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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/11/21 第一サムエル記1章「ハンナのいのり」こども聖書㊱

2021-11-20 12:33:00 | こども聖書
2021/11/21 第一サムエル記1章「ハンナのいのり」こども聖書㊱

 今日から「サムエル記」に入ります。第一と第二、二部に分かれて、全部で54章。実は続きの「列王記」の第一と第二も、元々はサムエル記とセットだったので、全部で101章、245頁にもなる、壮大なイスラエルの歴史が描かれます。時代にして、七百年にもわたる歴史には、実に様々なことが起こります。でもその最初に出て来るのは、今日のハンナという女性。夫はいても子どもがいませんでした。子どもがいないことは今よりもずっと辛く、跡取りを産めない、社会的に肩身の狭いことでした。

10ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。11そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」

 せっかく子どもを授かっても、その子を主にお返ししてしまうなら元も子もないじゃないでしょうか。ハンナにとって、子を授かれない以上に、神が自分の苦しみをご覧になっているだろうか、私を心に留めて、忘れずにいるんだろうか、という深い疑いがあったのでしょうか。ハンナは泣きながら祈っていました。泣くほど辛い。でも何を祈っているかは恥ずかしくて、誰にも聞かれたくなかった。唇だけが動いて、声は出さない祈りでした。それを見た祭司エリは、酔っ払った女だと思ってしまいます。

14エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

 祈りは、普通、声に出すものだったようです。声に出さない黙祷というのは、聖書ではこのハンナの祈りだけです。皆さんは、声に出して祈っていますか。祈りを声に出すのと、どうしても人に聴かれたくない時は別にして、普段は声に出して「神さま」と祈るのとでは、大きく違います。そして、声に出す方が祈りの幸いを体感できます。それが聖書の祈り方なのです。でも、この時のハンナはそれさえ出来ませんでした。

15ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、心を注ぎ出していたのです。16このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」
17エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

 この言葉を聴いて、ハンナは帰って行きます。主の前で祈ったからか、祭司の言葉で元気をもらったか、不思議にハンナの顔は変わり、涙がなくなっていました。

20年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

 本当に嬉しかったでしょうね。サムエルとは神(エル)と「聴く(シュマー)」を合わせた名前です。私の願いを、神が聴いてくださった、という喜びが込められています。そして、サムエルが乳離れをするまで、一緒に過ごして大切に大切に育てました。一年か二年でしょうか、そうしてサムエルが乳離れしたら、ハンナは遂に約束通り、まだ幼いサムエルを、たくさんの捧げ物と一緒にあの祭司のいた場所に連れて行きました。

26ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。27この子のことも、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。28それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」
こうして彼らはそこで主を礼拝した。

 こうして、主がハンナの祈りに答えてくださった印として、サムエルが祭司の家に仕え、大きくなっていきます。お母さんハンナはとてもさびしかったと思いますが、決してサムエルと別れたのではありません。その後も、毎年サムエルを訪ねています。

2:19彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。

 そして、祭司エリも神さまも、ハンナたちを祝福して送り出したのです。



 今の私たちには、幼い子どもと別れるようなことをお母さんがするというのは、よく分からない感覚です。でも、この時のハンナはそれをしました。あの泣いて、声も出せずに祈って、酔っ払っているとたしなめられたハンナが、主に授けられ、また主に献げられた子どもサムエル。そこからサムエル記が始まります。サムエルはやがてイスラエルを導く指導者になります。神さまのなさることは、いつも不思議で、人間の常識や予想を超えています。そして、それこそサムエル記の、そして、サムエル記だけでなく、聖書全体の大事なメッセージです。サムエル記2章には、ハンナの長い祈りが記されています。

2:1ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。…4勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。5満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。

 ここまでのイサクやヤコブ、サムソンも、神の憐れみで誕生した人々でした。人が無力と蔑む所に神は働いて、人の思い上がりを砕かれます。
 何より、このハンナの歌をなぞった歌が、クリスマスの「マリアの賛歌」です。ルカの福音書1章46~55節。

