goo blog サービス終了のお知らせ 

聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

元旦礼拝 エペソ四1~7「その召しにふさわしく」

2015-01-01 21:40:57 | 説教

2015/1/1 鳴門キリスト教会元旦礼拝 エペソ四1~7「その召しにふさわしく」[1]

 

 初めて新年をご一緒に迎えることが出来て、本当に感謝をしています。そして、私にとっては2年目に入っていく今年、そしてこれからの歩みに、主がどんなことをご計画なさっているのか、と思いを馳せます[2]。私自身、牧師としてまだまだ成長したい、教会に仕え導くために、もっと整えられたいと願いながら、昨年読んでいた本に、牧師のリーダーシップであるべきビジョンとして、こんな言葉を印象深く読みました。

「わたしたちが人種や文化を乗り越えて、枝葉の神学上の違いに執着せず、キリスト教の核となる教理に集中して、自分たちが神の民として許容される仕方で、キリスト者の自由という原則を実践する…。そのような会衆についての実際的な試金石は、教会員全員が確信をもって(回心した人も、そうでない人も、経済的に豊かな人も貧しい人も、高学歴の人もそうでない人も、肌の色が黒くとも白くとも)、友として受け入れ、礼拝に共に集うことができるかどうか、です。」[3]

 教会員全員が確信をもって、様々な人を友として受け入れ、礼拝に一緒に集うことが出来るかどうか。同じような事を、今月の後半に参加してきます教会からも、祈りの課題として投げかけられました。

「主が、自分のいる教会を「すべての民の祈りの家」としてくださるよう祈りましょう」

 この教会に、色々な国の人が来る。肌の色や言葉、文化の違う人が来る。それは、面倒くさいことでもあるかもしれません。また、これはアメリカの教会での表現であって、日本ではまた違った言い方が必要かもしれません。多国籍になることは勿論ですが、そうでなくても、判で押したような教会になるのではなくて、本当に色々な方が集まっている。そこで、簡単に「クリスチャンとはこういう人」などと言えないくらい、個性溢れる人が集まってくることも喜べるというのは大事なチャレンジだなぁと思わされます。

 今日開きましたエペソ書の四章最初は、エペソ書の丁度真ん中に当たりますのが、この四章の冒頭です。ここまで一章から三章まで語ってきた、神様の奥義、救いのご計画を踏まえて、パウロは、「その召しにふさわしく歩む」ことを、ひと言で言えば、

 2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

と要約しています。パウロはエペソ一9で「みこころの奥義」を、

一9…この方[イエス]にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、

10時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

と述べています。すべてのものがキリストにあって一つとされること。それが、御国であり、神様のご計画であり、救いの完成です。キリスト教の「救い」やゴールは、ただ私たち一人一人が天国に入るとか永遠のいのちを持つというだけの、個人的な、バラバラのことではありません。神様が世界をお造りになった最初に、人間を共同体としてお造りになり、ひとつの家族としてお造りになったのです。罪のために人間は自己中心的になり、自分さえよければいいと考えるようになってしまいました。そこからイエス様の十字架と復活の御業に与って、救われるというのは、ただ私たちが罪の罰や地獄を免れさせていただく、というだけではありません。神様がもともと私たちやこの世界をお造りになった時にご計画なさっていた、万物が一つになる、という「奥義」を全うしてくださる、ということです。そういう、創造から終末までの御心を視野に入れた、ご計画の中で、私たちが召されて、信仰を与えられているということです。その神様のご計画と御業を知り、信頼することが土台にあるのです。

