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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

詩篇十九篇「たましいを生き返らせ」

2016-01-01 21:25:41 | 説教

2016/01/01 詩篇十九篇「たましいを生き返らせ」

 

 新年といえば、富士山に初日の出、という絵が典型的に思い浮かびます。少し正月らしい背景を出してみました。人それぞれに違うイメージはあるでしょうが、私にとって、正月らしさと結びついている聖書の箇所の一つの、詩篇十九篇を年頭の御言葉として、開きました。

詩篇十九1天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

と始まります。この詩編の作者も、空を見ることが好きだったのでしょうか。天は、いつでも目に出来る、神の大きな作品です。それが、抜けるような青空や美しい朝日ではなくても、曇り空でも嵐でも、ともかく空はデカく雄大です。それは、神の栄光を語り告げており、創造主の御手の業を告げ知らせている。そういう大きな所から詩人は、私たちに、神の御業を思い出させようとします。特に4節から6節では

「太陽」

を取り上げます。あの夜明けに高く昇っていく太陽を、部屋から出て来る花婿のように、喜び走っている、と表現するのですね。太陽は毎日昇っては沈んでいくわけですが、それを詩人は、人生最高の幸せに飛び出してくる花婿のように毎朝喜び走っているのだ。天の東の果てから西の果てまでを、駆け抜けている。その溢れる喜びの熱からは何者も隠れる事が出来ない、とダイナミックな絵を描き出すのです。

 それが、7節からは

「主のみおしえ…主のあかし…主の戒め…主の仰せ」

と話が変わります。天や太陽を造られて、そこに栄光を日毎に現しておられる神が、私たちに教えや証し、つまり御言葉の戒めを下さって、私たちの

「たましいを生き返らせ、…わきまえのない者を賢くし…心を喜ばせ…目を明るくする」

恵みを下さる、と踏み込んでいきます。そして、最後の12節から14節は、「私の」と一人称単数です。自分の生き方の深い所に、主が届いてくださることを願う祈りに深まっていって、

「わが岩、わが贖い主、主よ」

と閉じる。そういう構造です。

 天は神の栄光を現しているというダイナミックな賛美から始まって、自分の隠れている罪、傲慢の罪から守ってくださるようにと、静かでプライベートな祈りに収(しゅう)斂(れん)します。私たちの神が天地を造られた神であり、同時に、私たちを教え諭し、心の奥の密やかな思いにまで触れたもう主である。この、両極端とも言える信仰が、私たちに与えられている信仰の世界です。

 「キリスト教とは良い道徳だ」と考える人は多いです。正しく、愛をもって生きていれば、神様が祝福してくださると思っています。でも、聖書は、人間が道徳的に立派な行いや、宗教的な生き方さえカモフラージュにして、傲慢や隠し事や、自分でもどうしようも出来ない思いを持っていることにフォーカスしています。天地を造られた偉大なる神は、私たちに上っ面の立派な生き方などお求めになるのではなく、7節以下にあるように、私たちの魂が生き返り、明るくなり、本当の喜びを持たせたい、正しい生き方を楽しませたいと願われるお方です。この詩を書いた詩人は、主が下さる「恐れ」や「さばき」に最大級の賛辞を送りますね。

10それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。
蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。

11また[1]、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。

 主が教えや思いを下さって、私自身が戒められ、大きな報いを戴く事が出来る。神は、この私に知恵や正しさを与えてくださることが、何よりも嬉しいのです、と言っているのです。でもそれは、彼が真面目だからではないのですよ。詩人は、正直に認めています。

12だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。

 自分は失敗を免れないし、沢山やらかした自分の間違いを把握する事さえ出来ない者だ、とぶっちゃけて言っています。でも、その間違いをしでかさないように、とは彼は言いません。

 どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

 表に出て来る過ちよりも、隠れている罪の方が問題なのだ。それは何かと言えば、

13あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。

 傲慢という罪が、私の隠れている罪です。表に出て来た過ちは、その症状に過ぎません。もっと深い所に、思い上がった自己中心的な心がある。懲りることを知らない思い上がった考えがあって、それが醜い言葉になり、愚かな行動になる。自分の心には、いつも隠れた罪がある。隠しておきたい思い上がった自分がいる。神が天地を造られて、そこに大きな栄光が現されて、神の前には何も隠すことなど出来ないと分かっているはずなのに、私の中には、自分の栄光とか虚栄とか見栄が隠れています。まだ、上辺でそれなりの事をしていれば、隠れた罪や問題を神も見逃してくださるんじゃないかと思っている。そうして、傲慢さに自分が支配されそうになる。その私を守ってください。そんな私にも御言葉の戒めを下さって、魂を生き返らせ、喜びや明るさを下さろうという憐れみ深いあなたが、どうか隠れた罪が私を支配せず、あなたが私の心の隅々までも支配してください、と自分の心を開いて、明け渡す祈りを捧げるのです。

…そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

 神が、天地、宇宙、この世界のすべてをお造りになったのは、壮大なご計画があっての事です。それは、神の栄光を現すご計画です。でもそれは、その世界に住む小さなこの私たち一人一人の、心の奥深くが生き返ること、胡麻菓子のない喜びや明るさを戴くことと不可分なのです。この一年にも、神がこの世界に大きなご計画を用意されていることを私たちは信じています。でも、神がご計画なさっているのは大きな出来事や流れで、私たちがどう抵抗しようと、神の決めておられるようになるのだとか、神のご計画が確かだから、私たちが何をしようと神は気になさらない、という事でもないのですね。この世界にひとり子を送られた神は、そのご計画が実に小さな、密やかな、私たちの心を新しくすることから始まることを明らかにしておられます。

 神の目を免れて隠しおおせるものは私たちの人生には何一つありません。しかし、神はその私たちの罪や問題に眉を顰(ひそ)め、軽蔑したり責めたり罰したりするよりも、私たちの魂を生き返らせ、傲慢を神の栄光への賛美に変えてくださいます。隠した思いを手放せずに支配されてしまう生き方から、神の尊い御支配に生かされていく人生へと導いてくださいます。私たちの心の深くに、まだまだ傲慢や間違いがあります。それでも私たちを支配しているのは、そうしたちっぽけなエゴではなくて、天地の創造主なる神だと約束されているのです。

 この祈りは、私たちに与えられた祈りです。主は、私たちにとっても

「わが岩、わが贖い主」

です。神のご計画は、私たちの心を置いてけ堀にする計画ではありません。私たち一人一人が、心から神に信頼し、何の隠し立てもない、神との交わりを持つ。それこそ、神のご計画の中心となる筋書きなのです。その回復のためにイエス・キリストが来てくださいました。主は、私たちとともにおられ、思いや言葉を深い所から変えて下さるのです。そのような一年を願いましょう。そうして、私たちがお互いにも、当たり障りのない関係ではなく、心からの、真実で、お互いを尊重し合う関係を築かせてくださるとも期待して、御言葉に聴いてまいりましょう。

 

「天地を造り、壮大なドラマを創造された神よ。あなたが、私たちの魂を生き返らせよう、喜びを与え、真実な者としようと願い、そのために御子イエスをも惜しまず与えられた恵みを感謝します。どうぞこの一年、一人一人を、あなたとの親しい御言葉の交わりに生かして祝福してください。大空や太陽、あらゆる御業をもって、心を深く励まし慰め、支え続けてください」



[1] この最初の「また」(ヘブル語「ガム」)は「それよりも」「何よりも」という意味の言葉です。


結婚式の説教

2015-10-10 16:21:12 | 説教

結婚式の説教

  「キリスト教は愛の宗教」
だと言われます。賛否はともかく、しかし、今日この結婚式においては、素直に、愛の神の祝福を願う気持ちになれます。神が愛の神であり、神に造られた人にとって、最も大切なのは互いに愛すること。神は愛を下さる方です。

