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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/10/1 民数記13-14章「12人のスパイ」こども聖書㉛

2021-10-16 12:56:10 | こども聖書
2021/10/1 民数記13-14章「12人のスパイ」こども聖書㉛

 今から1500年ほど前、エジプトの国で奴隷として使われていたイスラエルの民を、神は解放してくださいました。そして、荒野を通って、彼らを導き、新しい掟、「律法」を下さいました。そうして、彼らは約束の地の手前にまでやってきました。神である主はイスラエルの指導者モーセに、偵察をするよう命じました。イスラエルの12の部族から一人ずつ、えり抜きの勇者たちが選ばれました。つまり、12人のスパイです。
民数記13章17節
モーセは、カナンの地の偵察のために彼らを遣わして言った。「向こうに上って行ってネゲブに入り、山地に行き、18その地がどんなであるか、調べてきなさい。そこに住んでいる民が強いか弱いか、少ないか多いか、19また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営か、それとも城壁の町か、20土地はどうか、それは肥えているか痩せているか、そこには木があるかないか。勇気を出して、その地の果物を取って来なさい。」

 こう言われて、12人のスパイは出かけて行きました。約束の地を40日掛けて、歩いて偵察しました。その土地の善さと危険、どちらも探ったのです。約束の地を、南から北の端まで偵察したのです。そこに住む人たちは、大きな身体をしていて、強そうでした。戦いは楽ではないでしょう。でも、その土地の食べ物は大きく、美しい景色でした。
 葡萄一房を二人で担いで、というのですから、どんな様子だったのでしょう? 他にも果物が豊かでした。40日の間、きっと危険や驚き、ドキドキハラハラしたでしょう。そうして帰って来た彼らは、果物を見せながら、イスラエルの民に報告をしました。

27…私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。


そして、これがそこの果物です。


ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナク[巨人]の子孫を見ました。


…31…あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。



…33…私たちの目には自分たちがバッタのように見えた」


 こう悪く言いふらしたのです。12人のうち十人は悪く言いふらしましたが、二人は違いました。その二人は、ヨシュアとカレブです。この二人は神を信じて励ましました。
14:7…「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。8もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。9ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。…主が私たちとともにおられるのだ。…」



 このように言います。偵察は必要で、どんな敵が待っているか、どんな事が予想されるか、知ることは大事です。しかし、神である主はどんな出来事にも、必要な知恵や助けを下さいます。ここまでもそうでした。これからも主はともにおられます。約束してくださった通り、この地を与えてくださるのです。それを信じたのは、二人だけでした。

 十人のスパイが悪く言うのを聴いて、イスラエルの民はそれを信じてしまいます。

「我々はエジプトの地で死んでいたらよかった。あの地に行けば、子どもたちはかすめ奪われてしまう。さあ、われわれは、かしらを立ててエジプトに帰ろう。」

 そういって、ヨシュアとカレブは石で打ち殺そうとするのです。神である主はそこで介入されます。モーセが懇願したおかげで、民は滅びを免れますが、主はこう仰います。
22わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、23わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。…
30エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは…31おまえたちが『かすめ奪われてしまう』と言った、おまえの子どもたちについては、わたしは彼らを導き入れる。

 残り十人のスパイは、特に責任が重く問われ、病気で死にます。しかし、これを聞いた大人たちは、今更マズかったと思ったのでしょう。次の朝、こう言い出します。
40…われわれはここにいるが、とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう。われわれは罪を犯してしまったのだ。

 反省しているようですけど、これは神の求める態度ではありませんでした。モーセが

「あなたがたはいったいなぜ、主の命令を破ろうとするのか。それは成功しない。42上って行ってはならない。主があなたがたのうちにおられないのだから。…」

 こう言っても民は耳を貸さず、自分たちで戦いに行き、しかしあっけなく返り討ちに遭い、散り散りに逃げ周ります。そして、生き残った人々は、40年の荒野の旅を続けるのです。

