聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問42「神を愛し、人を愛せよ」 マタイ二二章34~40節

2015-04-12 20:29:14 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/04/12 ウェストミンスター小教理問答42「神を愛し、人を愛せよ」 マタイ二二章34~40節

 

 先週はイースターを挟みましたので、またウェストミンスター小教理問答に戻ります。前回は、十戒は窮屈な戒めのようだけれども、実は、私たちが色々と思い込んで、縛られている、この世界の「こうしなければ行けない」「こうしなければ幸せにはなれない」という考えの方がたくさんある。神様からの十戒は、私たちをそうした縛り付けから、本当の意味で解放してくれる、自由の言葉なのだ、というお話しをしました。今日は、その続きで、更に十戒の素晴らしさを、ご一緒に知っていきたいと思います。

ウェストミンスター小教理問答42 問 十戒の要約は、何ですか。

答 十戒の要約は、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、私たちの神である主を愛することと、隣人を自分自身のように愛することです。

 これは、今読みましたマタイの二二章34~39節で、イエス様が仰った言葉の通りです。律法の専門家が、イエス様に尋ねました。

36「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

38これがたいせつな第一の戒めです。

39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 律法、つまり、聖書全体が、この二つの戒めにかかっている、というくらい、大切な戒め、要約が、神を愛し、人を愛する、という愛の戒めです。ですから、十戒の規定の根底に流れているのも、この二つの愛の戒めです。キリスト教は「愛の宗教」と言われる通り、愛の言葉、愛の教え、愛しなさいという命令と、それを具体的に言い表した教えで満ちています。一つ一つが、大切で素晴らしい、愛についての御言葉が、沢山あります。その全部をお話ししたら、いくら時間があっても足りません。ですから、今日は神様が人間に与えられた御心が、この二つの愛の命令であったことに絞りましょう。

 神様は、人間に、ご自分を愛することと、お互いに愛し合うこととを求められました。それは、人間をお造りになった最初から、神様が人間に与えられた命令でした。つまり、神様は、人間を、愛に生きる存在として創造されたのです。聖書には、「神は愛です」という言葉があります。神ご自身が、三位一体の永遠の交わりの中で、互いに愛し合っておられる、愛の神です。その神は、愛を本質とされますから、神の御業はすべて愛に根差しています。愛よりも他の何かを目的とすることなど神にはあり得ません。ですから、人間を作られたときも、神様が一番考えておられたのは、愛です。人間を、愛をもって作られたのですし、人間も愛する存在としてお造りになりました。神様から愛をいただいて、考えることも、することも、話す言葉も、愛の考え、愛のわざ、愛の言葉であるようにと、人間をお造りになったのです。

 けれども、人間は、その神様との関係に背を向けてしまいました。人を想う、愛の心から、自己中心の罪の心になってしまいました。神の御心を行うことなど出来なくなってしまいました。

けれども、そういう私たちをも、神様は愛してくださり、イエス様の十字架と復活のみわざを通して、私たちの救いを果たしてくださったのです。そして、救われて、神様の御心に回復された者として、私たちには改めて、「神を愛し、互いに愛し合いなさい」という命令が宣言されているのです。

 ところが、ここで間違いやすいのです。愛しなさい、と言われて、私たちは何をするでしょうか。親切にしよう、困っている人を助けようとか、どんな人にも優しくしよう、とします。それは悪くはないでしょう。でも、神様が求めておられるのは、そういう「立派な行い」なのでしょうか。実は、神様が私たちに求めておられるのは、もっと深いものなのです。

 私たちが自分なりに努力して、人を助けたり優しい言葉をかけたりすることも出来るでしょう。あるいは、そういうことがしたいけれども、何かあると自分のことばかりを考えたり、嘘や恥ずかしい行動を取ったりしてしまう、ということもあります。でも、神様は、表に見える仕草や行動、言葉、また、心に涌き上がってくる思いよりも、もっと深い所を見ておられます。誰でも、自分をよく見せようと想います。愛がある人、親切な人だと思われたい気持ちは殆どの人が持っています。でも、そう見られたい気持ちに隠して、もっと深い所に、自分勝手な心があるのではないでしょうか。

 「愛しなさい」と言われています。でもそれは、とんでもなく難しいこと、不可能なことです。愛そうとすると、悲しいほど愛せない自分に気づかなければ嘘です。愛する自分になりたい気持ちはあるのですが、心を少しめくれば、自分が一番可愛いと思っているのが、正直な現実です。ですから、「神を愛し、人を愛する」とは、神様が私たちに、優しい生き方をすることを求めておられるという以上のことです。まず、神様が私たちを深く愛して、私たちの心に愛を満たしてくださるのでなければ、私たちが神様を愛することも、互いに愛し合うことも、絶対に出来ません。ですから、これは、神様が私たちの心の中まで変えてくださる、という約束なのです。