私のたましいは主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をたたえます。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
その御名は聖なるもの、
主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
主のあわれみは、代々にわたって 主を恐れる者に及びます。
主はその御腕で力強いわざを行い、
心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
権力のある者を王位から引き降ろし、 
低い者を高く引き上げられました。
飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせずに追い返されました。
主はあわれみを忘れずに、
そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
私たちの父祖たちに語られたとおり、 
アブラハムとその子孫に対する あわれみを いつまでも忘れずに。

 救い主が乙女マリアの胎に宿ったこと、貧しい田舎者となり、罪人や卑しい人の友となったこと、最低の殺され方、十字架の死が、私たちの救いの希望となったこと。本当に神は、低い者を引き上げ、小さな者を通して尊いことをなさるお方です。
 子宝とか、能力や力があるとか、すべては神からの贈り物です。それがない人も神の前には貴いことに変わりありません。それを忘れやすい人間は、神が低い人と強い人を逆転される業を通して、自分たちが神ではなく、神が私たちを、すべての人を生かし、愛しておられることに気づかされるのです。
 だからハンナが、神を褒め称えて子を献げたように、私たちも神の恵みの力を信頼しましょう。

「主よ、ハンナに応えられたあなたが、今も世界を治めて導いておられます。小さな人、出来ない人、弱い人が蔑まれ、惨めな思いをさせられる社会で、あなたはその涙の祈りを聞いておられます。どうぞ、私たちにもあなたへの祈りを授けてください。あなたが聴いてくださる神であることを、私たちにも体験させ、あなたを賛美させてください」

2021/11/14 ルツ記「ルツとナオミ」こども聖書㉟

2021-11-13 12:59:37 | こども聖書
2021/11/14 ルツ記「ルツとナオミ」こども聖書㉟

 今日は聖書の「ルツ記」のお話しです。聖書の最初の方では、たった四章しかないルツ記は、珍しく、目に留められないような書です。でも、逆に、神である主が、私たちの世界の、本当に小さな出来事に目を留めてくださることを、ルツ記は教えてくれます。

1:1さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。2その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、…

 この妻がナオミ、そして、二人の息子の兄がモアブで出会ったモアブ人の女性が、ルツでした。ですから「国際結婚」ですね。それも、イスラエル人とモアブ人とは、あまり良い仲ではありません。飢饉になったため、仕方なくモアブに移り住んだのでしょう。息子がモアブ人の女性と結婚するのは、嬉しいばかりではなかったのかもしれません。

 その上、夫のエリメレクも死に、二人の息子たちも死んで、残ったのは女性ばかり。飢饉を逃れてきたはずが、ナオミは外国人の嫁と取り残されてしまいました。出て来たベツレヘムは、飢饉が終わったと聞いたのでナオミは帰ることにしました。そして、ルツたちには、ここでお別れしましょうと告げたのです。ところが、

1:16ルツは言った。
「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。
お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。
あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
17あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。
もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、
主が幾重にも私を罰してくださいますように。」

 いつのまにか、ルツはナオミや夫の信じる神、主を、自分の神とするような思いになっていたのです。とても不思議なことです。こうして、ナオミとルツ、血の繋がらない異邦人同士の二人は、ベツレヘムに旅をしました。モアブのどこであったか分からないので、100kmぐらいの旅でしょうか。



 ルツにとっては、自分の故郷との別れでした。帰って来たナオミも、嬉しいばかりではありません。ホッとしたからでしょうか、

1:20ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しみ)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。21私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」

というのです。当時は、今以上に、女性だけで生きることは大変なことでした。夫に死なれ、子どもも孫もいないナオミは、もう細々と生きるしかないとして思えません。一緒にいるルツも、いないも同然のように、ナオミは期待していません。なにしろ、外国人、モアブ人ですから、ルツと結婚してくれる人なんて現れないでしょう。
 さて、二人が帰ってきたのはちょうど「大麦の刈り入れが始まったころ」でした。