 エジプトの奴隷生活から解放されたのに、イスラエルの人々は、まだ神を信じ切れず、人を恐れたり、勝手にエジプトに帰ろうとしました。ヨシュアとカレブを殺そうとし、主がともにおられないのに、上辺だけの悔い改めで戦おうとしてしまいました。苦しい生活が自由になるだけでは、人は変わりません。環境が良くなっても、人の心が勇気を持てるわけではないのです。イスラエルの物語は、私たちの「救い」が、悪から救われるだけでは不十分で、心が新しくされなければならないことを教えています。
 神が考えておられる救いは、イエス・キリストが来られて、私たちの心を新しくしてくださることです。イエス・キリストが下さる救いは、心の底まで満たします。自分の中にある、恐れや憎しみを手放して、信頼と勇気を与えようという救いです。
 そのために、大きな回り道を通らなければならないかもしれません。何十年、一生涯かかるかもしれません。イエスは、そんな遠回りも、厭いません。いえ、ご自身が人間となって何十年も過ごして、十字架にかかりよみに下る遠回りも厭わないお方です。周りが変わることも必要でしょう。それとともに、私たちを主が変えて、偽りや不信仰から救ってくださるよう、祈りましょう。



「主よ、約束の地を見ても、十人のスパイも、殆どの民も、あなたを信じるより、恐れてしまいました。あなたは、いつも人の経験や予測を超えたことをなさいます。あなたはチャレンジングなお方です。あなたの大きさを思い、自分の臆病に囚われないようお守りください。あなたの力を信じることを励まし合うような言葉を、語り合わせてください。荒野を行くような旅路でも、あなたがともにいて、私たちを新しくしてください」

2021/10/10 出エジプト記20章「十戒」こども聖書㉚

2021-10-09 12:30:44 | こども聖書
2021/10/10 出エジプト記20章「十戒」こども聖書㉚

 神は、エジプトの国で奴隷とされていたイスラエル人を、その長い奴隷生活から救い出してくださいました。エジプトから脱出して、約束の地への旅を始めたイスラエル人を、神はシナイ山に連れて行き、そこで新しい生き方を示す「律法」を下さいました。大事な戒めの中でも、最初に与えられたのが「十のことば」または「十戒」です。
 今まで、イスラエルの民は、エジプトで奴隷として暮らしていました。ですから、彼らが知っていたのは、エジプトの法律です。人を奴隷にしたり、苦しめたりするようなルールです。エジプトの王ファラオは、神ではないのに神のように振る舞いました。民を鞭打ち、働かせて、自分に都合が悪いと「私が間違っていた」とは言うものの、すぐにその約束を破る、勝手な王でした。それがイスラエルの民が何百年も味わってきた生活です。
 そこから救い出されても、イスラエル人は、他の法律を知りません。このままでは、今度は自分たちが、神様のように振る舞って、人を苦しめたり、誰かを奴隷にしたり、嘘つきばかりの国になるでしょう。いいえ、本当の神である主を、恐ろしい暴君や、わがままで身勝手な支配者のように考えてしまうでしょう。
だから神は新しい掟、十戒を下さいました。十戒は「序言」から始まります。それは
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」
という前置きです。戒めの前に、わたしはあなたの神だと宣言されます。まず初めに、神がイスラエルの民を、奴隷の家から導き出してくださいました。奴隷として生活して、苦しいから叫んでもいたけれど、もう諦めて、希望など持てずにいた人々を救おう、新しい生活を必ず与えようと決めてくださったのです。その神の言われる第一の戒めは、
 「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」
でした。奴隷生活から導き出してくださった本当の神がおられるのに、他の神を持つなんておかしな話です。神ではないものは、私たちを幸せにするどころか、私たちを縛り付け、奴隷にしてしまいます。だから、神が最初にこう仰るのは、私たちを奴隷にしないためです。

