聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問59-60「子どものように受け入れよう」ルカ18章15-27節

2017-04-02 15:45:19 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/4/2 ハ信仰問答59-60「子どものように受け入れよう」ルカ18章15-27節

 前回まで、ハイデルベルグ信仰問答では「使徒信条」に沿って私たちの信仰を確認してきました。その話はいったん最後まで行き、今日の所ではその総括をします。

問59 それでは、これらすべてを信じることは、あなたにとって今どのような助けとなっていますか。

答 わたしがキリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となっている、ということです。

 ここで

「これらすべて」

と言われているのは、問58までお話しして来た「使徒信条」の中身の事ですね。その中でも何度も「益」「慰め」について語ってきましたが、ここではもう一度

「今どのような助けとなっていますか」

と問いかけるのです。そしてそれが、

「私がキリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となっている」

というまとめになるのです。「使徒信条」を信じることは、私たちが今、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命を受け継いでいる、という助けになっているのです。

 これはとても大切なことだと思います。言い方を変えれば、毎週毎週「使徒信条」を礼拝で読み、いつでも暗唱できるぐらい覚えているとしても、それが助けになるとは思っていないこともあるのではないでしょうか。ですから改めて、「使徒信条」を信じることは私たちに素晴らしい助けとなることなのだと確認させてもらいたいと思うのです。

 お気づきでしょうか。「使徒信条」には

「義とされ」

という言葉はひと言も出て来ません。

「永遠の命」

は最後の最後に出て来るだけです。だから、これらすべてを信じることが、私がキリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となった、ということだというのは飛躍があるのではないでしょうか。でもそれをあえてそう言ったというのが大事なのだと思います。特に、このハイデルベルグ信仰問答が書かれた、16世紀の時代に問題となっていたのは、人が神の前に義とされるにはどうしたらいいのか、というテーマでした。当時の教会では、キリストが私たちを受け入れてくださるために、人間も献金をしたり、善い業を積んだり、儀式をしたりしなければいけないと考えていました。そういう考え方が教会にも広く浸透していました。それと同じ考えは、今読んだように聖書の時代にも根深くあって、聖書の中で何度も取り上げられています。

18またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 そしてこの人は、イエスが上げられた十戒の言葉にも

21すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」

と断言しました。しかし、イエスが最終的に仰ったのは、そういう立派な生き方でなく、

22…そのうえで、わたしについて来なさい。」

という言葉でした。そして、

27イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

という、神が与えてくださる救いでした。人は、神が何をして下さるかを分からないまま、自分たちが何をしたらいいだろうか、他人と比べて大丈夫だろうかどうだろうか、と考えます。神様を喜ばせるようなことをしないと、きっとダメだろう、と思います。「使徒信条」はそういう問題に直接は答えていないように思えます。でも、そういう問題に答える代わりに、神がどのようなお方か、キリストが何をしてくださったか。聖霊が何をしてくださるのか。そういう事を告白していきます。キリストは、処女マリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座してくださった。それは私のためです。キリストが私たちのためにしてくださったことの大きさです。人が「何をすれば、自分は救われるのか、神に受け入れていただくためには何をしたらいいのか」と思い悩む深い問いに、神御自身が何をしてくださったかを持って答が与えられたのです。そこで、次の問60はこう言います。長い答です。

問60 どのようにしてあなたは神の御前で義とされるのですか。

答 ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰のみによってです。すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、「お前は神の律法すべてに対してはなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとして、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け取る時だけなのです。

 長いです。でもここで丁寧に言われています。私たちの心にある思いは、

「お前は神の律法すべてに対してはなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」

と責めたがるのです。けれども、神は、私のいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とを私に与えてくださいます。それは、私たちが頑張って果たそうと思い描く理想よりも遙かに素晴らしいキリストの尊い御業でした。ですから、「使徒信条」を告白することは、私たちを神に受け入れていただくにはどうしたらいいのか、永遠のいのちを受けるには私が何をしたら良いのか、という悩み一切から、私たちを自由にするのです。

 そして、それは今ここでの私たちを助けてくれるものです。なぜなら、私たちは、父なる神と、主イエス・キリストと聖霊なる神とがどんな方であるかを「使徒信条」を通して確認して、深い安心と喜びを土台に生きることが出来るからです。自分の心に責められても、それよりも大きな神の赦し、永遠の命を信じて歩めるのです。

 勿論、勉強や生活や友だちのこと、考えるべきことは沢山あります。聖書はそうしたことにも知恵や光をくれて、私たちを応援してくれます。しかし、そういうあれこれはあるにしても、それが神様の大きな物語の中にあることを知っています。恐れたり不安になったりせず、神の子どもとして歩ませていただけます。それは大きな助けです。

