聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問65「パンを分け合う」使徒2章37-42節

2017-04-23 14:34:26 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/4/23 ハ信仰問答65「パンを分け合う」使徒2章37-42節

 教会でよく聴く言葉の一つに

「証し」

があります。自分の信仰の経験を、人にお話しして聞かせるのです。特に、自分がイエス・キリストを信じた経験を分かち合うことを「救いの証し」とかただの「証し」と言います。波瀾万丈な人生で劇的にキリスト教に出会ったような証しもありますし、家族が信仰を持っていて生まれる前から教会に行っていたけれど、ある時に改めてイエスに出会う体験をした、という証しもあります。人の数だけドラマがあって、そういう話を聞かせて頂くのは、いいものだなぁと毎回思います。けれども、そのような話を聞けば聞くほど、特に、ドラマチックにクリスチャンになったという話ほど、聞いている人の心には、自分もそういう劇的な体験が必要なのではないか。イエスを信じたいけれども、どうしたら信じたことになるんだろうか、という素朴な疑問も膨らんでくるのです。

 前回まで、キリストの果たされた救いの業を私たちは信じるだけで頂けるのだ、とお話してきました。信仰は魂の手であって、その手を伸ばして信仰をいただくだけです。でもその信仰は、どこから来るのでしょうか。

問65 ただ信仰のみがわたしたちをキリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、そのような信仰はどこから来るのですか。

答 聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通してそれを確証してくださるのです。

 信仰は、聖霊が起こして、確証してくださるのです、と言います。その人が頭がいいから、心がきよらかだから、そんなことは関係ないのです。三位一体の神の聖霊が、私たちの心に信仰を起こしてくださるのです。言い換えれば、信仰は聖霊から来るのです。では聖霊はどのように信仰を起こしてくださるのでしょうか。それは、

「聖なる福音の説教を通して」

です。聖なる福音の説教。それは特にこの礼拝の説教です。教会の礼拝や夕拝の説教で、キリストの福音が説き明かされる時、それを聞く人の心にキリストを信じる思いが出て来る。あるいは、自分の罪が分かって、心を砕かれ、謙虚にされます。あるいは、キリストの愛を信じたい、自分も救われたい、そういう思いが起こされます。その福音に対する「信じたい」気持ち、それ自体が、聖霊が働いてくださって初めて持つことが出来る一歩なのです。福音の説教を通して聖霊が働かれるからこそ、人の心には福音に対する興味や反応が湧くのです。あるいは、抵抗さえも、神がその人の心を動かし始めているからでしょう。説教者のお話しが分かりやすいとかしどろもどろだとかを超えて、その人のうちに聖霊が働いて、福音がその人の心に届いてくださる。だから、その福音を聞いての反応は、聖霊が起こしてくださる信仰の始まりなのです。

 自分の中にある「信じたい」思い。救われたいという願い。いいえ、「こんな自分が救われるんだろうか」とか「私の罪が赦してもらえるなんて、そんなわけがない」という心さえ、聖霊のノックだと思いましょう。そういう自分の思いだけではダメで、聖霊が何かもっと特別な思いや体験や声を下さって初めて、本当に信じて救われる事が出来るに違いない、と思う必要はありません。その私たちの中に小さく始まった、ごくごく人間的な思いこそ、神が下さるかけがえのない信仰なのです。聖霊は、直接人間の心に魔法のように信仰を与えるのではありません。説教を聴き、福音に耳を傾ける中で、どうにか心が動かされてゆく、そういうプロセスで働かれるのです。今日の聖書でも、

使徒二37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

 ペテロの説教を聴いて心を刺された人に、パウロはそのまま、悔い改めなさい、つまり神から離れていた生き方から、神を神とする生き方に向き直りなさい。そして、バプテスマを受けなさい、と勧めますね。

「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」

というのは、それまでは聖霊は関係ない、ということではありません。彼らが

「心を刺され」

たこと自体、聖霊のお働きなのです。だから後は神に向き直って、洗礼を受ければ、聖霊が私たちのうちに住んでくださいます。そう素直に受け入れれば良いのです。

 しかし、「福音の説教」とは礼拝説教に限らず、一対一で話をしながらイエスについて聞かされる場合もあるでしょう。テレビや映画で、キリストについて知ることもあるでしょう。先に言ったように「救いの証し」にはその人の数だけ違うストーリーがあるのです。そして、そういう人の「救いの証し」を通して、別の人が福音に出会うということも沢山起きるのですね。本当に、聖霊は様々な形で、私たちに語りかけ、福音の説教を聴かせてくださるのです。そこで起きる現象ではなく、どうにかして、聖書に証しされたイエスの十字架と復活、恵みによる赦しや喜びを知り、心が動かされることが大事なのです。ですから、「信じたい」と思うなら、「信じます」と応えたらよいのです。