 第二戒は
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。…」
と続きます。神である主だけを神としても、その神を、私たちに分かりやすい、目に見える形、何かに似たものの形に引き下ろしてしまうことが禁じられます。
 第三戒は
「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」
です。簡単に「神様が」「主が」と主の名を口にすることを窘めます。私たちも、自分の名前を簡単に人が話すのは嫌なものでしょう。神に対しても、私たちは同じ敬意を持つのです。
 第四戒は
「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」。
 この戒めが、十戒の真ん中にあり、最も長いのです。他の何かをしなさい、してはなりません、よりもずっと長く、週に一日は、私たちが仕事の手を止めること、また、自分だけでなく人も家畜も、すべてのものが解放されて過ごすように。これが、神の命じられた戒めの中心でした。
 その後は、
第五戒「あなたの父と母を敬え」
第六戒「殺してはならない」
第七戒「姦淫してはならない」
第八戒「盗んではならない」
第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」
と続きます。家族を初め、人間関係の戒めです。そして、最後の第十戒は
「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない」
と続きます。この最後の戒めは、人の物を心の中で「欲する(強く欲しがる)」ことを禁じるのですね。心の中のことですから、人には見えません。でもそれを神様は強く戒めるのです。そして、心の中で「欲しがる」事は、戒められてもそれで止めることは出来ません。ハッとさせられはしても、それで人のものを欲しがらなくなれることはありません。かえって、ほしい気持ちがますます強くなってしまうのです。
 神の戒めは、私たちの心・願い・欲望に光を当てます。「神の戒めを守ればいい」がキリスト教の教えではないのです。もし、神様が立派な教えを下さったから、私たちはそれを守りましょう、ということであれば、イエス・キリストがこの世界に来る必要はありませんでした。キリストが十字架に掛かる必要もありませんでした。でも、キリストがこの世界に来られたこと、そして、私たちの救いのため、十字架に掛かってくださり、よみがえってくださったことを信じているのが教会です。教会の屋根にあるのは、十字架であって、十戒ではありません。



 イエスは仰いました。
「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(マタイの福音書5章17節)
 そして、その律法の中で、「どの戒めが一番重要ですか?」と聞かれて、
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38これが、重要な第一の戒めです。39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。(同23章36~39節)
と、神を愛し、隣人を自分のように愛する、という二つの戒めにまとめられました。それは十戒のまとめです。十戒は、神を愛し、隣人を愛することを示しています。そして、それが出来ない責めをキリストは十字架に背負ってくださり、また、私たちの心に、信仰を与え、愛を注ぎ、律法を教えてくださいます。神の他に神を持つな、人のものを欲しがるな、と禁じるだけでなく、本当の神が神でいてくださる、人のものも欲しがらなくていいと思える、本当に幸せで自由な心を育ててくださいます。
 ですから、十戒は、神が私たちに与えて下さる新しい心を示しています。しなければならない、窮屈な戒めとは大違いの、自由で喜ばしい戒めです。そして、やがてこういうルールでお互いが大事にしあう神の国が完成するのです。私たちも、そこに向かって歩んでいるのです。

「私たちを奴隷の国から連れ出し、あなたの国の民としてくださった主よ。十戒を下さった恵みを感謝します。自由の恵みを感謝します。私たちの心や頭には、まだ沢山の歪んだ考えやルールが染みついています。どうぞ私たちを助け、守ってくださって、あなたが示してくださった真実な道をたどれますように。主が私たちとともにいて、私たちを喜び、心を照らし、あなたのいのちの教えを私たちのものとしてくださいますように」



2021/10/3 出エジプト記17章「さばくに湧いた水」こども聖書㉙

2021-10-03 15:49:55 | こども聖書
2021/10/3 出エジプト記17章「さばくに湧いた水」こども聖書㉙

 神は、奴隷とされてこき使われていたイスラエル人を、その奴隷生活から救い出してくださいました。そうして約束の地、カナンの地に向かう旅を始めさせました。その旅の途中で、色々な出来事が起きます。その一つが、水不足です。飲む水がなくて、民が不平を言い、神と争ってしまうのです。出エジプト記17章にはこうあります。
17:3民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」

 水がないことは大変です。人が生きるのに水は必要です。水がないのは切実です。でも、ここまで彼らはパンを与えられ、肉も与えられてきたのです。いや、永遠かと思えた奴隷生活から解放されて、沢山の奇蹟も体験してきたのです。でも、そうした奇蹟のドラマは、この時に助けにはなりません。かえって、自分たちは助けられて当然、水がないなんてモーセが悪い、神様が悪い、文句を言って何が悪い、という「お客様意識」になっています。そして、殺気だってモーセに詰め寄っています。
4そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
 でもモーセは、恐れて逃げ出したりせず、自分の必要を真っ直ぐに申し上げています。
5主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。6さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」…

