聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問61「何をするかより大切なのは」使徒16章19-34節

2017-04-09 20:57:26 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/4/9 ハ信仰問答61「何をするかより大切なのは」使徒16章19-34節

 

 私たちはよく「信仰」という言葉を、「立派な信仰」「信仰がある」「信仰が弱い」という言い方で言います。キリスト者に対しても、「あの人の信仰はすごい」とか聞くことがあります。少し前に「何とか力」という言葉が流行りました。生きる力、片付ける力、悩む力、など何でも「力」になっていました。そうすると、「信じる力」「信仰力」という本も書かれるかも知れませんね。しかし、もし私たちの信仰が、私たち自身の信じる能力によるのだとしたら、ちょっと不安にならないでしょうか。教会では「信仰によってのみ」とか「信じましょう」などとよく言いますが、それを私たちがちゃんと信じられるかどうか、私たちの信じる力にかかっているのだとしたら、キリスト教も結局は自分頼みだ、ということになってしまいます。今日のハイデルベルグ信仰問答61はそういう誤解に対して、ちゃんと丁寧に信仰の整理をしてくれる言葉です。

問61 なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか。

答 それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外にそれを受け取ることも自分のものにすることもできない、ということです。

 最初の文章をよく心に留めてください。

「自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく」

なのです。私たちの信仰に価値があるから、神が「よし。君の信仰は立派だから、感心した。あなたは救ってあげよう」と言われる…そういうことでは断じてないのです。私たちの信仰力で、神が受け入れてくださるというのではないのです。そうではなく「ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なので」す。私たちには神を喜ばせ、神の愛を引き出すような何か立派なことをすることは出来ません。信仰だろうと何だろうと、神の期待に添うようなことをしなければならない、そういう対等な関係はないのです。私たちが何かをすることではなく、キリストの償いとキリストの正しさ、キリストの聖(聖さ)を頂く以外に、私たちの望みはありません。そして「ただ信仰による以外にそれを受け取ることも自分のものにすることもできない」のです。信仰とは、キリストの償いや義や聖を受け取り自分のものにすることです。

 先ほどの使徒の働きで、パウロとシラスは掴まって牢屋に入れられました。しかし、夜中に地震が起きて、不思議なことに牢屋の戸が全部開きました。監獄の看守はそれを見て、囚人達が全員逃げ出したと思い込みました。囚人を逃がしたなら、当時は逃がした看守や見張りが責任をとって、囚人と同じ罰を受けることになっていたそうです。ですから、この看守は自分が罰を受けることを恐れたのでしょう、剣で自分を刺して死んでしまおうとしたのですね。しかし、パウロたちは逃げていませんでしたし、大声で叫んで

「死んではいけない。私たちはここにいる」

と言ったのです。驚いた看守は、剣を捨ててペテロのもとに駆け寄ってこう聞きました。

30そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。

31ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます」とパウロは言いました。「何をしなければなりませんか」への答として「頑張って信仰を持ちなさい」と言ったのでしょうか。それを聞いて囚人が「よし、じゃぁイエスとは誰だかよく分からないけれど、そのイエスとやらを信じる立派な信仰者になろう」そう思ったとしたらどうでしょうか。信じるとは、私たちの側の真面目な、純粋な、熱心な信仰心だったのでしょうか。日本には「鰯の頭も信心から」という言葉があります。「鰯の頭」なんて詰まらない者だろうと何だろうと、信じさえすれば不思議に有り難いものに見えてくる、という意味です。信じる者は鰯の頭でも、イエスの御名でも、なんでもいいのでしょうか。いいえ、これは「何をしなければなりませんか」に対して、パウロが「いいえ、何をするかではなく、主イエスを信じなさい。」そう言って

32そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」

と繋がるのです。主の言葉、イエスとはどんな方かを説いた上で、それを信じるよう、受け入れるようにと求めたのです。

 宗教改革の時、こういう言い方をするようになりました。

「信仰とは魂の手」である。

 魂の手。神の恵みを受け取る手。イエスは私たちに、ご自分の償いや義を下さいます。その時、私たちに代金は求められません。見返りに何かするとか、純粋な信仰を求めもなさいません。何か善い物を手に掴んで持って行くのではなく、逆に、空っぽな手を差し出すのです。あれこれ大事に思っているものは脇に置いて、イエスに手を伸ばすのが信仰です。そうして、ただ、イエスが下さる恵みを受け取ることが求められているのです。何も持っていなくて良い。勿論、その手が綺麗か、汚れてないか、そんな事でもらえるのでもないはずですね。また、もらった人が「自分の手が綺麗だから、このプレゼントをもらえたのだ」といい気になって考えるとしたら、ひどい勘違いだと思われるでしょう。イエスが果たしてくださった救いを、私たちは受け取るだけ。それが信仰です。私たちの信仰には、まだまだ不明な所もあります。不純物が混じっています。直ぐに弱るようなものです。それだからイエスから救いが頂けないなら、誰も頂けないでしょう。信仰という魂の手が美しい手で健康的でないならダメ、というなら絶望的です。その逆で、私たちが汚れて、病気で、イエスの恵みを必要としているから、そしてそれを私たちとしてはただ頂くしかないから、精一杯手を差し伸ばして、くださいというのです。そして、そうして頂くなら、イエスは必ずそれを私たちに下さるのです。

「救われるためには何をすればいいのですか」

という必死の問いに対して、何かをすることではなく、

「イエスを信じなさい」

と答えたこの言葉にこそ、驚くべき良い知らせがあります。

 そしてそのように言って下さるイエスとはどんな方かを私たちが知っていくこと、イエスが私たちにどのように生きるべきかを聖書を通して学んでいくことで、私たちの信仰はますます養われていきます。決して、なんだかよく分からないけれども、ただ信じて、ついていくというような怪しげな信心ではないのです。

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マタイ26章36-46節「わたしといっしょに」棕櫚の主日説教

2017-04-09 20:52:49 | 聖書

2017/4/9 マタイ26章36-46節「わたしといっしょに」棕櫚の主日説教

 今週と来週の説教は受難週とイースターのお話しします。今年の「棕櫚の主日」はゲッセマネの祈りを、先週お話しした「主の祈り」の「試みに遭わせず」に絡めて聞きたいと思います。

1.ゲッセマネの祈り

 この箇所はイエスが十字架に死なれる前夜、木曜日の夜中の出来事です。エルサレムの街中で十二弟子と一緒に、最後の晩餐をなさったイエスは、街を出てオリーブ山に行かれました。その山の「ゲッセマネ」という場所でイエスは、三時間ほど祈られたのです。その後、47節でイエスを売り渡した弟子のユダや群衆達がやって来てイエスを捕らえ、朝まで裁判が行われ、翌朝九時には十字架にかけられるのです。その前夜に、イエスはゲッセマネで祈られました。

 この時のイエスの思いは38節でハッキリと知ることが出来ます。

38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

 イエスは十字架を前に、しずしずと、あるいは堂々とされてはおられませんでした。むしろ、悲しみのあまり死ぬほどです、と、死にそうなほどの悲しみに打ちひしがれていました。近づいている十字架を前に、恐れず勇敢に立ち向かう姿ではなく、悲しみに押しつぶされそうなお姿です。それを隠すこともなく弟子達にお見せになったのです。そして、

39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 まず「ひれ伏して祈って」が異常です。当時の祈りは、立って、目と掌(てのひら)を天に向けて祈るのが通常でした。それが正式な祈りの姿勢でした。しかしここでのイエスはひれ伏して祈られます。立っていることさえ出来ませんでした。それほどイエスの悲しみは深く、立つ力さえ抜けてしまったのです[1]。そしてあろう事か「出来ますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。潔さなどかなぐり捨て、この期に及んで、十字架を負わずに済ませられるなら取り下げてください、と祈られたのです。なんということか、と思いませんか。