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

と言われています。「御霊の一致を熱心に保ちなさい」であって、「一致しなさい」ではないのですね。キリストの御業に基づいて、御霊は私たちを既に一つとしてくださっています。その一致を「保つ」のです。「一体感を持ちなさい」とか「一致しなさい」ではありません。私たちはもう既に、主イエス・キリストの御業によって「ひとつ」です。そしてそれは、本当に豊かな「一つ」です。一世紀のローマ社会では、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人が主にあって一つである、という告白にこの福音の奥義が現れていました。全ての国の民が集まって、ともに主に祈りと礼拝を捧げる、という教会の姿が、見える形になっていった。それが、教会でした。今でも、教会がそのような場所であることは大切です。個性や趣味や感じ方、性格、文化はガッカリするほどバラバラであったとしても、それでも、そのような異なる同志の私たちを、主が愛し、御国に召して、ひとつの教会に連ならせてくださった、という事実が、「御霊の一致」です[4]。もし、ここに、「一体感」とか人為的な「一致」を持ち込もうとするなら、それこそは「御霊の一致を保つ」のではなくて、むしろ壊すことになります。大事なのは、私たちにとっての好ましい一致があることではなくて、本当に違う者たち同志が、キリストへの信仰にあって既に「一つ」である、ということです[5]

 この御霊の一致を熱心に保ちなさい、と強く勧められています。「御霊の一致」に召された者として相応しく歩むようにと勧められています。それには、まず、主が私たちを召してくださった「御霊の一致」、望みや信仰告白における一致をシッカリと学び、知る事です[6]。何でもありの一致ではなく、主にあっての一致です。もう一つが、私たち自身の人格的な成長です。

 2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 私たちが、お互いの違いをただ我慢したり目を瞑ったりするのではなくて、謙遜になり、柔和になること-自分の価値観を手放すこと-、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合うこと、そういう私たち自身の変化、成熟が、御霊の一致を内実のあるものにするのですね[7]。「私は罪人です。神様の恵みによって救われました」と心から言っているつもりでも、教会に来た人を見て「あの人は受け入れたくないなぁ」と思っているとしたら、自分がまだまだ傲慢で、救いの恵みを受ける資格があったかのように思い上がっていた事に気づかされます。そして、人間的な事で裁いたり「クリスチャンらしさ」という枠を作ったりするのではなく、本当に御言葉に聞き、主の福音にあって、一つである教会を目指して行く。そのためにも、教会に、様々な人が来ることは本当に主の恵みなのだと思います。

 私たちが来て欲しい人を選ぶのではなくて、福音を必要とする人、主が愛しておられるのはすべての人であって、そういうご計画へと私たちは召され、教会はその現れである事を問われ、求めていくのです。この一年も、主はそのような告白へと私たちを育てようとしておられます。

 

「教会のかしらなる主よ。あなた様の十字架と復活の御業によって、万物を一つとする御業は既に与えられています。どうか、この土台を別のものにすり替えることなく、私たちを心からの、愛の一致へと召された事実を弁えさせてください。この一年、礼拝と交わり、祝福と苦難、学びと体験を通して、一人一人が「謙遜と柔和と寛容と愛」に成長させていただけますように」



[1] 昨年から、週報の表紙に書いていた「年間聖句」が、このエペソ書四章冒頭の言葉ですが、ここから直接お話しすることは一度もしないまま、一年が過ぎてしまいましたので、2015年も同じ箇所を掲げることにして、元旦にここからお話ししておきたいと思いました。ただ、夏期学校でも、月報の巻頭言(2014年11月15日の「徳島キリスト者平和の集い」での説教)でも、お話しして来たことではありますので、初めて聞く話ではない、という方もいらっしゃると思います。

[2] 勿論、主のご計画されている出来事は、起きてから分かるものですから、先に今予想することは出来ません。また、明らかにされている御言葉においても、地上での幸いや繁栄に心を向けず、私たちの生涯は天の御国への旅路であり、禍や試練を通して、私たちが訓練されることが御心であると教えられています。決して、良いことばかりが起きると期待するのではありませんが、すべてを働かせて益としたもう主の御真実があって、この年にも、厳しいかも知れないけれども、深く、力強い、素晴らしいご計画が備えられているのです。そして、御言葉を通して、主が私たちにどんな事を語っておられるのかは、十分に教えられています。その主の導きを信じて、主の御声に心を開いて、共に聞いていきたいと願います。