 今、お二人は神の前で、また、ご両親の同意もいただいて、結婚の誓約をなさいました。これは、お二人が生涯の愛を誓った、教会の中で受け継がれてきた誓約の言葉です。

あなたは、自らを夫/妻としてささげ、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、順境の日にも逆境の日にも、いのちの限り彼/彼女を愛し、真実と誠を尽くすことを神と証人の前に誓いますか。

 しかし、これは、二人が生涯、恋愛感情を持ち続けて、新婚気分でいなさいよ、という意味ではありません。ラブラブな関係でいられたら理想的だ、ということではありません。結婚して過ごすうちに、恋人同士でいる時には見えなかった、見せていなかった部分が見えます。ハネムーンが過ぎ、違いや思うままにならないとしても、それでも、相手を大切にし、助け合い、支え合うように、という誓約です。
 「喜びの日も悲しみの日も、健やかな時も病める時も、順境の日にも逆境の時も」。
 ロマンチックだから言っているだけなら、いざ結婚して、貧乏や苦労が続くと
 「こんなはずじゃなかった」
と言いたくなるかもしれません。でも、何があっても相手を自分の大切な人として連れ添う、と誓ったのです。誓約は、今の感情を見せつけて交わすパフォーマンスではなく、今の感情がこの先、薄れても、それでもお互いに愛し合い受け止め合う、と誓う事です。

 難しいことでもあります。けれども、これこそ、恋愛では味わえない、深い愛です。自分のボロを見せ、失敗をして、失望させることもあります。男女の違い、育った環境の違いというものは大きくて、何十年連れ添っても、ますます相手は理解を超えているものです。しかしだから背を向けられる、というのでなく、それでも相手が自分と夫婦でいてくれて、一緒に生きていこうとしてくれる。そういう生涯の関係は、恋愛にはないものです。何があってもともに生きてくれる。それは、なんと有り難い愛でしょうか。
 そのためにも、お互いに、正直であってください。隠し事や嘘をつかず、問題には二人で向き合ってください。お互いをきずつけたり、辛く当たったりするような事は決してしないでください。恋人である以上に、よき友人、パートナーとなってください。

 これは、神が私たちに下さる愛によらなければ出来ません。むしろ自分の愛の限界に気づいて、神の愛を乞い求め、愛することを助けて戴くことも、結婚の大切な一面です。イエス・キリストは、私たちを愛しておられます。私たちのありのままをすべて知った上で、私たちを尊び、生かしておられます。神は、私たちに、愛し合いなさいという先に、ご自身が私たちを愛され、励ましや赦しを与えてくださる方です。そして、私たちが愛することを選び続けていく先に、愛において成熟した私たちの将来を見ておられるお方です。その神の愛の現実を土台として、私たちは自分の愛のなさに何度もぶつかりながらも、絶望せずに愛することができるのです。キリストの愛こそ、私たちの愛の土台であり、模範であり、希望です。今日の誓約が、お二人の愛を守ってくれますように。


詩篇23篇「恵みが追ってくる」

2015-07-20 08:11:04 | 説教

2015/07/12 詩篇23篇「恵みが追ってくる」

 羊は聖書で最もよく登場する動物です[1]。しかし、現代の日本人にはあまり馴染みがありません。ここの「緑の牧場」「憩いの水の畔(ほとり)」などのイメージを膨らませて、アルプスのハイジのような、長閑(のどか)で牧歌的な光景を勝手に想像しています。私、初めて羊を見たときはショックでした。羊は可愛くて、羊飼いが緑の牧場に侍(はべ)らせている、ではなかったのです。主は羊飼いとして私たちを導かれ、旅をさせるのであって、羊の所に美味しい牧草を持ってきてくれるのではありませんね。それでは「主は私の羊飼い」ではなく「召使い」です。江戸っ子でもないのに「羊」を「執事」にして、「主は私の「執事」かい?!」とツッコまれるような勘違いです。