 「杖を持って岩を打て」と仰るのです。その岩とは何でしょうか。主がその岩の上で、あなたの前に立つと仰った岩ですね。この時、主は雲の柱でイスラエルの民の前におられました。その雲の柱が、岩の上に移動したのかもしれません。主の足台、神の御座のような岩です。その、聖なる岩を、モーセの杖で打てと仰ったのです。神が立っている岩を打つ。恐れ多いことです。でもそうせよと主は仰いました。恐れ多い事を仰います。

 今まで、エジプトの王ファラオを罰するために使われてきたモーセの杖で、今打たれるべきは、神の恩を忘れて不平を言って迫る、イスラエルの民であったはずです。彼らの立っている地面を打っても何の文句も言えません。しかし、その代わりに主は、ご自身が立っている岩を、モーセの杖で打たせました。それは、民の不平が、頑なさが、どれほど神の心を打って、神を悲しませているか、ということではないでしょうか。人間の、神に対する信頼のなさ、疑り深さは、どれほど神の心を痛めているのでしょうか。

 それは、神が人間をどれほど愛し、私たちをどれほど深く思ってくださっているかの現れです。天地を作られた、宇宙よりも偉大な神が、その中の小さな星に住む、小さな人間のために、心を痛められるのです。水がなければ死んでしまう弱い生き物のために、限りないご配慮をしてくださるのです。そして、その憐れみが、民を生かすのです。
 モーセが杖で、神の立つ岩を打った時、岩から水が出るのです。神が人間のために、心を痛め、神ご自身が傷ついてまでも、人間を受け止めてくださる。その憐れみによって、私たちはいのちをいただき、養われるのです。

 後に、新約聖書で、使徒パウロは今日のところを元にこう書いています。
Ⅰコリント十1~4…私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、3みな、同じ霊的な食べ物を食べ、4みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

 岩はキリストを現し、その岩から水が飲んだことは、キリストが私たちにいのちの水を下さることを予告している。確かにキリストは、よく「水」にたとえてご自分の恵みを語られました。ヨハネ4章13~14節では、サマリヤの井戸で女性にこう言いました。
イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 イエスが私たちのために、十字架に掛かられました。神がご自身の岩を打たせて、水を出させたように、イエスが十字架によっていのちを下さるのです。信仰生活の出発の洗礼は、主が私たちに必要な水を与えてくださる約束です。目に見えるのは砂漠で、岩ばかりだとしても、神は、そこから水を湧き出させることが出来るお方です。



詩114:8
神は 岩を水の潤う沢に変えられた。
硬い岩を 水のあふれる泉に。

詩篇78:15~20節
荒野で 神は岩を割り 大いなる深淵の水を
豊かに飲ませてくださった。

17けれども 彼らはなおも神に罪を犯し
 砂漠で いと高き方に逆らった。
18彼らは心のうちで神を試み
 欲に任せて食べ物を求めた。
19そのとき彼らは神に逆らって言った。
 「荒野で食事を備えることが 神にできるのか。
20確かに 神が岩を打たれると
水が湧き出て 流れがあふれた。
だが神は パンも与えることができるのか。
 民のために 肉を用意できるのか。」

詩篇95篇8~9節
あなたがたの心を頑なにしてはならない。
メリバでのように 荒野のマサでの日のように。
あなたがたの先祖は そこでわたしを試み
わたしを試した。わたしのわざを見ていたのに。

詩篇107篇33節
主は豊かな川を荒野に 水の湧き上がる所を潤いのない地に
35節 主は荒野を水のある沢に 砂漠の地を水の湧き上がる所に変え

詩篇114篇8節
  神は 岩を水の潤う沢に変えられた。
 硬い岩を 水のあふれる泉に。

申命記8:15 
燃える蛇やサソリのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない乾ききった地を通らせ、硬い岩からあなたのために水を流れ出させ、