[3] ドナルド・マクラウド『長老教会の大切なつとめ』(原田浩司訳、一麦出版社、2010年)25-26頁。前後から引用すると次の通りです。「わたしたちはそれぞれに置かれている状況に応じて、聖書が意味するところを受け持たなければなりません。それは、わたしたちにとっては、自ずとより広い共同体へと及び、そして、ただ自分たちがキリスト者であるという点において、すべてのキリスト者を喜んで迎え入れるように備える、この会衆、この教会を意味します。このことは、わたしたちが人種や文化を乗り越えて、枝葉の神学上の違いに執着せず、キリスト教の核となる教理に集中して、自分たちが神の民として許容される仕方で、キリスト者の自由という原則を実践するよう要求します。そのような会衆についての実際的な試金石は、教会員全員が確信をもって(回心した人も、そうでない人も、経済的に豊かな人も貧しい人も、高学歴の人もそうでない人も、肌の色が黒くとも白くとも)、友として受け入れ、礼拝に共に集うことができるかどうか、です。」

[4] 「召し」一18、四1、4、(動詞も、四1、4で)

[5] これは、いわば「使徒信条」の「我は…公同の教会を信ず」につながります。「使徒信条」そのものが、「ひとつの信仰」である。

[6] 「ひとつの望み」とも言われますが、「望み」はエペソ書では、一18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」、二12「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」と出て来ます。また、一12の「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」は「プロエルピゾー」で「望み(エルピス)」の派生語です。直接「望み」という言葉の意味説明はありませんが、その前後で語られている約束(特に一10のご計画)に対する態度として生み出される「望み」だと言えるでしょう。奥義の実現、御国をともに受け継ぐ、という望みです。

[7] キリスト教の倫理は、互いに愛し合うこと、隣人を自分のように愛すること、キリストが愛してくださったように愛し合うことに尽きるのですが、それも、一人一人が、立派な愛のある人になれと言われているのではなくて、神様の御心が共同体的なもの、一つとされることだからです。また、私たち一人一人が謙遜と柔和と寛容と愛を完備することによって、御霊の一致が生み出されるのではありませんし、私たちの愛や謙遜が足りないことで、御霊の一致が壊れてしまうのでもありません。神様の御心の奥義は、そんな脆く儚いものでは断じてありません。主の下さった豊かな召しが、私たちの傲慢や独り善がりを砕いて、私たちのうちに愛を育てるのです。


へりくだつて行く勇気と愛を  賀川豊彦記念館クリスマス会

2014-12-23 18:28:17 | 説教

賀川豊彦記念館クリスマス会

「へりくだつて行く勇気と愛を」

2014年12月23日

 

 鳴門キリスト教会で、今年の四月から牧師になりました、古川和男と申します。昨年の丁度今頃、初めて、徳島の地を踏み、正式に引っ越したのが春です。まだ鳴門のことも徳島のことも知らないことだらけです。今日は、「クリスマス会で、クリスマスについてお話しを」と言うことで、喜んでお引き受けしました。折角ですから、この機会に、賀川先生が、クリスマスについてどんなお話しをされたのだろうか、クリスマスに教会で説教された資料はあるのだろうか、と調べて、いくつか読んでみることにしました。その中で見つけたのが、今日、タイトルにしました言葉、「へりくだつて行く勇気と愛とを」という言葉です。これは、賀川豊彦先生の文章です。「光の子の勇躍 -クリスマスの意味-」という文章の最後に、祈りが書かれていて、その中に出て来ます。全部を読んでみます。

 父なる神 煙突の立並ぶ世界に於ては、われらに魂の自由はなく、空が曇つて居るやうに我々の魂も曇り勝ちであります。願はくは父よ、星に導かれて、キリストを拝せし人々の如く、我々にキリストの光を照し給へ。あなた御自身を我々の魂の中に生れさす、真のクリスマスを経験させて下さい。キリストにつく一人一人を選び、キリストの代表者として使命のある処にキリスト精神をもつて化身し、へりくだつて行く勇気と愛とを与へて下さい。そして困つてゐる人々に常につくす愛を持たして下さい。/日本の闇は深うございます。どうか、いと小さきキリストとして化身することを得さしめ、各々に新しいクリスマスの意義を発見せしめて下さい。主によつて祈ります。アーメン[1]