 この詩篇を読んだダビデは、若き日、自分自身羊飼いをしていました。そこで体験していた通り、羊を飼うことは苦労が多い仕事でした。荒野では、いつも牧草を捜して移動します。狼や熊が襲って来たら守らなければなりません。羊は、弱く、迷いやすい動物でした。群れたがり、一頭が間違えばみんなゾロゾロついていくのだそうです。食べ物には貪欲で餌に釣られると簡単について行く、というのも私たちと同じです[2]。頭は余り良くなくて近眼だ、という人もいますが、意外と知能は豚よりも高く牛並みで、聴力も視力もいいらしいです。いずれにしても、羊は羊飼いが居なければ死んでしまう、弱い動物です。そして、羊飼いは、苦労の多い羊の世話を精一杯して、羊を丁寧に養い、導き、鞭で守り、杖で促しながら旅をさせるのです。

 1主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

は、羊のような自分の頼りなさ、貧しさと、その私を養ってくださる主への全面的な信頼と感謝を歌う言葉です。マックス・ルケードは、この詩篇二三篇を取り上げ、『心の重荷に別れを告げて』という本を書きました。この詩篇を一行一行紐解(ひもと)きながら、「疲れ、不満、心配、恐れ、悲嘆、絶望、罪責感、傲慢、寂しさ、恥、失望、妬み、疑い」といった「重荷」を丁寧に浮き上がらせます。私は乏しい、足りない、あれもないこれもない、と文句ばかり言いがちだったり、疲れて憩えない、心配事を抱えたり、後悔にいつも引っ張られてしまったり。あるいは、自分の死や、身近な人の死という「死の陰の谷」も通ります。人生には必ず起こる事です。禍や敵も襲って来ることがあるでしょう。恐れもあります。憎しみや、人を赦せない思いもあります。荒野のような人生には、沢山のストレスがあります。実際、詩篇を七つの範疇に分けると、最も多いのは「哀歌」で、六十以上あります[3]。その中に、この詩篇はあるのです。

 私たちは生きてゆくために、もっと賢く、強い羊になればいいのでしょうか。死の陰には近づかず、敵を作らないような処世術を身に着け、怒りや妬みや憎しみに流されない清い心を持てるよう修行をしたらいいのでしょうか。いいえ、この詩篇が言うのは、主が私たちの牧者でいてくださり、私たちを正しく導き、必要を満たしてくださる。ただそこにのみ、私たちの慰めと希望があるのだ、という信仰なのです。それは、イスラエルの王として、戦争や失敗、駆け引きや家庭の問題を抱えて生きてきたダビデの、経験に根差した深い確信です[4]

 6まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

 アブラハム・ヘシェルという方が、ここを「幸せが猟犬のように追って来る」と表現しています。幸せの方が私たちを追って来るのです。私たちは自分が幸せを追い求めていると考えます。自分の力で幸せになろうとします。そして、どうするのでしょうか。羊飼いである主のもとから飛び出して、違う所に幸せを求めようとするのです。ダビデ自身がそうでした。彼は、生涯に少なくとも九人の妻とそれ以上の側女(そばめ)を娶(めと)りました[5]。次々に妻を娶って、慰めを得ようとしました[6]。それでいて、彼は子どもたちを叱ったり躾けたりすることから逃げていました。ダビデの優しさの裏側には、「愛されたい」「嫌われたくない」という強い渇きがあったのだと思わずにはいられません。そして、有名なバテ・シェバの事件があります。部下ウリヤの妻バテ・シェバを見初めて子どもを孕(はら)ませてしまい、隠蔽工作にウリヤを、戦死を装って殺させ、他の部下たちも巻き添えにしてしまうのです。そのダビデの過ちは、ダビデの家庭もイスラエルの国家も深く傷つける羽目になりましたね。しかし、主はその深い渇きと闇を持つダビデにも、常にともにいてくださいました。ともにいるだけでなく、鞭や杖を振るわれて、間違いから強いてでも引き戻してくださいました。間違って夢見て追いかけた幸せではなく、本当の幸いである「いつくしみと恵みとが私を追って来る」という体験をしたのです。