 それだけではありません。聖霊は、福音の説教を通して信仰を持たせるだけでなく、

…聖礼典の執行を通してそれを確証してくださる…

とあります。先の使徒2章でも、洗礼を受けた人々は、その後も、

使徒二42…使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 この「パンを裂き」が「主の聖晩餐」という聖礼典となりました。来週から、この「聖礼典」とはどういう事かを詳しく見ていきます。今日はさわりだけお話しします。信徒たちは、教えを学んだり聞いたり守っただけではなく、集まって、ともにパンを裂いたのです。これは、キリストが示してくださった福音のしるしでした。キリストがご自分を十字架に与えて、ご自分の肉を裂かれて、私たちに与えてくださったこと、そして私たちがお互いを与え合い、交わりをすることが「パンを裂く」というしるしです。パンを裂くたびにイエスの福音を思い出し、分かち合い、味わう。また、パンを分け合うこと、パンだけでなく証しや心や生活を分かち合うことを通して、信仰がますます確証される。それが、聖霊が私たちに働いてくださる方法なのです。

 信仰は、自分で聖書を勉強さえすれば分かるとか、奇蹟や特別な体験があれば強くなるものではありません。聖霊が、説教や聖晩餐、礼拝や交わりを通して信仰を起こし、養ってくださるのです。

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ダニエル書2章20-23節「ダニエル書 たといそうでなくとも」

2017-04-23 14:30:28 | 聖書

2017/4/23 ダニエル書2章20-23節「ダニエル書 たといそうでなくとも」

 今月取り上げるダニエル書は実に愉快な書です。ある学者は

「大いに説教に取りやすい本」

だと言っています[1]。特に六〇周年記念礼拝を前に、ダニエル書は神の支配を教えてくれます。

1.捕囚の真っ只中で

 ダニエル書の舞台は、旧約聖書でも最も暗くどん底の時期でした。イスラエルの民が、何百年も神に逆らい続けた末、遂にバビロン帝国の侵入を許し、三回に渡ってエルサレムから大勢の人々がバビロンに連れて行かれたのです。これを「バビロン捕囚」と言います。この第一回の捕囚の中に、ダニエルがいました。まだ少年だったそのダニエルが、バビロンの王に仕えるための人選に選ばれて、教育を施されて、やがてバビロンが滅びてペルシヤ帝国が始まるまで、七〇年にわたります。少年だったダニエルが、九〇歳近い老人になった期間です。その間、ダニエルは異国のバビロンの王に仕えて、大臣として勤めたのです。ずっと異国で、自分とは違う民族、違う文化、何より違う信仰の中で生きたダニエルです。そういう中で、神がダニエルを通して繰り返して証しされたのは、先に読みました言葉のような信仰です。

二20ダニエルはこう言った。「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。

21神は季節と年を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。

22神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。」

 大バビロン帝国にあって、天にいます神こそ知恵と力があり、季節と年を変え、王を廃し王を立てる真の支配者。私たちの神こそ歴史の王だと告白するのです。それは大変な勇気でした。ダニエル書一章から六章までの前半は、一章ごとに、ダニエルと三人の友人が、自分の信仰をどう守ったかがドラマチックに描かれます。灼熱の炉に投げ込まれ、指が現れて壁に字を書き、ライオンの穴に落とされ、摩訶不思議な夢が説き明かされるなど、実に劇的なストーリーがあり、ダニエルたちのピンチと勇気とが生き生きと描かれます。特に三章の「金の像と燃える炉」事件は劇的ですね。金の像を拝めと命じられて、三人の友人は怯まず言うのです。

16私たちはこのことについて,あなたにお答えする必要はありません。

17もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

18しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。

 説教題もここからですが、教会の歴史では迫害の場面で引き合いに出される有名な言葉です。

2.王たちの心が露わに

 この少年たちの信仰とともに、ダニエル書では相手の王の人間くささも鮮明です。ダニエルたちの存在で、バビロンの王も一人の人間であり、弱さや間違いがあり言い訳がましい、ただの人間であることが浮き彫りにされるのです。ここでネブカデネザル王は、二章で不思議な夢を説き明かしてもらい、ダニエルたちの神の力に触れたはずなのです。それでも彼はほどなく金の巨像を拝ませようとしました。それを三人がきっぱり拒むと、王は激怒して、炉を七倍も熱くせよと命じます。実に無茶で無意味で大人げないです。神は火の中で三人とともにいて、守ってくださいます。それを見てネブカデネザルは態度を豹変させます。でも次の四章でまた彼は高ぶってしまい、正気を失ってしばらく獣のように過ごすのです。四章にはこうあります。