 それほどイエスが受けられた十字架の苦しみは深かった。数時間後の十字架を想うだけで立っていられないほど深くすさまじかったのです。イエスは十字架を受けるために来られました。それを心から負ってくださいました。しかし十字架そのものは、決して喜ばしいものでもへっちゃらでもありません。人の想像を絶する、恐ろしく、逃げ出したい杯でした。そして実際イエスはその悲しみに耐えきれず、十字架刑としては驚くほど短時間で息を引き取られたのです。

2.「悲しみ」の人

 もう一つ心に留めたいのは、それが「悲しみ」であったことです。「恐怖」や「苦しみ」ではなく「悲しみ」でした。イエスは十字架の上で、私たちに代わって死んでくださいましたが、それは神の怒りや罰を受けた苦しみ以上に、悲しみの経験でした。この事は、イエスが十字架の上で語られたのが

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[2]

というお言葉であった事からも明らかです[3]。神から見捨てられる、とはどれほど恐ろしい、いや、悲しいか、私たちは想像すら出来ません。また、「どうして」とイエスは言われますが、その理由をイエスは最初からご存じだったはずです。それでも

「どうして」

と叫ばずにはおれないほどの辛い事だったのでしょうか。あるいは、そこで人間イエスとしては予期していなかった、もっと悲しい思いをされたのでしょうか。そうしたことは私たちの理解を超えた神秘です。説明したり納得したり出来ない、神が御子イエスを見捨てるという異常なことがなされたのです。それは、イエス御自身にとっても悲しすぎる、辛すぎることでした。私たちはただその叫び平伏すお姿を、驚きをもって受け止め、噛みしめて味わい、主の恵みを感謝するばかりです[4]

 その悲しみを、イエスは隠されませんでした。悲しみのあまり死ぬほどだと弟子達に打ち明けられました。非常識にも地べたに這いつくばり、叫び涙と汗まみれになって、「過ぎ去らせてほしい」と無様に祈るお姿を、恥じたり隠したりなさいません。苦しみや十字架にも耐える屈強なヒーローではありません。抑も

「悲しみ」

と言われたように、イエスは繊細な心、傷つきやすい感情をお持ちでした。私たちの悲しみを深くご存じのお方であって、悲しみや恐れを退ける方ではなかったのです[5]。そして、ここで一緒に連れていかれた三人の弟子は、選び抜かれた頼もしい弟子達だったでしょうか。いいえ、直前の33節以下の通り、イエスはペテロがまもなくご自分を知らないと否定し、逃げていくことをご存じでした。彼らはそれを否定しましたが、イエスはその弱い現実をご存じでした。しかし、自分を見捨てることを承知の上で、その彼らをそばに置かれ、彼らにご自分の悲しみを打ち明けられ、無力に祈る姿を見せたのです。弟子達とは違い、ご自分の弱さをそのままに差し出され、ともに祈るよう招かれました[6]

3.祈っていなさい

 41節の

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」

という言葉は、誘惑への対策として祈れ、ではなくて、祈っていることの大事さを、誘惑に陥らないためにも、と強調されての言葉です。イエスは38節で、ご自分の姿を心に焼き付けよう仰いました。イエスはご自分の悲しみも弱さも隠さず、神に祈りつつ、しかし悲しくて悲しくて死にそうだとしても、

「あなたの御心のようになさってください、どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞ御心の通りをなさってください」

と祈られました。見栄とかプライドとかなく、ご自分の悲しみや恐れをもそのままに差し出される、天の父との本当に深い、飾らない関係がそこにはありました。そのような神との関係を私たちにも与えてくださいました。でも、それを私たちに与えてくださるために、十字架の上で、ひととき父から見捨てられるという想像を絶する悲しみを味わわれたのです。そしてそのイエスの測り知れない十字架の御業によって、私たちは神との決して切れることのない関係を頂きました[7]。私たちも、神を