 ダビデが王になったのが間違いだったわけではありません。私たちも、煩わしい荒野ではなく牧場に住んで幸せに暮らすことを願うとしたら、それは勘違いです。社会で生きるからには重荷や煩わしさは避けられません。疲れ、誘惑があるのです。だからこそ、主が私たちを羊飼いのように導き、いや、羊飼いの喩えでは収まらず、客をもてなす主人のように食事を整え、油を注ぎ、杯の飲み物も溢れさせて[7]、更には「いつまでも主の家に住まう」家族とさえしてくださる恵みに、繰り返して与ることが必要なのです[8]

 主なる神の前には「羊並み」の頭しかない私たちには分からないことだらけです。でも、ハッキリしていることは主に従って行く生活を通して、主は私たちに深い憩いを与え、私たちを生き返らせてくださるのです。そして、私たちには「死の陰の谷」としか思えない現実を通る時も、それも「義の道」であり、いのちへと続いているかけがえのない道であって、恐れることはないと信じるのです。なぜなら、主がともにいてくださるからです[9]

 この主が「インマヌエル(ともにいてくださる神)」としてこの世に来られました[10]。イエス・キリストは

「疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。わたしのくびきを追って、わたしから学びなさい。」

「わたしに従って来なさい」

と言われます[11]

「わたしはよい羊飼いです。よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てます」

と仰ったのです[12]。良い羊飼いであるイエスに私たちが従うことは、この世界の真っ只中で、私たちを力づけ、生き返らせ、重荷を下ろした歩みをくれます。慈しみと恵みとが、私たちを追いかけるのです。

 主に従うことは、ただついていけば楽になれる、という約束ではありません。主は御言葉に表された神の御心に従って、正しく、愛をもって生きられました。その主に従うなら、私たちもまた御言葉に従い、自分を捨て、低くなること、愛する者へと変えられて行くのです[13]。そして、愛に対しても私たちは思い込みや誤解が多いですから、具体的にはどのように生きることなのかを教えられることも必要です。でもそれは、難しい要求や、新しい負担ではありません。主に従い、御言葉に学んで、生き方を変えられながら、自分という重荷を下ろすのです。主が私の羊飼いであり、私たちに具体的な助けも日々のいのちを下さる恵みを、深く味わわせていただくのです。私たちもまたダビデのように、感謝と信頼の歌を歌うのです。

 

「主よ。自分があなたに養われる存在であることを忘れて、迷いだし、死にかけてしまう私たちを、今日この詩篇によって引き戻し、導いてくださって感謝します。あなたが私たちを生き生きと生かそう、荒野や死の陰でも、ともにいて、私たちを慈しみと恵みで捉えてくださいます。今ここに、悲しみや死や、恐れや疑い、孤独や無意味さなどに捕らわれている方がいたら、どうぞ羊飼いなるあなたが、その歩みに格別に関わって、新しい希望と信頼を与えてください」



[1] 直接の羊や、比喩的な用い方もあわせると、五百回以上登場するそうです。

[2] 「…聖書でこの類推[羊飼いと羊に準えること]が頻繁に用いられたのは、私たちをおだてるためではありません! むしろ、その類推は私たちがあの偉大な羊飼いの優しい、愛のこもった世話をどれほど必要としているかを絶えず思い起こさせるために役立っています。」フィー、333ページ。

[3] 「…そのことはおそらくそれ自体で、私たちに共通する人間性について何かを語っています。」ゴードン・フィー、『聖書を』343ページ。個人的な哀歌(三、二二、三一、四二、五七、七一、八八、一二〇、一三九、一四二篇)と、集団的哀歌(例えば、一二、四四、八〇、九四、一三七篇)として紹介されています。