ネヘミヤ9:15 
彼らが飢えたときには、天からパンを与え、
渇いたときには、岩から水を出し、
彼らに与えると誓われたその地に入ってそこを所有するよう、
彼らに命じられました。

イザヤ書48:21 
主が荒れ果てた地を通らされたときも、彼らは渇くことがなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させ、
岩を裂いて水をほとばしり出させられた。

 今日の、神が砂漠で岩から水を出させた、という出来事は聖書の中で何度も思い出させられて、今も神が私たちの状況に働いて、荒野に泉を湧き上がらせてくださる、という信頼を呼び起こしてくれるのです。そして、それはただ神が全能だから、奇蹟もお茶の子さいさいな神様だから、というだけではありません。神が私たちを愛し、憐れみ、私たちの不信仰に心を引き裂かれてでも、なお私たちを潤し、いのちを注いで止まないお方だからです。神の、私たちへの深い慈しみが、荒野に泉を湧き上がらせもし、毎日の水やパンや、当たり前のような沢山の出来事に、込められているのです。

出エジプト記17章7節それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みたからである。
 この場所にはマサ(試み)やメリバ(争い)という名前がつけられた、と聖書は結んでいます。ただ岩から水が与えられただけでなく、水が与えられるのに、民がモーセと争い、神様を試したこと、その失敗の歴史を胸に刻もう、そういうエピソードです。

 出エジプトの旅はまだまだ始まったばかりです。彼らが進んだのは、荒野であって、オアシスの中ではありませんでした。いつも水があったのでもありません。私たちの人生もそうです。いつも神様が必要を満たして、すぐに奇蹟を起こしてくれるわけではない。それは、私たちの人生が旅だからです。その途中途中で、確かに必要は満たされて、私たちは旅に慣れていくでしょう。危険を避け、別れ道では賢い選択をする。それでも予想もしないハプニングが起きる。そういう私たちの旅の全体が、私たち自身ではなく、この世界をお造りになった神の手の中にある。そして、神は私たちの必要をその時その時満たしてくださり、石も泉に、禍も益に変えて、目的を果たしてくださるのです。

「造り主なる主よ。荒野のイスラエルの旅を導いたように、私たちをも不思議な支えの中に導いてください。私たちが飢え渇く時、どうぞ不満を秘めてしまうことがないよう助けてください。私たちのために打たれた主イエスが、恵みをもって日々私たちを潤してください。今までの数々の恵みをも思い起こしながら、私たちの不信心や疑いを超えて真実なあなたに、私たちの心の求めを、どう申し上げたら良いかも教えてください」

2021/9/19 出エジプト記16章「天からの食べ物」こども聖書㉘

2021-09-18 13:34:12 | こども聖書
2021/9/19 出エジプト記16章「天からの食べ物」こども聖書㉘

 今から3,500年ほど前、エジプトの国で奴隷とされていたイスラエル人を、神である主は解放させ、彼らは、エジプトから荒野を通る旅に出かけたのです。
出13:21~22 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。

 神は見える形で、民とともにいてくださった。羨ましいですね。でも、彼らはそれで神様を信頼できた、とはなりませんでした。食べ物が、無くなってきたのです。そこで
16:2そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。3イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野から導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」
なんという言い分でしょう。エジプトの奴隷生活で、肉鍋とかパンなんて滅多に無かったはずです。なのにこんな口を叩いて、神様の恩を踏みにじります。だけど、お腹が空くのは辛いですね。体の必要は、私たちにとってとても大事な基本です。腹ぺこや喉がカラカラだと心まで弱くなり、誘惑にも負けやすいのです。だからイエス様も、
「私たちの日毎の糧をきょうもお与えください」
と祈るよう教えられました。私たちの生涯は日々神に養われて生かされる歩みです。

4主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。5六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」

 神は、民の不平に対して、食べ物を与えることによって、ご自身を示してくださいました。この夕方、早速神は、何十万人もいる民のために、肉を下さいました。
13すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。
 空から、沢山の鶉(うずら)が飛んできて、人々はその鶉を捕まえて、食べる事が出来ました。