「わが父」

と呼び、心の思いをそのまま申し上げ、神への信頼をもってお従いしてゆく絆、「祈り」を頂きました。

 この時の弟子達は祈らずに眠ってしまいました。自分たちは大丈夫、決して躓かないと大見得を切った弟子達は、誘惑に負ける以前に、神との親しい交わりを知りませんでした[8]。苦しみにあって殺されても自分は挫けない、強く立派だと胸を張りたかったため、祈りもしなかったのです。反対にイエスは、悲しみや弱さを恥じることなく父に打ち明け、弟子達にも見せて、自分の力ではなく、神の御心を願って、力を頂いたのです。無様な言葉や悲しみをも隠さず、祈り続けられました。そしてそのイエスが弟子達に、私たちに言われます。「目を覚まして、祈っていなさい」。一緒に祈ろう、と強く招かれて、十字架にかかってゆかれたのです。

 誘惑に陥らないために祈るのではありません[9]。イエスが信頼し抜かれた神が、私の父ともなってくださいました。その深く素晴らしい関係から引き離そう、「祈らなくても大丈夫だ、祈っても祈らなくても関係ない、悲しみや弱さを覆い隠し、虚勢を張って生きていけば良い」。そう囁く誘惑が世界を覆っていますし、私たちもまだそう信じかけるのです。イエスはその嘘から私たちを救い出してくださいました。御自身の犠牲をもって、私たちを天の父との素晴らしい関係に入れてくださいました。そのイエスとともに私たちは祈るのです。決して独りで祈るのではありません。イエスが私たちをそばに招いてくださったからこそ祈るのです。そのためにイエスは死ぬほどの悲しみを味わい、苦しみの杯を受けられたのです。この受難週、祈らなくても大丈夫、などと思わず、イエスとともに祈る時、祈りを回復する時としましょう[10]

「私たちのため想像を絶する悲しみに遭われた主よ。私たちはあなたを必要としています。あなたは私たちの弱さや失敗、悲しみもご存じの上で、この私たちと一緒にいたいと願われます。何と測り知れない恵みでしょう。与えられた祈る幸いを感謝いたします。主の愛を疑う誘惑から救い出し、神の子どもとされた感謝と喜びに溢れて、祈りつつともに歩ませてください」



[1] ルカの福音書では「二二44イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とも書かれています。

[2] マタイ二七46「三時頃、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

[3] これをマタイは十字架の上でイエスが言われた唯一の台詞として記録しています。

[4] ヘブル七7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

[5] イザヤ五三3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」

[6] 弟子達の事は11人全員を気遣い、愛しておられた。しかし、特にこの三人には御自身との親しい関係を持たれ、御自身の栄光と弱さとをお見せになって、彼らを育てたもうた。それは更に彼らが、自分たちの弱さを見せつつ、教会を建て上げるためだった、と言えるのではないか。

[7] 「イエスはあなたのために地獄に行くことさえ願われたのだ。あなたのいない天国に行くくらいなら、と……」マックス・ルケード『ファイナルウィーク』234ページ。

[8] 「肉体は弱い」とは体力の問題ではない。ペテロ達は屈強な漁師達。夜も明け方まで漁をする生活を続けてきた。荒れ狂うガリラヤ湖を、徹夜で漕いで切り抜けようとした。そういう「体力」ではなく、神に頼らない「肉」です。対照されている「心」は「霊」であり、「御霊」もしくは「神につながる霊」を指します。すなわち、「祈らなくても頑張っていれば大丈夫」とは「肉」の生き方で、弱く危ない生き方であり、「神に頼らなければ自分は弱い」とわきまえるのが「霊」的な生き方であり、強く安全である、ということです。

[9] 誘惑に陥らない手段として祈りを考えてはならない。祈りという神との関係・会話を続けることが、誘惑への勝利。祈り・信仰から引き離そうとするのが神との関係。その意味では、誘惑に負けないようにとかその他のための熱心な(あるいは習慣的な)祈り自体が、誘惑にかかっている、ということもあり得る。祈りの言葉を並べ立てるだけで、神に聞こう、神を愛そう、神に信頼しよう、というものがないならば、何か違うものを神としているのだから。

[10] 祈祷会に来なくても大丈夫、とは思わずに、参加できる時には来て欲しい。受難日礼拝も参加して欲しい。それは形ばかりであるかも知れないが、少なくとも、それぞれの生活で祈って欲しい。それが難しいからこそ、祈祷会があるのだ。

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