではありません[2]。そういう他人事(ひとごと)の「可哀想に」とは違います。他人事どころか、自分の腸、内蔵、心臓を動かされたのです[3]。日本語でも「断腸の思い」とか肝腎・肝心、心臓を鷲掴みにされる、胃が痛む、等の表現がありますが、この「深いあわれみ」「腸する」とでも訳すほかなかった言葉は、そんな深い痛みです。そもそも、この「腸する」という強い言葉も、神に使うことは決してなかったそうです。人間が誰かの惨状に、自分の内臓をえぐられるような思いをすることはある。けれども、人間とは違う神にはそんな痛みなどあるはずがない。神が痛むような神なら神ではない。そう思われたのです[4]。その神らしくない言葉が、イエスが群衆をご覧になって抱いた思いでした[5]。イエスは群衆を見て内臓を揺さぶられた。それは
彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからで
した。
 羊はとても弱い動物で、羊飼いがいないと餌も見つけられず、敵に襲われたら食べられるままになってしまうそうです。また聖書には、羊飼いがいても「雇われ羊飼い」で羊を構わない様子も出て来ますね[6]。羊飼いが羊を虐めたり、ほったらかしにしたり。「弱り果てて」は欄外で「あるいは「苦しめられて」」とありますが、英語では「ハラス」、ハラスメント(虐待)の動詞が使われています[7]。今でこそハラスメントが取り沙汰されていますが、今までも虐待やネグレクトは隠れてありました。同じようにイエスの時代も、全くの無法状態で、野戦病院やスラムのような社会ではありませんでした。王もおり、国もそれなりに機能して、戦争のない状態が続いていました。けれども、見えないところで本当のケアがされていない。人として必要な扱いがされていない。憎しみや敵意があり、罪の赦しも恵みもない[8]。戦争はないけれど、言葉や思いでの暴力が社会を覆っていた。その深い深い孤独を、イエスは悲しまれたのです[9]。
 特にこの時、イエスが既に
「すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気…わずらいを癒やされた」
後です。それだけの働きをしたのだから、群衆は元気になった、社会が良くなった、とイエスは満足された、という方が自然ではないでしょうか。あるいは、あわれんでいるだけでなく、癒やしたり力づけたりすることがイエスには出来たのではないでしょうか。しかし、イエスは人が、病気の癒やしや教えでは簡単に癒やせない深い苦しみをもっているとご存じだからこそ、深く心を痛められたのです。イエスがここで見せた深いあわれみは、イエスが人間の苦しみを深く知っておられることの証拠です。
 しかしそれは無力なあわれみではありません。イエスは深くあわれんでこう仰います。
37そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
 収穫! イエスはこの弱り果てて倒れている人に内臓が痛むほどの思いを抱きつつ、その人々を「収穫」、豊かに実って喜んで刈り取られるのを待っている作物と見ています。荒れ地、不毛の地、とは見ず、収穫は多いと言われます。神は収穫の主であって、ご自分の収穫を決して無にはなさらないと信じています。そして弟子たちにも、「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われるのです[10]。
 この後、イエスは弟子の中から特に12人を選んで派遣します。でも、その前にイエスは
「収穫の主に働き手を送ってくださるように祈りなさい
と言われました。働き手になれ、収穫に出て行け、人々を世話しなさい、と言われるより、祈りなさい、と言われました。弟子の全員が、イエスの深い憐れみに押し出されて
「働き手を送って下さい」
と祈る。それなら誰でも出来ることです。そしてそう祈る時、この世界を深い憐れみをもって見ておられるイエスの眼差しで見るようになります。この世界が、神の畑であって、ここに豊かな命を実らせる神がおられることを見るようになります。そのためにも命じられたのは
「祈りなさい」
なのです。
 大勢の人を教え、癒やし、触れたイエスさえ簡単に解決しようとはなさらなかった、深い苦しみ、虐げがこの世界にはあります。それを癒やすのは、奇蹟の力ではないのです。人が主イエスのあわれみの心と、収穫の主への信頼を持つことによってなのです。主イエスの深い憐れみと、神への希望を、祈り続けるうちに私たちはいただきたいと願います。
 その一歩として、今日は、この御言葉に沿って祈りましょう。