 「へりくだつて行く勇気と愛」。これが、賀川先生のクリスマスを言い表している、と言っていいのではないでしょうか。

 ご存じではない方もおられるかも知れませんが、クリスマスとは「キリスト」の「ミサ(お祭り)」という意味です。キリストの誕生をお祝いするのですが、これも賀川先生自身が書いている文章があって、聖書に「キリストの誕生日は12月25日だ」と書いている訳ではない。これは、もともとローマの冬至のお祭りでした。冬至とは、一年で一番日が短くなる日です。そのお祭りを、キリスト教が広まっていった時に、止めさせてしまうよりも、キリスト教のお祭りに取り入れてしまおうとした、という説が一番有力なようです。ですが、大事なのは、キリストの誕生日がいつなのか、ではないのですね。神の子であるキリストが、人間の一人となってこの世界に来て、普通の人間と同じように母マリヤからお生まれくださったという事実が大切なのです。そして、それが昔の一度きりで終わりの出来事ではないし、私たちにとってはどうでもよい出来事ではなくて、神様はいつも人間を深く心に掛けておられ、私たちとともにおられるお方だ、と喜び祝ったのです。神は、謙ってくださるお方で、高ぶる者(自分を正しいとする者、人間の中でも偉いなぁスゴいなぁと崇められる人)よりも、助けが必要な弱い人、底辺にいる人、自分なんか駄目だと心が砕けた人、そういう低い人の所にまで降りて来てくださって、ともにおられる。そういう信仰がクリスマスの信仰なんだ、と言うのです。

 賀川豊彦先生が、神戸新川のスラム街に移り住んだのは21歳の時でした。徳島から神戸の神学校に入ったのですが、そこで喀血をし、死線を彷徨った末に、残り少ない自分の人生を貧民街での伝道に捧げようと決断した行動だったそうです。スラムの風紀は滅茶苦茶で、賀川の住んだ宿は一年前に殺人事件があった血痕も生々しく残っていて、喧嘩、売春、脅しは日常茶飯で、「もらい子殺し」という悲惨な現実もありました。親がわが子たちを虐待し、売り飛ばし殺すことさえあった中に、賀川は飛び込んだのですね。そこから、賀川の社会運動が始まったのだそうです。

 実は、彼が貧民街に入ったのは、1909年のクリスマス・イブのことでした。何も好きこのんでクリスマスにそんなことをしなくても、と言う人もいるかも知れません。今でも、クリスマスぐらいは家族で楽しく過ごしたい、好きな人と二人きりでデートしたい、という雰囲気がありますね。楽しみに出かけようとすると仕事が入ったりしたら、「折角のクリスマスなのに…」と言うのではありませんか? そういう感覚で言えば、賀川が貧民街に入るのも、クリスマスが終わってからにしてもいいんじゃないか、と同情を込めて思うでしょう。けれども、賀川先生にしたら、クリスマスこそ、相応しかったのではないでしょうか。「神の子が謙って、天から降りて来てくださった。そして、低い者を愛してくださった。だから自分も、スラムの人にキリストの愛を伝えよう。折角のクリスマスなのに、じゃなくて、クリスマスだからこそ、自分もそこに行こう」と思ったのではないでしょうか。

 賀川は、自分が特別なことをしている、という意識はありませんでした。既に、賀川より先に、キリスト教者会運動家の多くが、クリスマスの精神をもって、ロンドンの貧民街で働いていた。そのことに賀川は、深い感銘を受けていました。「へりくだつて行く勇気と愛」を持って生きている先輩たちがいたことに倣って、自分の生き方を決めました。そして、その賀川先生が残した足跡が今でもこうして記念されていますし、多くの人に影響を与えているのではないでしょうか。そういう人の存在そのものが、クリスマスって言うのは、浮かれて楽しむだけのものとは全く違うお祭りなのだと思い出させてくれています。