 刈り入れの間に落ちた麦は、貧しい人が拾ってもよい、というのが神からの律法になっていたのです。これを「落ち穂拾い」と言います。そこでルツは、麦畑に行かせてくださいと願います。ナオミはルツを送り出しますが、たいした落ち穂は拾えないだろう、それどころか、ルツが外国人だから虐められるんじゃないか、と心配するばかりでした。

 ところが、ルツが落ち穂拾いにたまたま入った畑はボアズという人の畑でした。ボアズはなんとナオミの夫エリメレクの親戚でした。彼も、ナオミの事もルツのことも知りませんでしたが、畑で落ち穂を拾っている、見慣れないルツに親切にします。ルツは、

2:10彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」



11ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが、姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。12主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」



 こうしてルツは安心して、たくさんの落ち穂を拾いました。やがて、ナオミはルツとボアズが結婚するように考えて、ルツをボアズの所に贈って、こう言わせます。

3:9…「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」

 この「買い戻し」は、主がイスラエルの中で、財産を失ったり自分を身売りしたりしなければならない人を、親族が代わりに買い戻してあげることを定めた制度です。それは神ご自身が、私たち人間の罪や失敗を、神様の犠牲によって支払って、買い戻してくださることを表しています。そして、このルツをも、主が翼をもって覆ってくださるし、ボアズも買い戻しの権利を果たして、ルツを妻にして、エリメレクの財産も買い戻してくれるのです。ナオミは、全てを失ったと思いましたが、不思議な事に主は、ルツとボアズを出会わせて、ナオミに家族を与えて、将来を回復してくださったのです。

13ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。…17近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその子をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。

 そうです、このルツは将来のダビデ王の曾おばあさんになるのです。そして、ダビデの子孫の末に、イエス・キリストが生まれます。新約聖書の一頁には、ルツの名前が出て来ます。モアブ人の未亡人ルツは、救い主イエスの誕生がどんなものかをよく表しています。飢饉や死別、残念な結婚や貧しさ、そうした事の中でも神は働いておられます。今も私たちを買い戻して、不幸な人も外国人も差別なく、一緒に祝福に与るよう、働いておられるのです。そのご計画を信じるから、私たちも誠実を尽くすことが出来ます。

「主よ、ルツ記を有り難うございます。あなたが隠れて働いておられ、今も私たちに、不思議なご計画をお持ちであることを感謝します。ナオミのような悲しみが今も世界にも私たちの周りにもあります。どうぞ、あなたの慰めを表してください。また、私たちの心から差別や心ない冷たさを取り除いて、イエス様の系譜に私たちも加えてください」

2021/11/7 士師記13-16章「力に溺れたサムソン」こども聖書㉞

2021-11-07 12:52:47 | こども聖書
2021/11/7 士師記13-16章「力に溺れたサムソン」こども聖書㉞

 今日のサムソンは、「士師記」に出て来る「士師(さばきつかさ)」の一人です。彼は最後のさばきつかさで、その生涯の事は、とても詳しく記されています。彼が生まれる前、イスラエルはペリシテ人と呼ばれる民族に侵略されていました。40年に亘って、ペリシテ人に支配されていたのです。
 その時、サムソンの母に御使いが現れました。

士師記13:3…見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。…5…その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」

 「ナジル人」というのは、聖書で、神様に特別な誓いをする人が、その間、お酒を飲まず、髪の毛も切らずに伸ばして、汚れた物には触らずに過ごすことを指しています。サムソンは、生まれながらのナジル人だ、というのです。ですから、サムソンは、小さい時から髪の毛を切らず、大人になりました。長い髪のまま、大きくなり、そしてイスラエルを治めて、ペリシテ人と少しずつ戦いを起こすようになります。そして、時々、サムソンは、神である主の霊が激しく下って、すごい力を発揮するようになります。
 最初は、襲ってきたライオンに、素手で戦って勝って、ライオンを引き裂きます。

