2016/01/01 詩篇十九篇「たましいを生き返らせ」
新年といえば、富士山に初日の出、という絵が典型的に思い浮かびます。少し正月らしい背景を出してみました。人それぞれに違うイメージはあるでしょうが、私にとって、正月らしさと結びついている聖書の箇所の一つの、詩篇十九篇を年頭の御言葉として、開きました。
詩篇十九1天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
と始まります。この詩編の作者も、空を見ることが好きだったのでしょうか。天は、いつでも目に出来る、神の大きな作品です。それが、抜けるような青空や美しい朝日ではなくても、曇り空でも嵐でも、ともかく空はデカく雄大です。それは、神の栄光を語り告げており、創造主の御手の業を告げ知らせている。そういう大きな所から詩人は、私たちに、神の御業を思い出させようとします。特に4節から6節では
「太陽」
を取り上げます。あの夜明けに高く昇っていく太陽を、部屋から出て来る花婿のように、喜び走っている、と表現するのですね。太陽は毎日昇っては沈んでいくわけですが、それを詩人は、人生最高の幸せに飛び出してくる花婿のように毎朝喜び走っているのだ。天の東の果てから西の果てまでを、駆け抜けている。その溢れる喜びの熱からは何者も隠れる事が出来ない、とダイナミックな絵を描き出すのです。
それが、7節からは
「主のみおしえ…主のあかし…主の戒め…主の仰せ」
と話が変わります。天や太陽を造られて、そこに栄光を日毎に現しておられる神が、私たちに教えや証し、つまり御言葉の戒めを下さって、私たちの
「たましいを生き返らせ、…わきまえのない者を賢くし…心を喜ばせ…目を明るくする」
恵みを下さる、と踏み込んでいきます。そして、最後の12節から14節は、「私の」と一人称単数です。自分の生き方の深い所に、主が届いてくださることを願う祈りに深まっていって、
「わが岩、わが贖い主、主よ」
と閉じる。そういう構造です。
天は神の栄光を現しているというダイナミックな賛美から始まって、自分の隠れている罪、傲慢の罪から守ってくださるようにと、静かでプライベートな祈りに収(しゅう)斂(れん)します。私たちの神が天地を造られた神であり、同時に、私たちを教え諭し、心の奥の密やかな思いにまで触れたもう主である。この、両極端とも言える信仰が、私たちに与えられている信仰の世界です。
「キリスト教とは良い道徳だ」と考える人は多いです。正しく、愛をもって生きていれば、神様が祝福してくださると思っています。でも、聖書は、人間が道徳的に立派な行いや、宗教的な生き方さえカモフラージュにして、傲慢や隠し事や、自分でもどうしようも出来ない思いを持っていることにフォーカスしています。天地を造られた偉大なる神は、私たちに上っ面の立派な生き方などお求めになるのではなく、7節以下にあるように、私たちの魂が生き返り、明るくなり、本当の喜びを持たせたい、正しい生き方を楽しませたいと願われるお方です。この詩を書いた詩人は、主が下さる「恐れ」や「さばき」に最大級の賛辞を送りますね。
10それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。
蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
11また[1]、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
主が教えや思いを下さって、私自身が戒められ、大きな報いを戴く事が出来る。神は、この私に知恵や正しさを与えてくださることが、何よりも嬉しいのです、と言っているのです。でもそれは、彼が真面目だからではないのですよ。詩人は、正直に認めています。
12だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。
自分は失敗を免れないし、沢山やらかした自分の間違いを把握する事さえ出来ない者だ、とぶっちゃけて言っています。でも、その間違いをしでかさないように、とは彼は言いません。
どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
表に出て来る過ちよりも、隠れている罪の方が問題なのだ。それは何かと言えば、
13あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。
傲慢という罪が、私の隠れている罪です。表に出て来た過ちは、その症状に過ぎません。もっと深い所に、思い上がった自己中心的な心がある。懲りることを知らない思い上がった考えがあって、それが醜い言葉になり、愚かな行動になる。自分の心には、いつも隠れた罪がある。隠しておきたい思い上がった自分がいる。神が天地を造られて、そこに大きな栄光が現されて、神の前には何も隠すことなど出来ないと分かっているはずなのに、私の中には、自分の栄光とか虚栄とか見栄が隠れています。まだ、上辺でそれなりの事をしていれば、隠れた罪や問題を神も見逃してくださるんじゃないかと思っている。そうして、傲慢さに自分が支配されそうになる。その私を守ってください。そんな私にも御言葉の戒めを下さって、魂を生き返らせ、喜びや明るさを下さろうという憐れみ深いあなたが、どうか隠れた罪が私を支配せず、あなたが私の心の隅々までも支配してください、と自分の心を開いて、明け渡す祈りを捧げるのです。
…そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
神が、天地、宇宙、この世界のすべてをお造りになったのは、壮大なご計画があっての事です。それは、神の栄光を現すご計画です。でもそれは、その世界に住む小さなこの私たち一人一人の、心の奥深くが生き返ること、胡麻菓子のない喜びや明るさを戴くことと不可分なのです。この一年にも、神がこの世界に大きなご計画を用意されていることを私たちは信じています。でも、神がご計画なさっているのは大きな出来事や流れで、私たちがどう抵抗しようと、神の決めておられるようになるのだとか、神のご計画が確かだから、私たちが何をしようと神は気になさらない、という事でもないのですね。この世界にひとり子を送られた神は、そのご計画が実に小さな、密やかな、私たちの心を新しくすることから始まることを明らかにしておられます。
神の目を免れて隠しおおせるものは私たちの人生には何一つありません。しかし、神はその私たちの罪や問題に眉を顰(ひそ)め、軽蔑したり責めたり罰したりするよりも、私たちの魂を生き返らせ、傲慢を神の栄光への賛美に変えてくださいます。隠した思いを手放せずに支配されてしまう生き方から、神の尊い御支配に生かされていく人生へと導いてくださいます。私たちの心の深くに、まだまだ傲慢や間違いがあります。それでも私たちを支配しているのは、そうしたちっぽけなエゴではなくて、天地の創造主なる神だと約束されているのです。
この祈りは、私たちに与えられた祈りです。主は、私たちにとっても
「わが岩、わが贖い主」
です。神のご計画は、私たちの心を置いてけ堀にする計画ではありません。私たち一人一人が、心から神に信頼し、何の隠し立てもない、神との交わりを持つ。それこそ、神のご計画の中心となる筋書きなのです。その回復のためにイエス・キリストが来てくださいました。主は、私たちとともにおられ、思いや言葉を深い所から変えて下さるのです。そのような一年を願いましょう。そうして、私たちがお互いにも、当たり障りのない関係ではなく、心からの、真実で、お互いを尊重し合う関係を築かせてくださるとも期待して、御言葉に聴いてまいりましょう。
「天地を造り、壮大なドラマを創造された神よ。あなたが、私たちの魂を生き返らせよう、喜びを与え、真実な者としようと願い、そのために御子イエスをも惜しまず与えられた恵みを感謝します。どうぞこの一年、一人一人を、あなたとの親しい御言葉の交わりに生かして祝福してください。大空や太陽、あらゆる御業をもって、心を深く励まし慰め、支え続けてください」