 もしクリスマスの意味を忘れて、ケーキを食べてプレゼントをもらって、ロマンチックに過ごせたらいいぢゃないか、と言っていたら、実は却って味気ないものになります。何かがあれば、「折角のクリスマスなのに」と気分を害されてしまうでしょう。病気になったり悲しいことがあれば、クリスマスを楽しんでいる人たちが目に入るだけでも、言いようのない苦しい気持ちになるでしょう。孤独がいつになく身に応える、一番キツい時になるでしょう。人生はそんなにハッピーな事ばかりではないからです。皆さんの中にも、今とても大変な思いをしている方がいるかもしれません。今年、大事な人が亡くなったとか、難しい病気になってしまったとか、家族が壊れそうだ、そんな人がいらっしゃって、ホントはクリスマスなんて気分じゃないんだよなぁと思いながらここに来られた方がいらっしゃるかも知れません。でも、賀川先生は言うのです。そういう人の所にキリストが来てくださったのがクリスマスなんだ。そして、賀川自身が、自分も貧民街に飛び込んでいったのですね。聖書の中に、クリスマスをこんな表現で伝えている言葉があります。

ヨハネ一5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 真っ暗な闇、墨を流したような漆黒の闇も、光を打ち負かすことは出来ません。決して出来ません。光は闇の中で輝きます。クリスマスは、闇に光が届いたこと。クリスマスの喜びは、何かによって台無しにされるようなものではありません。夢も希望も持てないような人間の所にこそ、キリストが来てくださった。そういう愛があるんだ。だから、どんなことが起きても、「せっかくのクリスマスなのに」ではなくて、「こういうことが起きる私たちの所に、キリストがお生まれになったのだ」と思うことが出来る。だから私たちもそこで、謙っていく勇気と愛を持っていこう、そう思わされるのがクリスマスなのです。

 今年103歳になられた、日野原重明先生がこんな文章を書いているのを見つけました。1959年に賀川豊彦先生が亡くなる前年のクリスマスの朝です。

「私は昭和34年12月25日のクリスマスの朝、先生をご自宅に往診しましたが(55年前、日野原先生が58歳のときの記録です)、その時、先生は米国の友人から送られたW. オスラーの内科教科書(16版)の扉に寝たままで、こう書かれていました。この字は先生の絶筆でしょうから、きわめて貴重なものだと思います。

 太陽は 世界隅々 照らし行けど、

 之を蔽う 罪の黒幕

 之を取り去る愛と従十字架

 感謝の1959年のクリスマス

 賀川豊彦」

 太陽は世界の隅々まで照らしているが、それを罪の黒幕が覆っている。でもそれを、取り去るのが愛と十字架がある。もう起き上がれない中、社会事業も奉仕も出来ない身で、「感謝のクリスマス」と記したのでしょうか。そうだとしたら、私たちもそういう心をもらえたらと思いますね。世界にある黒幕のような罪の闇はあるのです。でも、そこにキリストが来られたことに、賀川は希望を見ました。神様の愛のわざの始まりを信じました。でも、それを信じただけじゃありませんでした。自分もまた、勇気と愛を与えられて、その働きに参加して人生を送ったのですね。こういう感謝が賀川の絶筆だったのです。

 私にはとてもそんな真似は出来ませんし、皆さんにも、賀川の真似を勧めているのではありません。それに、ただ「真似」をするのだとしたら、それは「謙っていく勇気と愛」ではなくて、真似してスゴいなぁ、偉いなぁ、と言われたい、という動機でしているに過ぎないですね。犠牲を払う、人生を捧げるということが、結局、自分の名誉や充実感のためになされるのだとしたら、それは偽善でしかありません。少なくとも、クリスマスの示す方向とは反対なのです。一人一人、神様がどんな思いを与えて、どんな人生へと導かれているかは違います。社会事業に身を投じて、後世に名を残すというドラマを夢見るよりも、自分が置かれている自分の人生、家族や仕事、出会いやボランティアを、地味だとか詰まらないと思わないで、大切に受け止めることが必要なのかもしれません。そんな「地味だ、詰まらない、そんなことに人生を捧げるなんて勿体ない、意味がない」そう思われていたような人の所に駆け下りていった人がいる。それこそが、クリスマスなのです。

