聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2015墓前礼拝

2015-04-06 19:33:03 | 説教

2015/04/05 墓前礼拝

 

 今日、ここに、鳴門キリスト教会の墓前礼拝に集まってまいりました。同じこの場所に、ともに墓前礼拝のために集まってはいても、それぞれの思いは違うのでしょう。何年も経っても未だに思い出すと苦しくなるという方もおられるかもしれません。それほど歳月は経っていなくても、もう悲しみよりも感謝の思い出の方が大きい、という方もいらっしゃるかも知れません。亡くなった年齢、突然か長く伏せっておられたか、ご本人が苦しまれたか安らかだったか、といった亡くなり方、最後の交わした言葉、別れや「有難う」の言葉を言えたかどうか。また、皆さんご自身の性格も関係するでしょう。そういう、様々な方々が集まっている所で、一括りにお話しすることの難しさを感じました。

 死、あるいは死に別れる、とはそういうものです。どれも思いもかけない死であり、誰も自分の死に方を予想することは出来ません。そして、やり残しなく、キレイなタイミングで死ねることはまれで、何故なんだと問わずにはおれない状況であろうと、訪れるのが死です。そして、そういう様々な死、ありとあらゆる死別を含めて、主イエスは私たちの所に来てくださり、ご自身が死を味わわれ、よみがえってくださって、私たちに語りかけておられます。どのような死であろうと、その死は終わりではない。また、私たちがやがてどのような死に方をして、この世を去り、からだを葬ることになったとしても、それが終わりではない。いつ、どんな去り方をしようとも、それが決定的なことではない。その先に、なおキリストは、いのちがあることをご自身の死と復活によって示してくださいました。

 墓標に、「我らの国籍は天にあり」と書いてあります。これは、聖書のピリピ人への手紙3章20節にある言葉です。少し前の18節から読みます。

ピリピ三18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 神の御子キリストは、「万物をご自身に従わせることのできる力」を持っておられます。でも、イエス様ご自身は、万物を従わせる力があるのに、その力で何でも「エイヤッ」と片づけたり、ご自分に都合良く世界を変えようとなさったりした方ではありませんでした。その力をもって、イエス様は私たちのところまで降りて来てくださり、人間として最も貧しい生涯を歩まれました。十字架の死という苦しみまで味わってくださいました。そして、その末に、日曜日の朝、よみがえってくださったのです。今日はそのことを記念するイースターです。

 言い換えれば、イエス様は、その力で私たちに近づいてくださったのです。私たちの生身の人間としての思いを分かち合ってくださったのです。そうして、私たちに天の国籍を与えてくださったのです。私たちを天国や楽園にたちまち入れる、というのではなく、悲しみや痛みがある今ここで、天に国籍を持つ者として歩むようにしてくださったのです。神様は愛の神ですから、私たちを愛されて、天の国籍を持つようにとその力をお使いになったのです。

 でも折角そんな神様の素晴らしい愛があるのに、そっぽを向いて、自分の事ばかり、自分の目の前のこと、人を押しのけたり無視したりして、自分さえ良ければいい、と考えるのが私たち人間に染みついている考えですね。「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいる…彼らの最後は滅び…彼らの神は彼らの欲望…彼らの栄光は彼ら自身の恥…彼らの思いは地上のことだけです」と言われていたのはそういうことでしょう。

 墓前礼拝は、私たちが、自分の今の生き方をもう一度考えさせられる時です。地上の事がすべて、という思いが如何に虚しいか、惨めか、を振り返らされます。同時に、「我らの国籍は天にあり」です。キリストは天の国籍を下さいます。今、天に国籍を持つ者として生き、やがては死なせてくださいます。死の悲しみも知りつつ、死を恐れたり目をそらしたりせず、その先にある希望を知らせてくださいました。私たちを愛するキリストは、世界を支配しているほどの力で、私たちのうちに働きかけ、私たちのために苦しみ、死んで、よみがえって、天の国籍を下さったのです。どうぞ、主がその力によって、皆さんの悲しみを十分に包んでくださいますように。また、皆さん自身の天の故郷に帰るまでの歩みも日々助けてくださり、何よりも、キリストにしっかりと繋がらせて、歩ませてくださるようにと、祈りたいと思います。

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