また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。14その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。15イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。…

 これが、この後もその次の日も、そのまた次の日も、そのまた次の日も降りました。「これは何だろう」、ヘブル語で「マーン・フー」と言ったので、「マナ」と名づけました。

※ これに因んだマンナビスケット

 それなのに、翌朝まで取っておいたら、それは虫が湧いて臭くなりました。神は毎日毎日、食べるものを下さる。



 しかし、主は先に六日目は二倍だと仰っていました。
16:23…『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。…彼らはそれを朝まで取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。
 六日目は2日分が与えられる。それは、七日目を休むためでした。神は、食事も休みも与えて、民の体も魂も養ってくださったのです。以前はそうではありませんでした。エジプトでは彼らは奴隷で、休みも与えられず、仕事を押しつけられていました。
5:5ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせよう(シャーバット)としているのだ。」
 そう言って、レンガを焼くための藁も与えず、燃料さえ自分で集めさせていました。そこから導き出してくださった本当の王、神である主は、労役を止めさせてくださった。この「止めさせる」から出来たのが「安息日(シャバット)」という言葉です。神は、働かなければ食べ物も与えられない奴隷生活を終わらせて、毎日、神がパンを与えて養い、疲れた者には休みを与えられる事を教えてくださいました。五日間、その日のパンが与えられ、六日目は倍を与えられ、七日目はマナが降らない。それが、イスラエルの民がこの後荒野を四十年、旅し続けた間、欠かすこと無くあった出来事でした。

 その終わりにあって、マナが与えられ続けた意味をこう振り返っています。

申命記8:3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

 雲の柱や火の柱があっても、民は不平を言いました。マナが降っていても、民は神を信頼せず、何度も逆らいました。今も、雲の柱やマナがなくても、神は私たちを導いて、私たちを生かしてくださっています。その事に信頼して、命と食べ物と休みを下さる主を信頼して、私たちも互いに生かし合い、休みを与え合う毎日毎週を重ねるのです。主イエス様は、このマナの教えを思い出させるようなことを仰いました。
マタイ6:31何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。…明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
 
 そして、イエスはご自分こそ、マナに勝るいのちのパンだと仰いました。

ヨハネ6:31 [ユダヤ人がイエスに言った]私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
32それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。…
35「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

「天の父なる神。荒野でマナを降らせて民を養われたように、私たちに日毎の糧を与え、休みをお恵み下さり有り難うございます。あなたこそ私たちの神、私たちの命です。どうぞあなたの豊かな養いの中で、旅を続けさせてください。私たちが互いの食べ物を奪い合い、休みを取り上げてしまうことがありませんよう。今、息詰まる思いをしている世界の私たちを憐れんでください。この日曜日、安息の日として覚えさせてください」

