聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問答45、46「ただあなたの神だけを」 ヨシュア記24章16~18節

2015-04-26 15:18:40 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/04/26 ウェストミンスター小教理問答45、46「ただあなたの神だけを」 ヨシュア記24章16~18節

 

 サタンがイエス様を誘惑して、世界を見せてこう言ったとありました。

…「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」(マタイ四9-10)

 この言葉を聞いて、私は「サタンはバカだなぁ。イエス様に、「私を拝めば、世界をあげよう」だなんて言っても、イエス様がサタンを拝むわけがないじゃないか」と思っていたものです。でも、イエス様は分かりやすくそう仰ったのであって、実は、人間にとって、神様以外のものを拝んだり頭を下げたりして、欲しいものを手に入れよう、という誘惑というのは、とてもとても強いものなのです。イエス様だからここでお勝ちになったのであって、もし私がここでイエス様の立場だったら、負けたかもしれません。サタンというのは真っ黒で角の着いた尻尾がある、分かりやすい悪魔だったらいいんでしょうが、

もっと強い、恐ろしく見えるものかもしれません。

それとも、物凄く、優しそうに語りかけてくるかもしれません。「大変でしょう。ちょっとぐらいいいじゃない? 神様も間違うかも知れないし、他のものだって大切だよ」と言って、神様以外のものに頭を下げさせようとすることのほうが多いと思います。

 イエス様は、そういう声を聞いても、間違いませんでした。

 「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。

とお答えになりました。神様が教えて下さった、十戒の第一戒に教えられている事です。

問45 第一戒は、どれですか。

答 第一戒は、「あなたは、わたしの前で、わたしのほかに神々があってはならない」です。

問46 第一戒では、何が求められていますか。

答 第一戒は私たちに、神が唯一のまことの神、また私たちの神であることを知り、認めること、そして、その事実にふさわしく神を礼拝し、神に栄光を帰すこと、を求めています。

 イエス様は、サタンがどんな手を使おうと、たとえ全世界を手に入れることが出来るとしても、それと引き替えに、神以外のものを礼拝しようとはしませんでした。けれども、誤解しないでください。神様以外のものを拝んではいけないと言われているから、渋々我慢して、サタンを拝まなかった、ということではないのですね。神様は、わたしのほかに神々があってはならない、と言われました。でもそれは、神様の心が狭くて、頑固で、堅物だから、ではないのですね。

 …神が唯一のまことの神、また私たちの神であることを知り、認める…

とあるように、他に神はいないからです。神は唯一です。おひとりだけです。世界をお造りになったのは、三位一体の神だけです。世界をお造りになった、大いなる神様に並ぶものは他にありません。だから、

 …その事実にふさわしく神を礼拝し、神に栄光を帰すこと…

もまた、当然のことなのです。私たちは、創造主であり、無限で永遠のお方を直接知る事は、今は出来ません。ですから、神の栄光を反映している世界を通して、神の素晴らしさを垣間見るだけです。でも、神の作品である世界でさえ、知れば知るほど、不思議で、よく出来ています。宇宙のことや、数学や物理の公式、音楽や芸術、どんな分野でも全部分かったとか、もうやり尽くしたといえるものはありませんね。

科学者にもクリスチャンは沢山います。研究をすればするほど、神の素晴らしさを賛美せずにはいられないと言います。そして、人間そのものも、複雑で不思議で、理解し尽くせない、奥深い存在です。こうしたすべてが、それをみな造られた神様の栄光の不思議さを、ほんの少しだけ、映し出しているのです。そして、特に人間同士は、本当に相手を知ろうとしたら、話しを聞かなければなりません。自分を知ってもらうには、ただ身体検査をして、身長が何センチ、体重が何キロ、髪の毛は何本、と分かったとしても、分かってもらえたと思えますか? アルバムを見たり、成績表を全部見られたとしても、それが私の全部だと思って欲しくはないですね。レントゲンを撮ったり、解剖されたりCTでスキャンされても、そういうことではないと、やめてくれと言いたくなるだけでしょう。

 神様を知るというのもそういうことです。神様について知るだけでなく、神様を礼拝し、神様の愛を知り、イエス様といっしょに過ごすのです。聖書では、知る、というのは、夫婦になって体を一つにするときに使われるような、特別な親しい関係を指す事があります。私たちが神様を知るとき、私たちは神様との特別な親しい関係に入るのです。神様の大きさを知って喜び、神様を礼拝し、心から神様を賛美するのです。だから、他のものはその神様と、比べることさえ出来ないと分かるから、礼拝しないのです。

 サタンは、神様だけを拝まなくちゃいけないなんて不自由だなぁ、と思わせたいのです。私たちは、「いいえ、神様の素晴らしさを知ったら、神様以外のものに頭を下げなきゃいけないだなんておかしな事だとしか思えません」と言うのです。