[4]  この詩篇二三篇は、「私たち」ではなく、「私」と一人称単数が最後まで貫かれます。願いも嘆きもなく、感謝と信頼の告白のみなのです。

[5] Ⅱサムエル3章2~5節には六名の妻の名が、子どもとともに挙げられており、5章13節には「ダビデはヘブロンから来て後、エルサレムで、さらにそばめたちと妻たち[複数]とをめとった。…」と書かれています。また、最初の妻であり、後に取り戻した、サウルの娘ミカルもいました(同3章13~16節)。あわせて、少なくとも九名です。

[6] 申命記十七章17節では、王が「多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多く増やしてはならない」と明言されていました。

[7] 「私の杯は、あふれています」は、頭に注がれた油が杯にまでこぼれ溢れる、ということではありません。

[8] 羊飼い、と始まりましたが、5節では「食事に招かれた客と主人」になり、6節最後では「いつまでも主の家に住まいましょう」というのですから、客でさえなく、家人、家族となっています。羊飼いの喩えは、ユニークで含蓄に満ちていましたが、歌い続けているうちに、それでさえ足りなくなってしまう、というダビデの告白だったのです。

[9] 4節「あなた」は、ヘブル語で「アッター」という強調された代名詞が使われています。詩篇二三篇の単語は、ここまでが27字、この後が27字(表題の「ダビデの讃歌」を除く)。偶然かも知れませんが、ど真ん中、なのです。「あなたが私とともにおられますから」こそ、詩篇二三篇の中心的告白です。

[10] マタイ一23。

[11] マタイ十一28。

[12] ヨハネ十11。

[13] 主が導かれるのは、低くなり、自分を捨てていく道。弱さや死、破れや貧しさを受け入れ、主の養いに生かされていく道です。具体的には、共同体的に生きること、親離れや、責任ある行動、などが含まれます。そして、そうした生き方にこそ、いのちも憩いも回復もある。


Ⅰテサロニケ一9-10「復活以上のことを信じる」 復活日夕拝

2015-04-06 19:34:05 | 説教

2015/04/05 Ⅰテサロニケ一9-10「復活以上のことを信じる」

 

 今日開きましたテサロニケ人への手紙第一は、新約聖書の中でも、最も早く書かれた手紙ではないかと言われているものです。その中でも今日の箇所は、パウロがテサロニケの教会の信じた信仰がどんなものであったのか、思い出させる意味でも、簡潔にまとめている言葉です。教会が、最も早い時代から何を信じ、何を教え、何を伝えてきたのか、それを教えてくれていると言えます。そして、当然と言えば、当然ですが、ここにイエス様の復活のことが述べられていますね。

…あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

10また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、…

 もちろん、これはパウロがテサロニケに行ったときに、こういうことを教えたのですね。「神ではない偶像から、本物の神に立ち返りなさい。生けるまことの神に仕えなさい。そして、イエス様を待ち望みなさい。イエス様は、神が死者の中からよみがえらせなさった神の御子であり、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるお方です」と伝道していたのです。それを信じた人ばかりではなく、むしろ、大半の人々は、偶像から離れませんでした。復活だなんて馬鹿馬鹿しい、神の怒りだなんて信じたくない、と福音を嘲り、抵抗しました。けれども、これを信じる人もいたのです。

 ある人たちはこう言います。「現代は科学や医療が進んだから、復活だなんてあり得ないと知っている。昔の人なら、奇蹟や復活を信じられたのかも知れないが、自分たちは信じられるわけがないさ」と言います。けれども、聖書を見ると、今から二千年以上前の時代だって、奇蹟や復活は、普通ならあり得ないこと、信じがたい特別なことだと十分疑われていた事が分かります。昔だから信じられたのではありません。そして、今でも、「科学だ」何だと言いながら、「占い」だ「祟り」だ「風水」だなんて言っているほうがよっぽど可笑しいのではないかと思います。