2021/8/15 出エジプト記12-15章「モーセ、人々を導く」こども聖書㉗

2021-08-14 12:44:54 | こども聖書
2021/8/15 出エジプト記12-15章「モーセ、人々を導く」こども聖書㉗

 今から3500年ほど前、神様がエジプトの国で奴隷とされていたイスラエル人を、その奴隷生活から解放してくださったことは、聖書の物語にある大きなクライマックスの一つです。エジプトの王ファラオは、「神の子」を自認して、絶対的な権力をもっていました。しかし、本当の神である主は、ファラオよりも遙かに強く、イスラエル人を救い出して、神の民として新しい歩みをくださったのです。これは、聖書を通して、ずっと私たちを励まし、力づけてくれる、すばらしい出来事です。
 しかし、イスラエル人がエジプトから出て行った後、エジプトのファラオや家臣たちはすぐに考え直し始めました。勿体ないことをした、イスラエル人を手放したのは間違っていた、と思ったのです。奴隷にしていたイスラエル人がいなくなって、自分たちが仕事をしたり片付けや料理をしたりしなければならなくなって、嫌気がさしたのかもしれません。エジプト人はイスラエル人を連れ戻して、また自分たちのために働かせよう、と考えてしまったのです。そして、馬で引いた戦車を600台、いやもっとたくさん送り出して、イスラエル人を追いかけていったのです。
 エジプトから出て行ったイスラエルの人たちは、ちょうど葦の海の前まで来ていました。前に道はなく、どう進めば良いのかと思っていた所に、後ろからエジプトの戦車がたくさん押し寄せてきたのです。前は海、後ろは軍隊、どちらにもいけません。挟み撃ちです。そこで人々は、神様に叫んで祈り、指導者のモーセにこう悪態をつきました。
出エジプト記十四11…「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。12エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
 なんて勝手な言い分でしょうね。しかし、神様はこれを聞いておられました。そして、神は、わざわざ彼らをこの絶体絶命の挟み撃ちの状態に置かれたのです。それは、とても大事なことを人に教えるためでした。神はこう仰っていました。
十四4わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。
 「もうだめだ」-人がこんなふうにしか思えない時にも、神はそこに道を創造するお方です。その事が、この時に明らかにされたのです。ではどのようにしてでしょうか。
21モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。22イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
 主が言われたように、モーセが杖をもった手を海の上に伸ばすと、海の水が分かれて、道が出来ました。その道をイスラエル人たちは歩いて、向こうまで渡って行けたのです。道のない所に、神は道を作りました。逃れる事が出来ない試練の中で、脱出の道を備えてくださいました。もうダメだとしか思えない時に、神は救いを備えてくださいました。こうしてイスラエル人は、絶体絶命の場所から救い出されたのです。



 しかし、その後を、
23エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入っていった。…26主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」27モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。28水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。
 神が海の中に道を作られたのを、エジプト人も利用しようとしましたが、神はそれを許しませんでした。神のなさることを、悪人がつけ込んでやろうと思う事はあります。でも、決してこっそりと神を欺すことは出来ません。神はちゃんとすべてをご存じです。神は、囚われていた人を解放します。後から、追いかけてくるひとたちが大勢いても、私たちが諦めてしまっても、神を打ち負かすことは出来ません。ところで、この場所は、
出エジプト記13:18「神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。…」
とあり、欄外に「あるいは紅海」と書かれています。この舞台は長く「紅海」、今でも地図にある、広い海で起きたと考えられていました。たくさんの映画で、モーセが紅海を二つに分けるシーンが、大きなクライマックスになります。



 けれども今は、これはもっと北の「葦の海」と理解されています。それは、葦が生えた、紅海よりも浅く、小さな水場です。だとしたら、紅海よりももっと地味なことだったのかもしれません。



 それでもこの出来事が奇蹟であって、神様でしか出来ない力強い解放だったことは変わりがありません。そして、大事なのは、この時にどんなにすごい奇蹟があったかどうかより、このお方が、今でも私たちに働いておられると信じることです。紅海が二つに割れる壮大な光景が起きたと信じながら、今ここで、神が囚われていた人を自由にし、人を束縛しようとする人間を退けられるとは、信じてもいないなら、意味はありません。主は、今もこれからも、卑しめられている人、傷つけられ、悩む人々を憐れんで、不思議な方法で救い出され、偉ぶったり差別したり神に背を向けるひとを打ち負かされます。
 出エジプトは、やがて訪れるイエス・キリストの救いを表しています。小羊の血を流した過越は十字架を表して、葦の海に道が出来た奇蹟はイエスの復活を表していました。復活は、十字架の死が、絶望やおしまいではなく、いのちの証しとなり、永遠のいのちへの道を示した出来事でした。それは、エルサレムの片隅で起きたことですが、私たちの人生を一変させる御業でした。海に道を開き、イエスを死からよみがえらせた方は、この世界の暴力や罪の支配を終わらせるお方。私たちをも導いてくださるお方です。

「世界の造り主なる神、あなたは囚われていたイスラエル人を解放し、奴隷に引き戻そうとするファラオの軍勢を海に放り込まれました。どうぞ、今も私たちの世界に働いて、あなたに背く世界に穴を空け、道を開いてください。また、卑しめられている人を解放して、私たちの冷たい心にも命の道を開いて、私たちを自由に、新しくしてください」