四17…いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』

 神は世界を治めるだけでなく、最も謙った者を置かれる。これがダニエル書のテーマです。そもそも神こそは世界の王なのです。聖書の最初、創世記で人が神に背いて以来、人は自分の力で世界を幸せになろう、神抜きで人生を勝ち取ろうとします[2]。しかし、たとえそれに成功し、王や世界の頂点にまで上り詰めたとしても、人は人です。神にはなれません。王といえども人に過ぎず、自分の心さえ治められないのです。神こそ、もっと大きな力とご計画で世界を支配されます。

 でも同時に神は、その王の心にまで問いかけ、高ぶりを打ち砕かれます。王だけではなく私たちの心の奥深くまで、神は見ておられます。私たちの思い上がりを砕いて、謙り、神に立ち返るように熱く働かれます[3]。人が神である事を止め、謙虚に正直になり、人を支配しようとせず、むしろ他者にしもべとして仕え、なすべきことを淡々としていく。でも、神ならぬものに頭を下げる事はしない。そういう謙虚な人を通して、神の御心が前進していく。それが、神の歴史の治め方です。謙りこそ、神のご計画なさっている歴史の筋書きです[4]

 ダニエルは王の傲慢を裁く以上に、彼自身が謙りの人でした[5]。いつも神の前に祈り、自分の仕事を忠実になしていました[6]。また、九章にはダビデの長い祈りが出て来ます。それは自分たちが今バビロンにいるのが、民族として神に逆らった罪の結果であることを正直に認めて祈った、悔い改めの祈りです[7]。謙虚で正直な姿です。

 しかし、神が人間の国をお任せになる支配者として相応しい、最も謙った者とは誰でしょう。それは、イエス・キリストです。

3.最も謙った「人の子」

 イエスこそ、最も謙ったお方であり、マリヤの胎に宿り人間として成長され、十字架の死にまで謙ったお方ですね。また、その生涯、分け隔て無くあらゆる人の友となった方でした。イエスはご自身のことをよく

「人の子」

と言われました[8]。それは、イエスが人間の子、つまり人間であられる、ということではなくて、実はこのダニエル書7章13節の引用なのですね。

七13私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

14この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

 ダニエルが見させられた幻には、やがて「人の子のような方」がおいでになって、永遠の主権を与えられると約束されていました。国々の支配の歴史の最後には、「人の子のような方」が全世界をいつまでも治めるようになる、と約束されました。イエスはその「人の子」という名称を用いてご自分を名乗られて、ダニエル書にあったメシヤである事を仄めかされたのです。そしてそれは、ダニエル書にあるように、神が人の心を見られ、人の高慢を打ち砕かれ、その心を謙りに至らせるお方であることと繋がっています。また、ダニエルの三人の友人たちが、

「たといそうでなくとも」

と偶像崇拝を拒んで火に投げ入れられた時も、四人目となって友にいてくださったお姿にも重なるでしょう。主イエスは私たちとともにおられるのです[9]

 ダニエル書は七〇年に及ぶダニエルの生涯、バビロン捕囚という聖書の歴史の最もどん底、神が歴史の王だと生き生きと描き出した書です。その大胆な告白とドラマは、神の民への大いなる励ましです。そこには「人の子」として来られるイエスの予告も述べられています。神は人に向き合い、試練や夢や友、様々な形で働きかけ、歴史を導かれるのです。神の子キリストは本当に謙った王として世に来られ、人の高ぶりを打ち砕いて、新しい国を始めてくださいました。

 やがてその国が永遠に幕を開ける時が来るでしょう。それまでも主が私たち一人一人の歩みを導いてくださり、ともにいてくださいます。その途中、神ならぬものが勝ち、自分の信仰など取るに足りなく見える現実もあるのです。でも、私たち一人一人は決して些末ではない。神の大きな謙りのご計画の中で、小さな一人の魂の旅路も、かけがえないエピソードとされるのだ、とダニエル書は励ましています。そう信じて主を信じ、主にのみ従うのです。

「歴史の主なる神様。ダニエル書の七〇年、鳴門教会の六〇年、それぞれに恵みがあり、戦いがありました。悔い改めと戦いは尽きませんが、それ以上に豊かな主の憐れみを信じます。暴力のほうが強く見え、人の心にある闇や暴力に、たじろぎます。だからこそ、どうぞ私たちが、謙虚に、真実に、口と存在をもって、主イエスの御支配を告白し続けることができますように」



[1] 「ダニエル書は旧約聖書の中でも、読むにも理解するにもやさしいものではなく、ましてやその解説をするのはむずかしいことです。何世紀にもわたって、まじめな学者たちや気むずかしい研究者たちが、ああでもない、こうでもないと、幸せなほじくりかえしをつづけてきましたが、今日に至ってもなお解けない問題が数多くあります。…むしろダニエル書の作者が彼の時代の同胞に何を語ったのかを見、彼を通じて神が後々の世に、またわれわれの時代に、何を告げられたかに耳を傾けようとします。すると、ダニエル書は大いに読みやすい本です。説教者の耳にちょっと一言ささやかせてもらえれば、大いに「説教に取りやすい」本です。ダニエル書はわれわれの時代に、われわれ現代世界の現状に、地上の国々すべてを支配したもう歴史の神からのことばをもって、明瞭に力強く語りかけています。」D・S・ラッセル『ダニエル書 ザデイリースタディバイブル21』(牧野留美子訳、ヨルダン社、1986年)、九-一〇ページ。

[2] 「神のみが王である。人間が王となろうとして失敗して、やがて神が王として回復される」は聖書全体のテーマ。ダニエル書で繰り返されているこのテーマの箇所は、特に、四25…こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。…27それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」34…私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。35地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。…37今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。」五21「ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。」六25「そのとき、ダリヨス王は、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに次のように書き送った。「あなたがたに平安が豊かにあるように。26私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。27この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行い、獅子の力からダニエルを救い出された。」「七13私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。14この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」七18「しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。」七26「しかし、さばきが行われ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。27国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』」、その他。

[3] 神が王であり、謙った者を喜ばれる、とは聖書の中心的なメッセージであることを思う。その心を主は見ておられる。人の心にある恐れ、神を知らぬが故の不安、孤独、限界をご存じ。私たちの旅は、最後まで欠けや失敗から自由ではない。最後には善人や聖人になっているだろう、というのは、それ自体が、謙遜を欠いた、人間の理想でしかない。本当に謙った心は、ますます自分の不完全さを認め、良く見せようなどと思わなくなっている心。その「へりくだった人」とは誰か? 謙遜ぶる人ではなく、必要事情に自分を貶める人でもなく(その裏には「本当はもっとすごいはずの自分」というイメージがある)、あるがままの現実を認める人。謝るべき事はゴメンナサイと言い、分からないことは分からないと言え(分かったふりや、とりあえず謝ったり、恥をかくことを恐れたりしない)、人と自分を比べようとせず、悲しみや恐れや嘆きから逃げようとせず、特権意識を持たない。それが「砕かれた心」である。

[4] たとえば、十二3思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(自分を義とした人ではなく、他の人を義とした者、つまり神との関係を整えるよう導いた人。)

[5] ダニエルの偶像崇拝への禁忌の姿勢は大いに学ぶべきです。しかしそれと同時に、それほど王宮での責任は偶像崇拝と結びついていた現実も考慮すべきです。そうした環境を頭から批判して、潔癖に生きようとする道もあったでしょう。しかしダニエルは異教の文化を否定せず、それを批判し闘おうとするよりも、その異教の王たちに心から仕えたのです。また、ダニエルら四人以外にも大勢の若者がイスラエルから来ていたが、信仰の貞潔を貫いたのはこの四人だけでした。四人は他の若者たちを裁いたり、否定したりはしなかったのではないでしょうか。

[6] ダニエル書六10「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。-彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。-彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」

[7] 九章で明らかになるのは、実はダニエルの属するイスラエル民族こそは、神に逆らい、御声に従わずに、神によって裁かれ、打たれた民に他ならない、という事実である。しかし、その中でダニエルは、神がただ主権者であるだけでなく、憐れみ深い王であるゆえに、自分たちにも憐れみを注ぎ、回復を願う希望を告白して祈っているのである。

[8] 当時はメシヤのことを「神の子」と呼んでいましたが、イエスはその呼び方を避けて、「人の子」と言われました。

[9] この先の預言においても、国々の王たちの丁々発止は11章で詳述。聖徒たちが任されることさえ予告される。しかし、神の支配はそのような中で証しされるのだ。

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