 こう言い換えてもいいでしょう。私たちは、賀川豊彦のような物語に触れると、「そういう人は素晴らしい、そんな人生は輝いている、それに比べて、自分はなんて詰まらない、価値のない人生を送っているんだろうか。自分も、もっと人から喜ばれたり誉められたりする人間にならないと生きている価値がないんじゃないか」とでも言うような思いを持ってしまいがちです。「人間の価値は、どんな事をしたか、どれだけの業績を成し遂げて、多くの人に感謝されたか、で決まる」…言葉にすれば、そんな考えに縛られていないでしょうか。社会事業や慈善活動が、そんな動機でなされていることは少なくないのでしょう。

 けれども、クリスマスが伝えているのは、私たちが優しくしましょう、困っている人を助けましょう、と発破を掛けるお説教ではないのですね。そんなことなら、いつでも言えるのですし、社会事業家を生み出すだけのメッセージ性もなかったでしょう。神の御子が私たちのために、謙って来てくださった。勇気と愛がなければ出来ないような謙りを、私たちのためにしてくださった。神様は、それほどに、私たちを愛しておられて、私たちを尊い存在、価値ある、かけがえのない一人として見てくださるのだ。そして、闇を闇で終わらせないし、私たちを光の子としてくださる。そういう喜びなのです。自分が何かをする、人から誉められたり感謝されたりすることは大切です。でも、自分の価値を見つけたくて-人から認められたくて、もっと言えば、愛されたくて-犠牲をも惜しまないのであれば、痛々しいです。そういう心は、いくら頑張ってもすぐに闇が戻って来ます。

 クリスマスは、そんな私たちの心の闇深くに神が降りて来てくださった。私たちと一緒に住むことを喜ばれた。闇しかないような心にも光をもたらしてくださった。何かをするから価値がある、出来なければ価値が下がる、そんな価値ではなく、今すでに愛されている者とされている、そこに喜ぶことが出来るのです。そして、その深い感謝、安心感、気づきから、私たちもまた、謙っていく勇気と愛をもって生きていくことが始まるのです。渇きとか恐れ、「何かしなくちゃ」という焦りや強迫観念からではないのです。クリスマスは私たちに喜びをもたらして、そこから、では私たちも、出て行こう、惜しまない心で生きていこう、恐れずに勇気をもっていこう、「こうしたらどう思われるかな、こんな人のために何かするのはいやだな」なんて思わずに愛をもって仕えていこう。そういう、痛々しくない奉仕を、賀川もさせてもらったのだと思うのですね。

 そして、もう一つ言えば、賀川先生も限界がありました。批判をする人もいますし、今からしたら理想主義だったな、と見えるところもあるのです。中傷するつもりではありません。むしろ、聖人ではなかったんだな、と分かってホッと出来るんだと思うのです。自分の限界を知らないで、何でもしよう、あらゆる期待に応えよう、自分が世界を変えよう、なんて思っていると疲れます。また、誰かのために何でもやってあげる人になると、甘えさせたり、頼らせてしまったりして、本当にその人を助けることにはなりません。善意であっても間違っていることもあるし、一生懸命やっても足を引っ張っているだけだったりする。みんなが謙って、勇気と愛をもって生きていくためには、自分が全部やろうとしてはいけないのですね。賀川の回りにも、すぐに助ける人たちが出て来ました。協力者たちが賀川を支えていました。自分の限界をちゃんと弁えて、人の助けを喜んで受け取ることも、謙遜と勇気と愛があるから出来ることでしょう。助けられることも、助けることも、喜んでいられたら幸せですね。