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「礼拝⑯ 最高の頼もしさ」マタイ4章1-11節

2017-04-02 15:31:39 | シリーズ礼拝

2017/4/2 「礼拝⑯ 最高の頼もしさ」マタイ4章1-11節

 「主の祈り」最後は一番しっくり来る願いですが、実は何を願っているか問われる祈りです。

1.試みに遭われるイエス

 イエスは私たちに

「試みに遭わせず悪より救い出し給え」

と祈るよう教えられましたが、そう祈るよう教えられただけではありません。今日のマタイ四章にはイエスが悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って、四〇日の断食をなさって、試みに遭われたことが書かれています。これは、三章でイエスが洗礼を受けた後、四章17節以降、宣教活動を始められるに先立って、荒野へと追いやられて試みに遭われた、という順番になっています。洗礼を受けてすぐに活動を始められたのではなく、悪魔の試みを受けることが相応しかったのです。そしてイエスは、ここで神の子どもとしての奇蹟や権威を振るって悪魔を一掃するのではなく、徹底的に一人の人間として対峙されました。私たちと同じ、弱さを持ち、特別な力などない、人間として、厳しい試練のふるいにかけられたのです。そうなさってから、イエスは活動を始められ、教えられ、あの主の祈りを祈るようにと授けられたのです。

 それ以降も、イエスの御生涯は試練の連続でした。何よりもあの十字架の苦しみにおいて、イエスが受けた試みは人間として最も厳しいものでした。イエスの御生涯全体は、始めから終わりまで、試みから救い出すことがテーマでした。私たちと同じ試みを受けて、私たちを試みから救い出すためでした。

ヘブル二18主は御自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。[1]

 イエスは私たちの人生が試みの中にあることをご存じです。私たちが弱く、試みに負け、騙されてしまう者で、助けが必要であることもご存じです。そして、御自身が人として試みに遭われ、それがどれほどの強力なものであるかも、誰よりもご承知です。そのイエスが

「試みに遭わせず悪より救い出したまえ」

と祈るように教えられたのは、本当に深く、切実な思いで、私たちの弱さをご存じで、悪から救い出したいと願ってのことであるに違いありません。そのためにこそイエスはおいでになって、御自身が厳しい苦しみをお受けになったのですから。

 イエスご自身がまず試みと対峙されたのは、私たちが試みの中にあるからです。人間は騙されっぱなし、負けっ放しで、それにさえ気づかないのです。同じ荒野でひもじい状況にあれば、私たちは石をパンに変える力が欲しいのです。高い所から飛び降りても守られて、みんなをアッと言わせたい。自分の願う支配を手にするためなら、悪魔にひれ伏したり妥協したりしてしまうのです。そういう生き方をイエスは否定され、神を深く信頼して生きる道を示されました。

2.試みとは何か

 「試み」というと何か厳しいこと、辛い苦しみ、病気や災難、恥ずかしい思いを私たちは考えがちです。「苦しい目に遭わせないで、でも禍から救い出してください」と祈りがちです。しかし試練とは、ただ苦しいとか嫌なことではないのです。神が私たちに下さった大切な関係を、様々なものによって傷つけてしまうことです。現に私たちは、神から愛され、互いに愛し合うようにと命を与えられているのに、その素晴らしい恵みを信じられず、自分の世界に閉じこもりがちです。そこから出て来るのは痛いことです。自分が頼りにしていたものがなくなるのは、苦しい経験です。しかし、それを避けて、温々と自分の世界にいたいと思うなら、主の祈りは、そういう誘惑からこそ救い出されるようにという意味ではないでしょうか。そして、試練には耐えられない弱さを正直に、謙虚に告白しつつ、しかしそれ以上に、あらゆる悪から、また悪魔の騙くらかしから、必要ならば強いてでも救い出して下さい、という祈りなのです[2]

 主の祈りが教えられた「山上の説教」では、人に見られるために施しや祈りや断食など善行をする誘惑が警告されました[3]。また人を赦さない誘惑も釘を刺されました[4]。お金の誘惑、心配しすぎる誘惑、人を裁く誘惑も語られていました[5]。更に、伝道で華々しい成功を収めたことさえ誘惑になることも仰いました[6]。勿論、肉欲や偶像崇拝などのあからさまな誘惑も聖書は上げていますし、私たちは秘かな楽しみをも十分注意すべきです。それと同じぐらい、本来は良いこと、正しさや確かさが神御自身よりも求められやすく、それは一層厄介な誘惑だとも聖書は教えます。

 「山上の説教」では、天にいます私たちの父が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深くなることをイエスは繰り返されます。その事を忘れさせたり、後回しにさせたり、曖昧にしたりする事はすべて誘惑です。ですから、私たちにとって必要なのは、何が誘惑かを決めたり、誘惑を避け罪を犯さないことに焦点を合わせたりすることではありません。むしろ、神の愛をたっぷりと頂き、私たちの天の父として信頼し、その神の子どもとして、私たちも嘘や偏見や悪口や足の引っ張り合いを止めた生き方を願い(頑張る、でなく!)私たちの心も体も生き方も、神に差し出すことです。それを恐れ、神を疑い、信頼しきれないとしたら、それこそ悪魔の誘惑の声です。悪魔の誘惑は、様々な形を取ります。罪を犯すまいとするばかりで、今ある恵みを心から楽しまず、目の前にいる人を批判するとしたら、それも誘惑なのです。