「主よ、あなたは私たちを見て深くあわれんでくださいました。羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れているのをご覧になる方です。収穫の主よ、どうぞあなたの収穫のために働き手を送ってください。そして、私たちがあなたの深い憐れみをいただいていることを絶えず覚え、私たちの周りの人もそれを必要とする人であることを見ていけますように」

脚注

[1] スプランクニゾマイ。マタイでは5回用いられます。14:14「イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。」、15:32「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」、18:27「家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。」、20:34「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」」
[2] 『広辞苑』では「あわれ・む【哀れむ・憐れむ】 アハレム〔他五〕 (1)《哀》賞美する。愛する。源氏物語(若菜下)「女は春を―・む」 (2)ふびんに思う。同情する。気の毒に思う。今昔物語集(1)「これを―・みて抱き取りて箭(や)を抜きて」。「狭い了見を―・みさげすむ」「難民の境遇を―・む」 (3)慈悲の心をかける。めぐむ。今昔物語集(1)「衆生を―・み給はむが為に、はやく閻浮提に下り給へ」と定義されています。
[3] また、新約聖書の土台となる旧約聖書のヘブル語では「レハミーム」という言いますが、この言葉は「子宮」から来ています。母が胎を痛めて産んだ子どもに対する「あわれみ」(母性的愛)を、聖書の神である主は人に対して抱かれるのです。
[4] 加藤常昭『マタイによる福音書2』より。
[5] ある意味では、イエスは「神であることを止めた神」とさえ言える。イエスは、神らしくない神だ。教会は、神のために存在するとも言えるが、その神は人間のためにご自身を捨てることをためらわなかった神である。教会が教会のために存在せず、他者のために生き、死なれたキリストの教会として、痛みを持って、しかし希望をもって、祈りをもって生きる。それが教会の召し。
[6] 「羊飼いのいない羊の群れ」というモチーフは、旧約聖書にたびたび用いられています。①指導者がいない状態(民数記27:17「彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」)、②指導者(王)が無責任である無法状態(列王記第一22:17「彼は答えた。「私は全イスラエルが山々に散らされているのを見た。まるで、羊飼いのいない羊の群れのように。そのとき主はこう言われた。『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ。』」、歴代誌第二18:16)、③支配者が利権を求め、弱者をないがしろにしている状態(エゼキエル書34:3-4「あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。4弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。」、④偽りの占いやむなしい慰めで人々が翻弄されている状態(ゼカリア10:2「テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。」)。また、有名なヨハネの福音書10章の「良い牧者」の教えでも「12牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。13彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」と言われています。
[7] ESV英語標準訳。
[8] この「弱り果てて」は、マタイで強調していることで言えば、罪の赦しを知らないことから来る。そのヒントは、この直前で、主の癒やしを見て、群衆はイエスに自分本位の期待を膨らませ、パリサイ人たちは「悪霊のかしらの力だ」と難癖をつけることに現れているだろう。神の赦しを知らず、傷つき、諦め、孤独だと思っている「弱り果て」である。私たちは、和解・癒やし・赦しがあることを信じる。
[9] ウェストミンスター小教理問答17、19「堕落は、人類をどんな状態に落としましたか。 答 堕落は人類を、罪と悲惨の状態に落としました。…問19人が堕落した状態の悲惨とは、何ですか。 答 全人類は、堕落によって神との交わりを失いました。今は神の怒りとのろいの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責めを負わされています。」そして、問20「神は全人類を、罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにされましたか。 答 神は、全くの御好意によって、永遠の昔から、ある人々を永遠の命に選んでおられたので、彼らと恵みの契約を結ばれました。それは、ひとりのあがない主によって、彼らを罪と悲惨の状態から救助して、救いの状態に入れるためです。」!
[10] 「この教会」の「収穫」(=伝道による人集め・会員増強)ではありません。教会は伝道を、神のわざ全体、世界の神の民の大きな歩みの中で捉えるよう召されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする