聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問43、44「あなたの神となってくださる」

2015-04-19 22:15:02 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/04/19 ウェストミンスター小教理問答43、44「あなたの神となってくださる」

ヨシュア記24章16~18節

 

 神様は、私たちに、どのように生きればよいのかを教えてくださっています。それが、今までお話しして来た、「道徳律法」を通して、神様の御心を教えてくださった、ということになります。そして、その「道徳律法」をまとめたもの、要約したのが「十戒」です。そして、さらにその「十戒」を要約したのが、「神を愛し、隣人を愛する」ということだと、前回お話ししました。

 では、その十戒で、神様は私たちにどのような生き方を示してくださるのでしょうか。私たちが何をすれば、神様は喜ばれるのでしょうか。どうしなさいと仰るのでしょうか。

 ところが、十戒は、いきなり「何々をしなさい」と命じる前に、まず「序文」というものをお語りになるのですね。

問 十戒の序文は、何ですか。

答 十戒の序文は、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」という言葉で述べられています。

問 十戒の序文は、私たちに何を教えていますか。

答 十戒の序文は、私たちに、神は主であり、私たちの神また贖い主であられるので、それゆえに私たちは神のすべての戒めを守らなければならない、ということを教えています。

 神様はまずここで「名乗り」を上げられるのですね。ご自分が何者か、また、ご自分と私たちとの間柄が、どんな関係であるかを宣言されるのです。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」と仰るのです。そこから、他の神々を拝んではならないとか、偶像を造ってはならない、などなどのことが語られていくのです。もちろん、神様以外のものを神としない、ということも、人を殺したり裏切ったりダマしたりしない、ということも、どちらも教会に来ている人だけの義務ではなく、人類全員の当然の義務です。教会に行っていないから偶像崇拝をしてもいいとか、人を傷つけても怒られない、なんてことはありませんね。けれども、神様は、みんなのアタリマエのことを言うのではなく、私たちとは特別な関係にあります。それは、神様が私たちを救い出してくださった、という出来事に基づいています。神様は、昔はイスラエル人を奴隷として働かされていたエジプトから連れ出してくださいました。そして、後には、イエス様の十字架の死と復活とによって、教会を、罪の奴隷生活から救い出してくださいました。その出来事によって、神様は、私たちと特別な関係になりました。つまり、「わたしは、…あなたの神、主である」と言われる、特別な関係です。神様はおひとりだけですし、他の神は存在しませんが、神様は、特に私たちに対しては、「わたしは、あなたの神、主である」と仰ってくださっています。これは、とても恐れ多い、特別な出来事です。

 「主」というのは、神様のお名前です。神様の名前だけに、ここにはいろいろな意味が含まれているのですけど、神様は「なろうとするものになれる」お方だ、という含みがあるのだそうです。

英語だと、I am who I am と言われますが、その who I am …. の後に、何かをつけるのが自然なのだそうです。

神様は、何にでもなれるお方です。「わたしは、世界の王である」「わたしは、悪を滅ぼす審判者である」「わたしは、○○」…皆さんなら、神様をどんなお方だと表現するでしょうか。

神様は、ご自分で、いろいろなふさわしい宣言を選ぶことも出来たのに、その中から、なんと「わたしは、あなたの神、主である」と仰ることを選ばれたのですね。

いいですか。神様は、「あなたの神/私の神」となることを選んでくださったのです。すごいことではないでしょうか。そして、神様は、人間が真面目に正しく生きられたら、「あなたの神」になってあげるけれど、あんまり上手く出来ないようなら、止めることもあるからね、などとは仰いません。神様が、ご自分で、私たちの神になると決めて、奴隷の家から連れ出し、イエス様を送ってくださいました。それによって、私たちとの関係を結んでくださったのですから、これから何があっても、決して私たちを離れたり見捨てたり忘れたりせずに、私たちの神で居続けてくださるのですね。そして、そういう「私たちの神」として、私たちが生きるべき道を示したり、命じたりする権威も持っておいでなのです。

 神様に縛られるのは不自由だなぁと感じるでしょうか。窮屈だなぁと思いますか。そう思ったら、神様が、私たちを奴隷から救い出してくださり、罪から救い出してくださった、本当に善いお方、素晴らしい、愛の神様である事を思い出しましょう。悪い神とか冷たい神ではないのです。神様は、一点の曇りもない、素晴らしい神様です。その神様が私たちに語っておられる十戒は、私たちを悪い思いや間違った生き方から自由にしてくれるのです。例えば、「何にも縛られたくない。完全に自由になりたい。世界も宇宙も、自分の支配下に置きたい」と思っている人がいたとしたら、どうでしょう? その人は「自由だ、完全な自由だ」と言っているつもりで、実は「支配欲」とか「わがまま」という思いの奴隷になっているのですね。悪い心を神様としてしまっているのです。そんなものよりも、本当に素晴らしく、正しい、真理の神様に神になっていただいたほうがいいに決まっています。そして、主なる神様が私たちの神となってくださったことを言い換えると、私たちは「主の民」という所から、スタートして生きていくのです。

 神様がこうご自分の名乗りを上げて十戒を語り出されたように、私たちは自分が何者かを知ることが、神様の御心に生き始める第一歩になります。神様の御心を正しく行ったら、神様の子どもになれる、クリスチャンになれる、救って戴ける、という順番ではありません。まず、「神様が、私を救ってくださいましたから、私は、主の民です」と応えることから始まるのです。皆さんは「あなたは何者ですか」と聞かれたら、何と応えますか。「私は神様の民です」、あるいは「神様の子どもです」「神に愛されている者です」「イエス様の弟子です」。そう言えるでしょうか。イエス様が十字架にかかり、よみがえってくださって、聖霊が私たちにこの信仰と救いを届けてくださいました。ですから、どうぞ遠慮せずに、言わせていただきましょう。「神様が私の神です。私は主の民です。神様だけが私の主です。私は、神様に愛されている者です」と言いましょう。

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ルカの福音書二一章29~33節「夏は近い」

2015-04-19 22:09:38 | ルカ

2015/4/19 ルカの福音書二一章29~33節「夏は近い」

 

 皆さんは、「夏は近い」と聞いて、どんな思いをされるでしょうか。「暑くて嫌だな」と思う方もいるでしょうが、今日の所でイエス様が仰っている、

29…「いちじくの木や、すべての木を見なさい。

30木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。

という言葉からすると、無花果(いちじく)や果物、身近な所だと梨や桃、美味しい実りの夏を思って、楽しみな思いにさせたいのではないでしょうか。無花果はユダヤでは生活に欠かせない果物であり、日本では考えられないほどの大樹となって町に木陰と美味しい実りを運んでくれます。しかし、冬の間の数ヶ月は葉も実も落ちるのだそうです[1]。その寂しい時期の終わりを告げるのが、無花果の「木の芽」だったとすると、それはただ「暑い夏」だけでなく「美味しい夏」「嬉しい夏」「楽しみな夏」の訪れを告げたのでしょう。

 イエス様は、そのように無花果やあらゆる木を見て夏の近いのを知ることを思い出させ、

31そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。

と言われます。「これらのこと」というのは、二一章の最初から言われてきたように、偽メシアや戦争や大地震や、様々な災厄や迫害です。そうしたものが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい、というのです。でも誤解しないで戴きたいのですが、大災害を見たら、まもなく世の終わりが来る、という意味ではないのですね。一つには、今申しましたように、夏が近いことは、「覚悟しろ」「諦めろ」というのではないのと同じように、「神の国は近い」のは喜ばしいことです。「世の終わり」「すべての崩壊」が近いという絶望ではなく、素晴らしい「神の国」が近いなら、喜び、希望、期待がふさわしいのです。28節でも言われていました。

28これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。

 うなだれていた背筋を伸ばし、顔を上げる。そのような前向きな姿勢をイエス様は促されました。その姿勢を励ますために、今日の所では「たとえ」を話されたのです。これは、二一章の最初から繰り返してきたことですが、イエス様は、やがてこの世界が終わることを断言しつつ、それがいつなのかを知ろうとか、その前には前兆めいた出来事があるはずだ、という当時の人々の考えを覆されます。天変地異や困難な出来事があると、「世界の終わりが近いに違いない」と言うのが人間は大好きですが、イエス様はそれは違うと仰います。今日の所で、イエス様が「神の国は近いと知りなさい」と仰ったのも、もうすぐ神の国が来る、という時間的な「近さ」ではないはずです。そもそもイエス様がこう仰ってから二千年近くの間に、様々な天変地異や戦争や大迫害、殉教があっても、まだ世は終わっていません。それを考えても、この「近い」というのは、いつ来てもおかしくないほど、私たちのそばに来ている、という「近さ」です。世の終わり自体は、一分後かもしれないし、一万年後かも知れませんが、どちらでも関係ないくらい、私たちのすぐそばに神の国は来ている。そう思いなさい、と言われたのです。

 マタイやマルコにもある「いちじくの木を見なさい」という言葉に、ルカは「すべての木を」と付け加えています。ルカの読者には、いちじくがあまり身近でない地方の人々もいたからでしょうか。無花果だけではなく、あらゆる木に神の国のヒントはあるのだとイエス様は仰っています。面白い喩えだと思います。私たちが考えがちなのは、果物が不作だとか、自然界の営みに異常が起きると、「何かの前兆に違いない」という恐れや不安です。しかし、イエス様は、異常事態よりもむしろ、春にはすべての木が芽吹いていること、野には花が咲き、空には雀(すずめ)や烏(からす)が飛び、夜には数え切れないほどの星が天を埋め尽くしている、その様子を「見なさい」と仰います[2]。自然の、何の変哲もないような営みに、神の国の近さを見て取れと仰るのです。それは、恐れたり怯えたり、何とかして先回りして避けられないかとその時を知ろう、という態度とは全く違います。神の国が完全に現れるのがいつであろうとも、今もうすでに、私たちのそば近くに、神の国は来ている。イエス様の御支配が始まっている。無花果も百合も、梨も西瓜も、雀も、月や星も、すべてを治めている神が、私をも養い、導き、愛してくださっている。その事に気づくなら、天地が揺れ動こうと、人生に思いがけない災難が降りかかろうと、いつかは必ず訪れる地上の生涯の終わりが来ても、恐れる必要はないし、委ねて行けるのです。

 ですから、この言葉はこう続きますね。

32まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

33この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 「神の国は」ではなくて、「わたしのことばは決して滅びることがありません」と仰るのですね。イエス様がお話しになる言葉が、ただの言葉や知恵や道徳なんかでは全くなくて、決して滅びることのないリアリティをもった真理、事実、支配なのだと仰るのです[3]。以前も、

十七20さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

21『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

 いつかどこかで始まる時になったら、慌てて準備をしよう、というものではない。今、私たちのただ中に、私たちの関わりの中に、イエス様が来られて、神の国を始める。それがイエス様の御心です。私たちが今この生涯において、神様の御言葉に聴く幸せ、語っていてくださる神への信頼を、味わい知っていくこと。自分の思い通りにしたいという支配を手放し、神様ならぬものを神のようにして縋(すが)り付くことを止めること。自分を守る生き方から、神の恵みへの信頼から自分を手放し、与え、他の人にも手を開いて、ともに歩むようになること。そうしたことをイエス様は語ってくださったのですね。これを思想だとか理想論だと思っていたら間違いなのです。このイエス様の言葉こそは、この天地が滅びた後にも、永遠に栄える「神の国」を私たちの中にもたらしている言葉なのです。

 そのイエス様の、恵みの御国を私たちが信頼して、今歩み続けたいと思います。

32…すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

と言われました。この時代においては、まだまだ様々にあらゆる出来事が起こるでしょう。御言葉を知らなければ、絶望したくなるようなことも起きるでしょう。天地も滅びるのです。しかし、イエス様の言葉は滅びることがありません。いいえ、滅びないというだけでなく、生きて働いて、私たちを励まし、慰め、強め、育ててくれる御言葉です[4]。私たちは「木の芽」です。まだ小さくても、確かに神の国の訪れを告げ知らせる存在として、遣わされていくのです。

* 今日はここで「国際飢餓対策機構」の働きの証しを紹介しました。 

「主よ。夏よりも、死よりも、何よりも確実に、神の国は私たちの近くにあります。主が私たちを治めておられます。その愛の言葉だけが私たちを生かします。その恵みの言葉によって、あなたは私たちに、平安と喜びを下さいます。すべての人が集まり、喜び合い、赦しと励ましを戴いて、神の国がささやかにでも、今ここに始まっていることを、味わい知らせてください」



[1] 『ビジュアル聖書百科』より。

[2] 「見なさい」は、ルカに頻出します。二48、七25、十三35、二四39(十二54)

[3] これと似た言い方は、十六37でも言われていました。「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです」。ここでは「律法」、すなわち、神が聖書において宣言されていた、聖なる御心です。ユダヤ人にとっては神聖不可侵とされた律法です。イエスは、ご自分の言葉が「律法」と等しいとされた。いや、主イエスこそは「律法」の宣言者であり、その口から出て来るものが律法なのだ、という発言です。

[4] この言葉は、旧約から一貫している「神の言葉の永遠性」を継承しています。イザヤ書四〇6では「「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に堅く立つ。」とあります。この神の言葉の「永遠性」「不変性」は、しかし、静的なものではありません。同じイザヤ書四〇28以下で「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。29疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。30若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」という、高らかな宣言に至るような「ことば」なのです。

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