そうはいっても、神様から離れた人間は、神様の大きさに目を向けないで、自分に都合のよい神を造ろうとします。だからこそ、私たちは礼拝に来るのですし、自分で聖書を読み、家族や友だちと信仰を励まし合っていく必要があります。そして、神様の素晴らしさ、ということとともに、その神様が、「私たちの神」となってくださったこと、そのために、神の子イエス様が十字架にかかるほどの犠牲をも惜しまれなかったことを思います。そして、その神様の愛が、今も私たち一人一人に注がれていることを必ず味わい知るのです。

 使徒パウロは言いました。「…私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」世界を合わせたとしても、「いっさいのこと」が損やゴミと見えるほど、主を知る事はすばらしい。主はそのようなお方です。神は、世界を造り、すべてを治めておられ、私たちを愛して、導いておられます。私たちを支え、慰め、励ましてくださいます。どんな時にも良いご計画を進めておられ、私たちの手の業を用いてくださる神です。この神だけを礼拝しましょう。

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ルカの福音書二一章34~38節「すべての人に臨む」

2015-04-26 15:16:43 | ルカ

2015/4/26 ルカの福音書二一章34~38節「すべての人に臨む」

 

 先週は、神戸で「キリスト者の職業倫理」というテーマでの学びに参加してきました。改めて、職業・仕事においてキリスト者として生きる事の大切さを深く考えました。時として、伝道に熱心な余り、「仕事よりも教会奉仕、職場でもチャンスがあれば仕事はそっちのけで伝道」、そういう考えがあります。けれども、それは聖書の教えではありません。社会において労働し、経済や文化や福祉を、神様から与えられた大事な人間の一面として果たしていく事こそ、キリスト者の職業観、人生観である。そういう反省を込めた学びであったと思います。

 今日で二一章を読み終わります。次の二二章からは、いよいよイエス様の十字架に向けて、最終段階に入るのです。その前のこの箇所は、エルサレムに入城されてからイエス様が、民衆に向かって公に教えられた箇所を締め括っています。そこに描かれているのは、

37さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。

38民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。

 ここには、十字架にかかられる前に、イエス様の周りに教えを聞こうと集まる人々の光景が描かれています[1]。朝早くから。でも、それで一日中、他に何もせずに熱心にイエス様の教えにだけ聞き続けていたのでしょうか。勿論、この時、世界中から「過越の祭」に来ていた巡礼者たちはそういうことも出来たでしょう。しかし、仕事をしていた人もいたでしょうし、巡礼者たちだって、ヒマだったわけではないと思います。むしろ、他にもすることがあるからこそ、朝早くしか時間がなくて、来ていたのではないでしょうか。そして、そこから彼らはイエス様の言葉に励まされ、思いを与えられて、それぞれの仕事や生活へと出て行ったのです。

34あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

という文章は、直接には「あなたがたの心が、この世の放蕩や深酒や煩いのために沈み込んでいることのないように、よく気をつけていなさい」と語っています[2]。「沈み込んでいないよう気をつけなさい」と言われています。この世のこと[3]、生活の様々な物事が全てになってしまって、頭を抱えたり、酔い痴れたり、そこに沈んでいる。仕事の心配や先行きへの計画、良い学校、良い就職、世間体、競争…。そうした事が人生のすべてになってしまい、すっかりそちらにのめり込んでいる。「この世」に「悪酔い」して生きてはならない、という警告なのです[4]

 前の32節や33節でも、この時代は過ぎ去り、天地も滅びると仰っていました。私たちの住んでいる世界、生活、仕事、評判などはいつかは必ずなくなります。それを忘れて、仕事や世間話やTVなどから刷り込まれた価値観に耽溺してしまうことをイエス様は警告してくださいます。そうでないと、イエス様が訪れる日、神の国が現れる時に、突然罠にかかったような思いで迎えることになるでしょう。この世界が終わって、神の国が完全な形で始まる日は、喜ばしい日、待ち遠しい、晴れがましい日なのですね。それを覚えて、目の前の物事と適切な距離を持って生きなさい、とイエス様は言ってくださっています。

35その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。

と言われた事実を頭に置きながら、自分の生活、仕事、勉強に向かうのです。それは決して、今の生活はどうでもいいということではありません。「どうせ最後は滅びるんだ」と、いい加減な気持ちでするのではありません。もし大切でないのなら、神様は私たちにこんな生活をさせないでしょう。世界には、のめり込む危険もありますが、それだけの価値や意味もあるのです。大切な仕事、取り組み甲斐のある営みなのです。それがすべてであるかのように思う事が危険なのであって、ここが私たちの置かれた、大切な「持ち場」なのです。留守を任されたしもべは、ご主人が帰ってくるまで、家の様々な管理、家事、お世話を丁寧に果たします[5]。主人が帰ってくれば、すぐにその家をたたむのだとしても、大切に管理をします。それが今の私たちの歩みです[6]。ですからイエス様は仰いますね。

36しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

 いつも油断せずにいなさい。具体的には、やがて起ころうとする禍すべてから逃れ、人の子の前に立つことが出来るようにと祈りなさい。ただ熱心に祈るという以上に、具体的な祈りの内容も教えられています[7]。でも、今まで、迫害や禍は避けられないと言われていたのですね[8]。ですから、「のがれ」は「そんな目に遭わないように」という意味よりも「これらすべてのことが起きても、絡め取られてしまわないように」という意味でしょう。毎日のこと、この世界の物や生活がすべてであるかのように思っていると、禍が来た時に慌てふためき、絶望してしまうでしょう。しかし、私たちにとって究極のものは、見える世界や仕事のことではありません。最後には、「人の子」、つまり主イエス・キリストの前に立つことです。主の前に立つ、とは、主に仕えることです。私たちの目ざすべき事、願い求めるべき祈りは、やがて主の前に立ち、栄光の主に仕えることです[9]。今の生活をちゃんと働いて、支えられて、心配事なく過ごせるように、という願いも大事です。でも、それがいつまでも続くとかもっと豊かにしなければ、と考えてしまうなら危ないのです。私たちが見つめるべきゴールは、あらゆる禍や私たちの地上の生涯の終わりを経て後に、永遠に主の前に立ち、主に喜びをもってお仕えする時です。そして、今の私たちの仕事も、主の前に立つ者として果たさせて戴くのですね。

 私たちの仕事は、仕事そのものが偶像になってしまう危険もあります。そこに入れ込んでしまって、周りも自分も神も見えなくなってしまうこともあります。しかし、主が私たちに語っておられるのは、私たちの仕事も生活もそこでの苦しみも心配事も、すべてが主の手の中にある現実です。そして、天地が滅びても、私たちは、主の前に立たせて戴き、主に永遠に仕えるという、最高の仕事をさせていただく、という真理です。それは私たちが頑張ったり競争したり評価されるためにする仕事とは全く違います。私たちを愛し、尊い存在として下さる主の、測り知れない恵みによる務めです。キリストの十字架の愛を知る者としての生き甲斐です。そして、今日私たちも、ここで主の恵みを戴いて、それぞれの場所へと派遣されていくのです[10]

 毎日の生活に振り回され、悩み、空しさを覚え、仕事での評価に一喜一憂したりします。主は私たちに、仕事を神としないこと、天地の造り主だけを礼拝することを今日も思い出させてくださいます。そしてその神が私たちに、今の生活を任せてくださいました。生活と信仰、仕事と礼拝を切り離してはなりません。生活のすべてを、主の前にあって果たしていくのが神の召しです。仕事、学業や主婦業、あるいは病気の治療など、主に委ねられた歩みは一人一人違います。でも、どれも主の前に価値ある務めです。励まされ、誇りをもって出て行きましょう。

 

「あらゆる禍が降りかかっても恐れ惑わず、あなた様の前に立つ喜びを見据える者とならせてください。生活のことで思い悩み、仕事を生き甲斐にしやすい私たちを、あなた様は、その虚しさに気づかせて、あなたに向き直らせてくださいます。主に仕える幸いで一人一人を満たしてください。その幸いを祈り求めて集まっている私たちを、祝福して、お遣わしください」



[1] イエス様が、夜オリーブ山で過ごされたときは、同じ場所で祈っておられたことは、二二章の39、40節から分かります。そして、民衆が朝早くから集まって来たというのですから、当然イエス様も、朝から宮に来ておられたのです。夜は祈り、朝にはもう宮に来て民衆を教える、という毎日でした。

[2] 新共同訳「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」

[3] 「この世」はⅠコリント六3、4とここだけの「この世のこと」の意。

[4] 「放蕩」とは十五章の「放蕩息子」の言葉とは違い、お酒を飲み過ぎて目眩(めまい)や頭痛がしている状態です。

[5] Ⅰテサロニケ五2-6「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。3人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。4しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。6ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」

[6] ルカは、すでにこの事を述べていました。十二42-48「主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。43主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。44わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。45ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、46しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。47主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。48しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」

[7] この「祈り」は、一般的な「祈祷」ではなく、「求める」「祈願する」という言葉です。

[8] 9節「それは、初めに必ず起こることです。」、12節「しかし、これらすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。」、16節「しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、17わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」などなど。

[9] 「主の前に立つ」とは、「誘惑をくぐり抜けて、何とか天国にゴールインして、ゴールテープの向こうの表彰台で主の前に立ち、勝利の冠をもらう」というような光景だというイメージがあるかもしれませんが、そうではないのです。

[10] イエス様は、私たちを、そのような生き甲斐に生かしてくださいます。教えられ、警告されただけではありません。そのために祈ってくださいました。そして、そのために、ご自身のいのちを捧げてくださいました。その主の御業によって、私たちは今、ここに生かされています。

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