 今日の箇所が教えているのは、教会は、イエス様の復活という奇蹟が本当に起こったのだと信じただけではない、ということです。奇蹟があり得るかどうか、という問題を論じて信じただけではないのです。もしそれだけなら、今、私たちがイエス様の復活を伝えても、「信じられないけど、そんな二千年も前の話、結局、どっちだっていいんじゃない?」という事になりますね。「よみがえったかどうかなんて、自分には関係ないよ」で済んでしまいます。そういう事ではないのです。

…神さまが死者の中からよみがえらせなさった御子[は]、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス…

 イエス・キリストが復活されたという信仰は、そのイエス・キリストが今も生きておられて、私たちにも新しいいのちを下さること、やがては神の正しい審判の時にも私たちを、罪に対する怒りから救い出してくださる、という信仰でした。私たちとは関係ない、昔々の遠い場所での不思議なお話、ではありません。いいえ、神さまがイエス様をよみがえらせなさったのは、イエス様を通して私たちを救ってくださるため、死を越えた力に、私たちも与らせてくださるためだったのです。その御力が、復活という事実に現されたのであって、復活とは死人が息を吹き返す以上のことだったのです。よみがえられたイエス様は、今も私たちとともにいてくださいます。そして、私たちのうちにその命を注いで、私たちを新しくしてくださるお方なのです。

 でも、その「新しいいのち」は、人間が思い描くような、特殊な能力とか人も羨むような輝かしく魅力あるもの、とは少し違います。9節に、

…あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

とありましたね。偶像から神(本物の神)に立ち返った、というだけでなく、生けるまことの神に仕えるようになった、とわざわざ言っています。神に仕えるようになる。これも、キリストの復活と切り離せないことですね。偶像から神に立ち返ったけど、その神様にも、自分がしたいことをお願いするばかりだったり、自分が輝いたり羨ましがられたりさせてくれることを期待するだけ、ということだってあるでしょう。でも、それは本当に、神を知ったことにはなりません。自分のために神様があるという思い上がりでしょう。自分が幸せになる秘密を見つけた、と考えているだけなら、神様を卑しめていることにしかなりません。

 「生けるまことの神」は、世界を作られた大いなる神です。いくら科学が進んでも、この宇宙のことではまだまだ分かっていないことの方が多いのです。動物や植物についての百科事典を完成させようとしたら、どれ程の量になるか分かりませんし、読めるだけを読んでも到底理解できないぐらいのものです。その世界を作られた神様は、もっと偉大なお方です。そして、この神は正しいお方です。罪を見逃さず、深く怒り、悲しまれ、裁かれるお方です。しかし、その神が、御子イエス・キリストをこの地上に送り込まれ、十字架の死にまで謙る道を行かせられました。私たちのために、です。そのイエス様をよみがえらせなさいました。イエス様は今も生きておられて、私たちに、この信仰を与えてくださるのです。偶像を信じたり、偶像に願ったり、神ならぬものに仕えて、振り回される生き方から、生きておられて、大いなる神で、そして、本当に真実で尊いまことの神様に仕える生き方を与えてくださっているのです。

 10節の

「救い出してくださる」

は未来形ではなく、現在形なのです。御怒りも、イエス様がおいでになるのも「やがて」のことです。でも、イエス様の助けは「やがて」の将来のことだけでなく、今の私たちに与えられている現実です。よみがえられたイエス様は、今も私たちを助けて、救い出してくださっています。神の御怒りを受けるような生き方の間違いに気づかせ、世界が自分を中心に回っているかのような勘違いに気づかせてくださいます。イエス様は、今も生きておられ、私たちに働いて、新しい心を下さって、導き、助けてくださっています。イエス様の復活とは、そういう約束なのです。


2015墓前礼拝

2015-04-06 19:33:03 | 説教

2015/04/05 墓前礼拝

 