3.神の愛の中に生きる

 先に申し上げたように、イエスのお働きは人間を試みて神から引き離す悪魔の働きを討ち滅ぼすという大事な一面がありました。そのためにイエス御自身が人となられ、試みを極限まで味わわれ、具体的で巧妙な誘惑について教えられました。そのようなイエスのお姿そのものが、私たちを誘惑から救い出してくれる手がかりです。もしそのことを忘れて、「試みに負けたら、流石(さすが)の神様も見捨てるに違いない」と思っているなら、それこそはサタンの思う壺です。

 先週知って、来週の学び会で見ようと思っている短い動画があります。麻薬や薬物依存の解決に取り組んだポルトガルでの試みを紹介した動画です[7]。依存症というのはまさに「誘惑」の問題でしょう。そこで紹介されていたのは、依存症の解決は罰則や禁止ではなく、繋がり、支援、友情、コミュニティを育てる方策なのだ、という実例です。繋がりがない時に、人は寂しさや虚しさを埋めるため、薬物やギャンブル、インターネットなど何でもいいから飛びつくのです。罰や非難や叱責、賞罰はそのような孤独をますます強めるだけです[8]。だから、薬物を使おうと使うまいと友となる、支援をする、繋がり続ける。社会復帰を助け、喜びや苦しみを分け合う。そういう取り組みが、驚くほどの成果を上げ、依存症患者は半減したのです。

The Root Cause of Addiction 日本語字幕版  

 これは本当に素晴らしい事例です。そして、今日の祈りについても、引いては私たちの信仰生活そのものについても、とても大切な光を投げかけています。<誘惑に負けたら私から離れて行ってしまう神>を念頭に置いているなら、私たちは誘惑に引かれます。そもそも誘惑に負けるのは、その方が「とりあえず」でも安心できるからなのです。心にある孤独や不安を埋めたくて、薬物やギャンブル、仕事や買い物や食べ物や恋愛に飛びつくのです。淋しさから何かにしがみつき、人の道を踏み外してしまうのです。そこに、誘惑に勝つことを求める神や罰で脅すお説教をしてもダメです。それは症状であって、問題は神から離れた深い孤独なのですから。

 神はそんなアプローチはなさいません。神はご自身を私たちの

「天にいます父」

という「つながり」を結んで下さいました。イエスは私たちと同じように試みを受け、誘惑の苦しみ、人としての寂しさを味わわれました。最後は十字架の上で、神から見捨てられる孤独さえ味わわれました。その上でなお、イエスは天の父を見上げられました。イエスのお姿は、私たちを決して見捨てず、離れず、どんな過ちからももう一度立ち上がらせてくださる天の父を示しています。だから、私たちは、他のものによって自分を満たそうとしなくなっていけるのです。そして

「私たちを試みに遭わせず」

ともに祈る繋がりへと、私たちは召されたのです。[9]

「天のお父様。「試みに遭わせず悪より救い出し給え」と祈る事を、諦めずに求めてくださるあなたであることを感謝します。あなたとの喜びに満ちたつながりを感謝します。それを恥ずべき誘惑や、自分の正しさに替えかねない私たちの惨めさを、あなたは憐れんでくださいます。どうぞ深い恵みに立ち戻らせ、あなたの下さる慰めを注いで、主にある回復をなしてください」



[1] また、「ヘブル四15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

[2] この第六祈願の二つの文章の関係には、三つの可能性があるでしょう。①「試みに会わせない」=「悪から救い出し」(最も一般的です)、②「試みに会わせない形で、悪から救い出し」(最も事実上願われがちな妄想です)、③「試みに会わせない」しかし、もっと大事なのは「悪から救い出し」。接続詞の「alla」は逆接の「しかし」の意味ですから、③の関係と理解するのが妥当でしょう。

[3] 六1-9。

[4] 六13-14。確かに、主の祈りの文脈から考えると、「御名をあがめさせ…御国を来たらせ…御心が行われ」ることから引き離すもの全てを「試み」と理解することも出来ましょう。特に直前の「私たちの負い目をお赦しください」とのつながりは顕著です。更に、マルチン・ルターの妻カタリナは、「私たちが赦してもいない罪を赦したと思う誘惑からお救い下さい」という注を残しています。

[5] 六16-18、19-34、七1-5。

[6] 七22。

[7] http://krikindy.blogspot.jp/2017/03/blog-post_28.html。また、記事としてもいくつかのものがヒットします。たとえば、http://shindenforest.blog.jp/archives/61397011.html。

[8] あるいは誘惑に勝ったご褒美ということさえ、「いつかは見捨てられるかもしれない。本当の自分の苦しみはダメな証拠でしかない」と思わせるだけです。

[9] このことは、AAの12ステップが示している道筋です。

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