 次に、大きな町にいって、30人の人を打ち倒してしまいます。
 その後、ジャッカルを三百匹捕らえて、二匹ずつ尻尾でつないで、松明をくくりつけて、ペリシテ人の麦畑を燃やし尽くしてしまいます。

 その報復でペリシテ人の所に、新しい縄二本で縛られて行った時、主の霊が激しく彼の上に下り、その綱が燃えた糸のように切れて、サムソンは立ち上がり、ロバの顎骨を拾って、千人ものペリシテ人を倒してしまいます。
ロバのあご骨

 それでは終わらず、サムソンは門の扉を門柱と閂ごと引き抜いて、肩に担ぎ、山の頂まで運んでしまいます。こんな凄いサムソンの名前は「怪力」とくっつけられています。


 しかし、それは「主の霊が激しく彼の上に下」った特別な時でした。いつもサムソンが怪力だったのではないのです。それなのに、自分の力を頼みとするようになると、人はもっともっと力がほしくなります。結局、力では、ペリシテ人との戦いは続く一方でした。いいえサムソンは自分自身をも見失って、心がどんどん空回りしてしまうのです。

 町の門を引き抜くほどの力を発揮したサムソンは、デリラというひとりの女性に心を奪われます。ペリシテ人がこれを知ると、デリラに近寄って、こう持ちかけました。

16:5…「サムソンを口説いて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、縛り上げて苦しめることができるかを調べなさい。そうすれば、私たち一人ひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。」


 こう言われて、デリラはサムソンからヒミツを聞き出そうとするのです。

6…どうか私に教えてください。あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょうか。

 サムソンははぐらかして嘘を教えますが、ばれてまた誤魔化して、を繰り返します。

15彼女(デリラ)は…「あなたの心が私にはないのに、どうして『おまえを愛している』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのか教えてくださいませんでした。」
16こうして、毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。

 そして、遂にサムソンは自分が生まれた時から、髪を剃った事がないと教えてしまうのです。デリラは、サムソンが今度こそ本当のことを言ったと分かりました。

19彼女は膝の上でサムソンを眠らせ、人を呼んで彼の髪の毛七房を剃り落とさせた。彼女は彼を苦しめ始め、彼の力は彼を離れた。…21ペリシテ人は彼を捕らえ、その両目をえぐり出した。そして彼を…引き立てて行って、青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。

 サムソンはすごい怪力で目覚ましい活躍をしました。だけど本当のサムソンは無力でした。デリラに愛されたくて自分の秘密を明かすほど、本当は弱かったのです。サムソンは、神が力を下さる事を忘れて、自分の髪の毛に力の秘密があるように勘違いして、デリラにその秘密を話しました。本当の問題は、髪の毛を剃られた事ではありません。サムソンが神様より自分の力を頼みとした時から、問題は始まっていたのです。

 しかし、あのサムソンが捕らえられた先で、神は最後にサムソンの願いを叶えてくださいます。捕らえられたサムソンを見世物にしようと神殿に集まっていた三千人のペリシテ人とともに、サムソンは神殿の大きな柱を手にして祈りました。

28…「神、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。」…「ペリシテ人と一緒に死のう」と言って、力を込めてそれを押し広げた。すると神殿は、その中にいた領主たちとすべての民の上に落ちた。


 力を頼みとしながら、デリラの言葉で死ぬほど辛くなって、裏切ったサムソンが、最後には神にもう一度祈り、自分の死でイスラエル人を救いました。力を誇ったサムソンが、最後には自分を献げて、本当に強い人、本当にイスラエルを救う働きをしました。神はサムソンに、怪力以上のもの、神に祈る心、神に立ち戻る人生を下さったのです。

 力、能力、お金や権力、いろんな力。そのどれも、強いようで限界があります。ますます心が強さを求めます。そして、誘惑にも弱くなります。イエスはそのような怪力のヒーローではありませんでした。奇蹟の力がありながら、それで人を変えようとしませんでした。イエスの救いは、ご自身を十字架に献げる愛によって果たされました。私たちの罪の身代わりに、十字架に死に、復活され、主の霊が私たちの心に注がれて、私たちを強めてくださる。それが本当のさばきつかさ、キリストです。

キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが
膝をかがめ、すべての舌が、
「イエス・キリストは主です」と告白して、
父なる神に栄光を帰するためです。
ピリピ2:6-11

 私たちはサムソンや強い英雄(ヒーロー)に憧れます。イエスはその逆でした。そしてイエスはサムソンを変えたように、私たちも、このイエスの心で生きる者にしてくださるのです。


「主よ、サムソンの怪力は、人もサムソン自身も救いませんでした。私たちの救いは、力ではなく、あなたにあります。そしてあなたは私たちを強めもし、弱さや失敗も用いてもくださいます。どうぞ、成功に溺れたり、人の言葉に怯えたりする時、本当に力あるあなたに立ち帰らせてください。そして、私たちをあなたの道具としてください」

2021/10/31 士師記6-7章「ギデオン」こども聖書㉝

2021-10-30 13:57:39 | こども聖書
2021/10/31 士師記6-7章「ギデオン」こども聖書㉝

 聖書の士師記からのお話しです。今まで、エジプトの奴隷だったイスラエル人を、神が解放してくださり、新しい地に導き入れてくださったことを見てきました。やっと、自由な生活が始まったのに、彼らはそこでも神を忘れて、周りの国々の偶像の神々に目を向けるようになりました。そうして、苦しくなっては神を求めると、神は彼らを助けるため、指導者を遣わされます。それが「さばきつかさ」、士師記の「士師」です。

 今日読んだギデオンは、その士師(さばきつかさ)の一人です。ギデオンのことは、士師記の6~8章までとても詳しく記されています。その当時、イスラエルの地は、ミディアン人という外国の民に侵略されて、家畜も住む家も奪われていました。そのミディアン人から解放するために、神はギデオンを選ばれたのです。では、彼はとても勇敢な人だったかと言えばその逆で、とても臆病な人でした。臆病こそギデオンの特徴です。

6:11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。

 見つからないよう低い踏み場に隠れて麦打ちをしていた。そんな臆病なギデオンに、

12主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる」

 ギデオンはどんなにビックリしたでしょう。そして、彼が言ったのは反論でした。

6:13「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」

 しかしそのためにこそ主は来られたのです。主は彼の方を向いて言われました。

14…「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 こう言われて、ギデオンはビックリのけぞります。私なんか無理です!と言うのです。

15「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」

 最も弱く、若くて隠れていた臆病者の私ですよ。すると、

16主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ」

 こう仰って、ギデオンはミディアン人と戦う指導者になるのです。この後も、ギデオンは臆病ぶりを晒します。堂々とせずに、夜こっそり偶像を倒してバレたり、徴を求めて、神を二度も煩わせたりします。それはぜひ、聖書の士師記6~7章を読んで下さい。

 ともかくこうしてミディアン人が大勢集まり、戦陣をしきました。

 その数は、十三万五千人の大軍勢です。これに対して、ギデオンの元に集まったのは三万二千人。たった四分の一。それでも集まった方です。

 ところが、主は思いもしないことを言われました。
7:2 主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。3 今、兵たちの耳に呼びかけよ。『だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ』と。」
…すると、兵のうちの二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

 「本当は怖い人は帰れ」と言ったら、三分の一以下になってしまいました。
 ところが、
4主はギデオンに言われた。「兵はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをより分けよう。」

 こう仰って、水の飲み方が、膝を突いた飲んだ人は帰されて、水を手ですくって口をつけて飲んだ人だけが残されました。


 最初の百分の一より少ない、たった三百人です。

 その三百人で、13万の軍隊に立ち向かうのです。
 彼らはこんな作戦を立てます。
7:16 彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛と空の壺を持たせ、その壺の中にたいまつを入れさせて、…。18 私と、私と一緒にいるすべての者が角笛を吹いたら、あなたがたもまた、全陣営を囲んで角笛を吹き鳴らし、『主のため、ギデオンのため』と言わなければならない。」

 夜中、寝込んでいる敵陣営を囲み、「壺割り脅かし作戦」をしたのです。ガチャン!