 今日、ここに、鳴門キリスト教会の墓前礼拝に集まってまいりました。同じこの場所に、ともに墓前礼拝のために集まってはいても、それぞれの思いは違うのでしょう。何年も経っても未だに思い出すと苦しくなるという方もおられるかもしれません。それほど歳月は経っていなくても、もう悲しみよりも感謝の思い出の方が大きい、という方もいらっしゃるかも知れません。亡くなった年齢、突然か長く伏せっておられたか、ご本人が苦しまれたか安らかだったか、といった亡くなり方、最後の交わした言葉、別れや「有難う」の言葉を言えたかどうか。また、皆さんご自身の性格も関係するでしょう。そういう、様々な方々が集まっている所で、一括りにお話しすることの難しさを感じました。

 死、あるいは死に別れる、とはそういうものです。どれも思いもかけない死であり、誰も自分の死に方を予想することは出来ません。そして、やり残しなく、キレイなタイミングで死ねることはまれで、何故なんだと問わずにはおれない状況であろうと、訪れるのが死です。そして、そういう様々な死、ありとあらゆる死別を含めて、主イエスは私たちの所に来てくださり、ご自身が死を味わわれ、よみがえってくださって、私たちに語りかけておられます。どのような死であろうと、その死は終わりではない。また、私たちがやがてどのような死に方をして、この世を去り、からだを葬ることになったとしても、それが終わりではない。いつ、どんな去り方をしようとも、それが決定的なことではない。その先に、なおキリストは、いのちがあることをご自身の死と復活によって示してくださいました。

 墓標に、「我らの国籍は天にあり」と書いてあります。これは、聖書のピリピ人への手紙3章20節にある言葉です。少し前の18節から読みます。

ピリピ三18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 神の御子キリストは、「万物をご自身に従わせることのできる力」を持っておられます。でも、イエス様ご自身は、万物を従わせる力があるのに、その力で何でも「エイヤッ」と片づけたり、ご自分に都合良く世界を変えようとなさったりした方ではありませんでした。その力をもって、イエス様は私たちのところまで降りて来てくださり、人間として最も貧しい生涯を歩まれました。十字架の死という苦しみまで味わってくださいました。そして、その末に、日曜日の朝、よみがえってくださったのです。今日はそのことを記念するイースターです。

 言い換えれば、イエス様は、その力で私たちに近づいてくださったのです。私たちの生身の人間としての思いを分かち合ってくださったのです。そうして、私たちに天の国籍を与えてくださったのです。私たちを天国や楽園にたちまち入れる、というのではなく、悲しみや痛みがある今ここで、天に国籍を持つ者として歩むようにしてくださったのです。神様は愛の神ですから、私たちを愛されて、天の国籍を持つようにとその力をお使いになったのです。

 でも折角そんな神様の素晴らしい愛があるのに、そっぽを向いて、自分の事ばかり、自分の目の前のこと、人を押しのけたり無視したりして、自分さえ良ければいい、と考えるのが私たち人間に染みついている考えですね。「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいる…彼らの最後は滅び…彼らの神は彼らの欲望…彼らの栄光は彼ら自身の恥…彼らの思いは地上のことだけです」と言われていたのはそういうことでしょう。

 墓前礼拝は、私たちが、自分の今の生き方をもう一度考えさせられる時です。地上の事がすべて、という思いが如何に虚しいか、惨めか、を振り返らされます。同時に、「我らの国籍は天にあり」です。キリストは天の国籍を下さいます。今、天に国籍を持つ者として生き、やがては死なせてくださいます。死の悲しみも知りつつ、死を恐れたり目をそらしたりせず、その先にある希望を知らせてくださいました。私たちを愛するキリストは、世界を支配しているほどの力で、私たちのうちに働きかけ、私たちのために苦しみ、死んで、よみがえって、天の国籍を下さったのです。どうぞ、主がその力によって、皆さんの悲しみを十分に包んでくださいますように。また、皆さん自身の天の故郷に帰るまでの歩みも日々助けてくださり、何よりも、キリストにしっかりと繋がらせて、歩ませてくださるようにと、祈りたいと思います。