「心の底に、わがままな思いを抱えたまま、神様に誉めてもらえるような生き方を頑張ってやってやろう」-そういうことではありません。私たちの心の底に、神様の愛をいただくのです。主イエス様が私たちのために十字架にかかるほど、私たちを愛し、私たちを神様の子どもとして下さった、確かな約束が先にあります。その、本当に大きな愛によって、私たちの生き方、そのものが変えられて行くのです。それが、神様の、私たちに対するご計画です。

 自分の力で神を愛し、人を愛する、ということではありません。私たちと神様との関係が、十字架により、神様からの豊かな愛の関係に回復されたのです。それを今、私たちは学び始めて、心や生き方も変えられて行く途中にあります。神様はそのために、私たちを礼拝、聖書や祈り、家庭や仕事、人間関係を通して、教え、育ててくださいます。一生かけ、じっくりと、成長させようとしてくださっています。なぜなら、本当に愛に根差して生きるようになることが、私たちに対する神の一番大切な御心だからです。

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申命記七章「主があなたがたを愛されたから」

2015-04-12 20:23:48 | 申命記

2015/04/12 申命記七章「主があなたがたを愛されたから」

 

 先週はイースターでした。主イエス・キリストの復活は「最大の奇蹟」です。今も私たちに主イエスは近づいてくださって、信仰と新しいいのちを与えてくださいます。けれども、それほどの出来事を知らされて信じて、神様の深い憐れみに深い感動を覚えて洗礼を受け、神の民として歩み始めても、その後の歩みでは、小さな事で信仰から外れかねないのが私たちです。

 この申命記という聖書の書物は、まさしくそういう私たちのために書かれた本です。イスラエルの民は、エジプトの奴隷生活から、たくさんの奇蹟によって救い出されました。シナイ山で神の栄光を目の当たりにしながら、神との契約を結ぶ体験をしました。神に逆らったために四十年間荒野を彷徨いましたけれども、でもその間にもたくさんの恵みで養われ、いつも主がともにいてくださいました。そして、約束されていた地に入ろうとしています。これだけ十分な、十分すぎるぐらいの体験をしてきても、新しい生活、人生の新しい段階、今まで体験したことのない出来事、他民族との出会い、子どもたちが結婚適齢期になる[1]、収穫の時期、病気…。そして、自分たち自身が老いていくこと。この章だけでも、それだけのことがあります。人生の旅路の曲がり角や分かれ道に行き当たるたびに、唯一の神である主から離れず、その素晴らしい御業を思い出すよう励まされることが必要です。主への信頼に帰り、御言葉に従うよう、信仰を新たにすることが絶えず必要な私なのだ、と確認させてもらえるのです。

 とはいえ、今日の所には「聖絶」ということが出て来て、こちらの方に引っかかりを覚えるかも知れません。七つの民を徹底的に打ち滅ぼして、女子どもも家畜も財産も、すべてを亡き者にする、という命令です。どうしてこんな残虐なことが出来たのでしょうか。これに対してはいくつもの答があります。それを詳しくお話しすると大変ですが、いくつかも説明があること自体が、ある意味では私たちの理解を超えている、三千五百年前と現代との隔たりだけを考えても、説明のつけがたいことだ、という慎みを忘れてはならないと思います[2]

 しかし、見落とされがちなことですが、この言葉は結局殆ど実行されませんでした。それも「人道的な理由」からではなく、財産を惜しんで、だったのですが、イスラエルの民は聖絶を途中で止めてしまい、カナンの地の人々と契約を結び、息子娘同士を結婚させていきます。そしてその時に主は、「なんとしてでも聖絶を実行しなさい」と繰り返し命じはされません。

「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」[3]

 つまり、敵を聖絶することが目的ではなかったのです[4]。大事なのは、イスラエルの民が、徹底的に主だけを恐れ、主の真実に応え続けて主の御心を行うことでした。取引や商売、病気や不作、そういう時に、外から手招きする声に流されそうになっても、主の命令に背くことはしない。何とかしてそう学ばせ、味わい知らせて、成長させることが主の願いなのです。