19…角笛を吹き鳴らし、その手に持っていた壺を打ち壊した。20三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕き、左手にたいまつを、右手に吹き鳴らす角笛を固く握って「主のため、ギデオンのための剣」と叫んだ。


 ミディアン人はビックリして走り出し、大声をあげて、パニックになり、同士討ちが始まります。こうして彼らは散り散りバラバラに逃げて、イスラエルに打ち負かされてしまいます。神はこうして、たった三百人の兵士でミディアン人を滅ぼされました。

 主は最初に言われました。
「「自分の手で自分を救った」と言って、わたしに向かって誇るといけないから」
と。この勝利も、この三百人が精鋭だったとか、作戦が成功したというより、主が下さった勝利ですね。また、ミディアン人の大軍が、大勢の力で勝って当然と思っていた自信が砕かれた出来事です。人は、神を忘れて、数や力や知恵を誇ります。自分の手で勝った、勝ち負けは自分の問題だと思うのです。しかし、問題は神を忘れていることです。だから、神はこの時、兵士を減らしました。そもそも、その時代一番の勇者ではなく、弱くて臆病なギデオンを選ばれたのです。
 主は言われます。

しかし主は「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」 Ⅱコリント12:9

 神は強さや力に胡座をかいている人を辱め、小さな人、無力だと思われている人を勝利させられます。神は、私たちをも選ばれて、神のわざに用いられます。自分の手ではなく、神の手が私たちを救ってくださる。不思議な知恵や方法で、勝利をもたらさせてくださいます。そういう体験を期待して、主に自分をお献げしながら歩むのです。

「主よ。あなたは臆病なギデオンを選んで、松明とラッパで大軍に勝利させました。人の力に恐れを抱く時、あなたを信頼させてください。自分が弱くても、弱いからこそ、あなたが事をなし、私たちを強めてもくださる事を信頼します。あなたの恵みがすべてを新しくし、人の考えに勝る、赦し、和解、癒やしの御業がなされていきますように」

2021/10/24 ヨシュア記1-6章「エリコの町」こども聖書㉜

2021-10-23 11:49:58 | こども聖書
2021/10/24 ヨシュア記1-6章「エリコの町」こども聖書㉜
 エジプトの奴隷だったイスラエル人が、奴隷生活から解放されて、新しい地、カナンの地に向かって旅をしてきました。その旅は40年続きました。最初にエジプトを出て来た人たちは、旅の途中で亡くなっていき、その子どもたちの代になりました。最初の指導者のモーセも亡くなって、新しい指導者、ヨシュアに交代しました。そこで、今日の聖書の本は「ヨシュア記」、ヨシュアの時代の記録という代になっています。神はヨシュアに、イスラエルの民を約束の地に導く役割を、モーセから引き継いで、お与えになりました。そこで、ヨシュアは約束の地に、偵察を二人送り込みました。
 彼らが向かったのは、約束の地の一番手前にある「エリコ」の町です。その町は高台にある頑丈な町でした。高さ4m、厚さ2mの城壁が、周囲を囲んでいる要塞でした。
 ところが実はこの町の人々も、イスラエルの人たちにビクビクしていました。何しろ、神様が彼らをエジプトから救い出して、途中たくさんの不思議なことをして、ここまで連れて来てくださったのです。エリコの人々は、好き勝手に生きてきましたが、自分たちは神様ではないことは分かっていました。だから、ビクビクしていたのです。そこで、イスラエルから二人のスパイが来ていることを聴いて、彼らを捕まえようとしました。でも、その時、ラハブという女の人が、二人を匿いました。屋上に隠れさせて、暗くなってから、二人を窓から綱で吊り降ろして、城壁の外に脱出させたのです。