 神様が、私たちのために大事なひとり子イエス様を下さった。そのクリスマスを心からお祝いするには、私たちも、もらうことばかり考えるのがクリスマスではないと知ることがスタートです。プレゼントやケーキやロマンスを自分のために用意して、自分が幸せにしてもらうことばかり考えていては、本当にクリスマスを祝うことは出来ません。そうでないと、どうしても足りないことが目について、文句や不満になって、一番大切なイエス様の謙りがどうでもよくなってしまいます。だから、贈り物をし合いましょう。もらいましょうではなく贈りましょう、という習慣が始まりました。貧しい国、苦しい生活をしている人たちも、クリスマスはお祝いをして、贈り物を贈り合って、明るい気持ちで過ごそうとします。そうやって、キリストの愛を感謝しているクリスマスは、いいですね。

 皆さんも、賀川豊彦という尊い歩みから、彼を動機づけていた、キリストの謙りと勇気と愛を覚えていただけたら、そして、心に光をいただいて、謙っていく勇気と愛を覚えて戴けたらと思います。この話の続きを聞きに、ぜひ、お近くの教会にいらしてください。

 

 クリスマスの意義とは、一年中の一番日の短い最も暗い時を、最も明るい日にしようとする運動である。そしてそれが光の子の使命である。それでクリスマスには星が附きものになってゐる。…即ち最も暗い冬至に、星と光を持ち込まうとする運動であつた。[2]

 化身とは、上なる力を以て下界を引上げようとすることであつて、此処に真のクリスマスの意味がある。パウロは…イエスが、神の形を捨てて、奴隷の姿をとつたことを記してゐる。<ピリピ二・五-八>これが真のクリスマスである。そしてまたこれが近代に於るキリスト教者会運動の根本動機となつた。私は十七歳の時に…ピリピ書第二章のこの言葉から…感激を受けたことを今でも忘れない。キリスト精神とは即ちこれである。高い地位に居れる筈のものがわざわざ身を低くして、下々の人に仕へる為に天才も天分も自由も放棄する。…この天上と下界の隔を打くだいて、キリストが下降した所にローマ時代に曾て無かつた所の大運動が起されたのである。さうしてそれが今日にまで及んでゐるのである。[3]

 我々のクリスマスは、クリスマス・ツリーが無くてもいい。然しそれは魂のクリスマスであらねばならぬ。アンナとシメオンにとつては、キリストを理解し、キリストを信じた時がクリスマスであつたのだ。汚れた世界に光を見た時が、我々のクリスマスでなければならない。曲つた針がねのやうな世界に於て、しみなく、汚れなく、一点の責むべき所なきものとして、この世の闇を減ずる運動をしなくてはならぬ、世といふのは妙な所である。/パウロは『キリストの心をもつて心とせよ』と云つてゐるが、キリストが外側に居ては何にもならない。我らは『もろびとこぞりてむかへまつれ』と歌つた所で、自分の心が空つぽであるなら、何のクリスマスがあらう。私の魂にキリストが来てくれて、我々がキリストになるのでなくては駄目である。今日我々の心にキリストが生まれなければ、いくら千九百年前にキリストが来ても何にもならない。我々が現在の堕落した世界に対して、自ら神の子となり、生命の言葉を保ち、キリストの力を握つた代表者として、光の如く、この汚れた曲つた世界に輝かなくてはならない。ここに真のクリスマスの意義がある。[4]

 

 クリスマスは低い者が高まる喜びの時である。つまり母の地位、凡て女の地位、奴隷、無産階級の地位が高められるのがクリスマスである。それが革命運動によらず、精神的な、神が人間に接近してくれるといふ信仰から湧いたのである。『神は御腕にて権力をあらはし、心の念の高ぶる者を散し、権勢ある者を座位より下し、卑しき者を高うし』(ルカ一・五一-五二)即ち偉らさうにしてゐる学者や、利己主義者を蹴散らし、位ある者大臣などを引おとし、卑しき者を反対に上げる。[5]