 6あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。

 7主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。

 8しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

 しかし、ここで思い出すのは、その主の命令が破られ続けたという現実です。ノアやイサクやヤコブも息子たちに異教徒との結婚を許し、ソロモンや多くの王たちも異教徒の妻を迎え、偶像礼拝に妥協してきました。ですから、12節から16節に書かれているような、豊かな祝福の報いは日の目を見たことがないのです[5]。人は、祝福を信じ切れず、自分の思いで世間や人の声に流されて、神ならぬものを頼り、幸せになれるんじゃないかと思いたがる。そういう失敗を繰り返す人間を、主が憐れみ、導き、神に従うことを教えて来てくださったことを、聖書は語っています。あの「放蕩息子」は、父の財産を譲り受けながら、それを贅沢三昧で遊び使って幸せになろうとしました。しかし、最後はどうなりましたか。素寒貧(すかんぴん)になっての、惨めな帰宅でした。すっかり打ちのめされて帰って来たのです。しかし、その変わり果てて、持たせたものを一切失った息子を、父親はどうしましたか。走り寄って受け入れてくれたのですね。

 ですから決して、御心に従わなくてもいいのではありません。「放蕩しても帰って来れば良いんだから、たまには遊んでこよう。最後は神様が何とかして下さる」と思ったら大間違いです。自分が神様に背くなら、その報いは自分が手ひどく引き受けるのです。そんな無駄をするには、人生は短すぎます。神から離れるなら苦々しい思いしか残さないし、その失態をなかったことには出来ず、刈り取りは一生ついて回るのです。こう言われています。

ローマ十二2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 天地を作られた神、その神の数々の御業-出エジプトや聖書の奇蹟、そして主イエス様の十字架と復活-を知らされて信じ、本当に私たちを限りなく憐れみ、愛し、恵んで下さる主を信じました。でも、それでもなお、私たちの心の底には、この神様を信じるよりも、世間の声、偶像の声、神のように語る様々な声が唸(うな)り続けています。私たちを愛したもう、真実な神よりも、もっと自分の直感とか感覚に信頼をおいて流されてしまったりします。目の前の出来事がすべてに見えて、御言葉が当てにならないように思うのです。祝福は主が下さったのだという事実を忘れてしまうのです[6]。しかし、その私たちの感覚とか思い込みの方がよっぽど当てにならないのです[7]。その現実を知り、私たち以上に大きく、真実で、嘘も間違いも失敗も絶対にない方、十字架にかかりよみがえってくださった主を信じ、そのお方だけが私たちを祝福してくださるのだと、「心を一新する」のです。主の御言葉に従うことが、戦いのようでも、確かに無駄ではないのだと「心を一新」するのです。

 人と調子を合わせず、この暗い時代に希望を持ち、綺麗事ではなく罪の現実を見据え、神の愛と赦しに生きましょう。いい縁談を逃しても、宗教行事に参加しないために損をしても、主の恵みを信じて、蟠(わだかま)りなく歩みましょう。そして、どんな人とも好き嫌いを超えて、分け隔てなく関わり、教会でも家庭でもどこででも裏表のない生き方をさせていただきましょう[8]

 

「聖なる主よ。この世界も私たちも、みなあなた様のものです。その主に私たちが深い信頼をもって従えるよう、私たちの心を変えてください。あなた様の偉大さ、約束、聖なる御心、十字架とよみがえりのいのちをもって、私たちの人生を支配してください。偽りの希望や目の前のまやかしよりも強く真実な御力への確信により、地上でなお続く戦いを勝利させてください」



[1] ここに書かれているように、当時の結婚は、恋愛や当人同士という以上に、親・家のためでした。親にとっての計算、思惑、両家の繁栄が、信仰的であり神第一か、それとも人間的で利得第一か、を問われるのです。人間の自己中心は、何よりも家庭においてその本心を表します。社会的には隠していても、家庭においてはその根本的な願望はあらわれます。それゆえ、聖書の物語では、子育ての失敗例が圧倒的です。現代は、家父長制は崩壊して、核家族化しましたが、それでも親が家庭を支配しようとしてしまう傾向は変わりません。むしろ、伝統的な家父長制が基盤を失ったために、自分のアイデンティティの不安が、子離れできない親の姿に現れています。未信者との結婚は、相手を信仰に導くため、とも言われますが、主の民は、唯一の神である主をあかしすべき民なのであって、その神を結婚より後回しに引き下ろすような安易な妥協があるとしたら、それは「証し」どころか、むしろ逆効果です。(というより、大抵は、言い訳でしかないが)。