 最後に、
12(ラハブ)私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、13私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。…
14[偵察隊]あなたが私達のことを誰にも告げないなら、主が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。…
21…(ラハブ)「おことばどおりにしましょう」
こう約束を交わしたのです。こうして二人のスパイはヨシュアの所に戻って、報告をしました。エリコの町の城壁のこと、ラハブのこと、すべて報告してから、
24「主はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。確かに、あの地の住民はみな、私たちのゆえに震えおののいています。」
 そうです、神は、エリコの町の城壁よりも強いお方です。人間よりも遙かに強いお方です。けれども、神はここで、エリコの町をすぐに崩すことも出来るのに、不思議な遠回りを命じて、イスラエルの民がもう一度、心を決めて神に従うことを求めました。
 2主はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。3あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。4七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。5祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城門は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」
 イスラエルの民全員で列になって、一日一回、エリコの町を回るのです。何も言わず、黙ったまま、ただ静かに町の周りを回って、そして帰って来るのです。次の日も、同じようにして、黙ったまま町の周りを皆で歩いて、それを六日繰り返すのです。そして、最後の七日目に、七回回ったら、祭司たちが角笛を吹き鳴らします。
 彼らは、この不思議な、回り諄い言葉に従いました。口で言うのは簡単ですが、今日から1週間、一日一回だけ黙ったまま歩いて、それだけで過ごすなんて、想像してみてください。どんなにじれったいでしょうね。でも「神様は何でも出来るお方」だからといって、簡単にすべてが進んだら、私たちは神を信じるより、自分が神様かご主人のようになってしまうでしょう。それは、神が願う私達のあり方ではありません。この時も、エリコの町を崩すより、イスラエル人が神を信頼し、神に従う方が大切だったのです。そうして、彼らは毎日、一度だけエリコの町を周り、黙って七日間待ちました。
 そして、最後の日、七日目に、七回町を回りました。最後に、祭司たちが角笛を吹き鳴らし、みんなが大声を上げて叫ぶと、城門は崩れてしまいました。そして、そこに攻め入って、エリコの町を攻め取ったのです。


 難攻不落と思えて、イスラエルの前に立ちはだかっていた要塞は崩れました。そして、肝心なラハブとの約束も果たされました。
25…遊女ラハブと、その一族と、彼女に連なるすべての者をヨシュアが生かしておいたので、彼女はイスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを偵察させようとしてヨシュアが送った使いたちを、彼女がかくまったからである。
 ラハブと家族は、イスラエルの民になりました。そして、ラハブの孫の孫が、ダビデ王になりました。ラハブの血は、ダビデ王に受け継がれたのです。とても不思議な事ですね。更にダビデのずっと後の子孫として、イエス・キリストがお生まれになりました。ですから、ラハブの血は、イエス様の身体にも流れているのです。新約聖書の一ページには、イエス様の系図が書かれていますが、そこにはシッカリ、ラハブの名前も載っています。エリコのラハブもイエス様の家系の大事な一人です。

 イエスというお名前は、元々のヘブル語では「イエシュア」です。ヨシュアです。新しい地に導き入れた指導者ヨシュアは、私達に新しい地、約束の御国を継がせてくださるイエスを示しています。

 そしてそれは、私達も時間を掛けて神様を信じたり、ラハブのような敵の町の女性も救ったりなさるような、不思議な導き方です。私達が楽をして、天国に入る、というようなものではなく、私達が変えられて、成長させられていく、そういう導き方をなさるお方です。そして、エリコの町をも崩した神は、イエスが葬られた墓をも開いて、よみがえらせたように、私達の心も新しくしてくださるお方です。時間をかけて、私達の心を作りかえ、神を待つこと、神に従うことを教えてくださいます。

「主よ。今も、イエス様が私達を導き、約束に預からせてくださることを感謝します。あなたが本当に神であり、あなたの祝福が確かにあると信じるために、私達は時として大きく遠回りをします。今この時も長い間、待ち続け、じれったいを思いをしています。どうぞ、その中でもあなたを信頼し、忍耐を戴いて、今日の勤めを、心込めてさせてください。あなたの不思議な、長い物語が一日一日進んで行くことを信じさせてください」