[2] 例えば、これは旧約の初期だけのものであって、聖書全体を支配していない、ということも言われます。しかし、新約でも、主イエスは「最後の審判」を厳粛に語られますし、「ヨハネの黙示録」だけでなく多くの書簡にも審判と、悪人の永劫の苦しみという表現はあります。あるいは、こうした事実そのものが、現実ではなく文学だった、という解釈もあります。ただ、私見としては、以下のような論点が有効ではないかと思います。今から3500年も前の感覚は現代とは違いました。他民族を滅ぼすことは当たり前、という価値観で、「人権」とか「いのちの尊厳」などという考えはなかった時代性も大きいでしょう。イスラエルの周囲の国も(また、最近までの多くの戦争や、日本での歴史を辿っても)自分たちの敵を、容赦なく滅ぼし尽くすのが当然だったのです。彼らは「イスラエルはなんて残虐な民なんだ」と非難はしませんでした。それは当たり前だったからです。しかし、小さなイスラエルが多くの国に戦いを挑み、勝ったことに、脅威を感じ、そこに神の働きを見て、和平を結んでイスラエルの宗教を受け入れる民はあったのですね。主はこの時代の、現代から見ると「暴力的」な文化の中で、略奪のためではない「聖絶」という方法を命じました。当時の人々は、それに人道的な理由で反対することはありませんでした。むしろ、自分たちが略奪できないことに不満を感じただけです。主の命令は、現代の私たちが感じるのとは違う意味で、当時の人々にとってはショッキングな命令でした。この異邦の民は、残虐な文化を持っており、子どもを生け贄として焼き殺して捧げ、相手を問わない近親相姦もしていました。それでも神様は、四百年忍耐をしておられたのです。そういう残酷な国家に対して、弱小なイスラエルが戦いを挑むことは、それ自体が無謀な挑戦だったのです。
 その後の歴史を経て、だんだん聖書は平和についてのビジョンを持つようになります。そして、最終的にはイエス様において、敵を赦し、武器を持たない、という絶対平和主義が打ち出されます。それもまた、当時の人々にとっては大変ショッキングな思想だったのです。少なくとも、ここから戦争を正当化したり、アメリカやイスラエルが圧倒的な軍事力でどこかの国を潰すことを「聖戦」と呼んだりすることは出来ません。

[3] 士師記二20~23。また、同じく士師記二3も。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる」

[4] 22節で、すぐには滅ぼされない理由が「野の獣が増してあなたを襲うことがないため」と、彼らの存在によって、神の民が守られている、という面を謙虚に・現実的に認める。現代も、非キリスト者の存在によって、教会が守られているという面は、積極的に直視されるべきだろう。追い払い、根絶やしにしようなどと考える必要はない。それでも、注意しすぎるぐらいが丁度良いほど、悪影響を受ける面も警戒する必要はある。

[5] この「祝福のリスト」をそのまま適用するなら、今、私たちに、祝福や子宝がないことや、病気がある事は、不信仰の呪いになります。しかし、新約はもっと苦難や痛みに対して、違う視点を教えます。そうであるとすると、ここに書かれているMessageそのものを、読む読み方も違わなければいけないでしょう。

[6] 祝福してくださるのは、主だけだ、と信じ続ける戦い。祝福があったとしたら、それは、バアルやアシェラ、お金や豊かさ、日本や親、恋人や子どもではない。神である主。私たちが小さくても、愚かでも、不信仰でも、何度失敗しても、なお見捨てず、愛し、祝福してくださるのはこの神だけだと、固く信じ続ける戦い。13節の「産物、穀物、ぶどう酒、油」をホセア書二章7-9節は繰り返して訴えることになります。ホセア書は、まさしく異教礼拝にイスラエルの民が大きく傾き、「姦淫の女」と呼ばれるような時代の預言書です。

[7] 現代は現代で、新しいチャレンジがあります。特に、感覚が偶像化されています。直感とか、楽しい、嫌だ、面白い、気持ちいい、そういう感覚こそが何よりも大事にされています。また、体が偶像化されています。神のものであり、キリストに贖われ、御霊が住まう宮、御栄えを現すための体であるとは考えず、自分のものとして捕らわれ、健康を過度に重視したり、老いたりすることや死を毛嫌いして避けようとしています。また、「自分を信じる」という言い方も、現代の特徴のようです。確かに健全な自信は必要です。でも、自分の直感や判断を信じるということは危険です。多くの犯罪者、スキャンダル、大惨事を起こした人たちは、まさに自分を信じてあのような行動に踏み切ったのではないでしょうか。

[8] 「聖絶」が「彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない(5節)」ということであれば、現代の私たちに置き換えるなら、このような行為となって、現代の自己称賛的な文化を引っ繰り返すべきではないでしょうか。かつての聖戦について批判する以上に、現代において積極的・「攻撃」的な証しをすることが求められているはずです。

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