 生まれたイエスが何をしたか。権力、金力によらず、愛と平和の道によつた。そしてその力で、ローマ帝国が滅びた。愛と従順の力で征服したのである。クリスマスはこの愛と従順が勝ち得ることを意味する。[6]

 私は思う、誕生日のお祭がクリスマスではない。クリスマスの本当の気持ちはむしろ、サンタクロースに尽きている。すなわち真のクリスマスの意味は、受肉化身の愛の運動を実行するところにあるのである。/そしてこれは、キリストの運動を措いてほかにないのであるから、その運動がキリストの生活を表現していないようなものであったら、それは無価値である。私は十二月二十四日の晩貧民街を訪ねて、クリスマスの気持ちを味わうことを楽しみにしている。どうかクリスマスを無意味に過ごさないで、身を捨ててキリストの生活にあやかるようにしたいと思っている。/父なる神/思想界の混乱に対して、我らにはっきりした意識を与えたまえ。我々はこの尊き愛を肉に現わし、わが持てるものを持たぬ人に与えることを教えたまえ。特に世界のうちにある嫉み争い暗い心を、あなたの御恩寵により、取り去り、キリストの精神を現わし得るよう、助け導きたまえ。主イエス・キリストによりて祈ります。アーメン。[7]

サービス 礼拝。しかし、神にサービス(仕える)以上に、神が私たちにサービス(仕えてくださる)という意味でのサービスなのである。



[1] 「光の子の勇躍 -クリスマスの意味-」「水の赤ん坊」447頁。

[2] 「光の子の勇躍 -クリスマスの意味-」「光明の運動」444頁。

[3] 同「化身主義運動」444頁。ただし、正確には「私は十七歳の時に明治学院の教室で、英国のキリスト教者会運動の先駆者である、フレデリツク・モーリスの運動の根本精神が、ピリピ書第二章のこの言葉から来てゐるのを学んで、感激を受けたことを今でも忘れない。」です。

[4] 同「神の子となる」446頁。

[5] 「マリヤの讃歌」256頁

[6] 「柔順の力」257頁。

 

[7] 「受肉化身の福音」『日本の説教Ⅱ 賀川豊彦』203-204頁


ギデオン徳島支部クリスマス感謝の集い 説教

2014-12-20 13:16:39 | 説教

2014年12月6日(土)ギデオン徳島支部クリスマス感謝の集い 説教

ルカの福音書二章1~20節「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」

 

 「クリスマス感謝の集い」にお招きいただきまして、説教する特権を与えられて、感謝しています。ネタばらしになりますが、「みことばを伝えること」というテーマをと指定されました。ギデオン協会ですから当然なのですが、これをクリスマスに絡めるとなると、意外と一筋縄ではいかないのです。今でこそ、教会はクリスマスに、市民クリスマスだ、クリスマスコンサートだ、子どもクリスマスだ、とこの時とばかりの伝道を致します。そして、教会の外の人や、普段教会から離れている人にとっても、クリスマスは教会に来やすいのも事実です。ですが、聖書そのものを紐解きますと、マタイとルカが伝えるキリストの誕生記事には、おおっぴらに伝道するというよりも、むしろ逆に、密やかにクリスマスを祝わざるを得なかった、という雰囲気が貫かれています。

 マタイが伝えるように、マリヤが聖霊によって身ごもった時、夫となる前のヨセフは秘かに婚約を解消しようとしました。マリヤの出産は、余りにもスキャンダラスだったからです。博士たちがお生まれになったイエス様を礼拝した後、夢で告げられたのは、ヘロデに知られないようにこっそり東の国へ帰りなさい、という命令でした。ヨセフとマリヤも、幼子イエスとともにエジプトへ逃げるようにと言われます。その誕生は、大々的に言い広めたりしたら、皆殺しにされかねない脅威だったのです。

 ルカが伝えるのも、イエス様がお生まれになった時、喜ばれるどころか、

 7…彼らのいる場所がなかった…

という、飼葉桶の現実です。そして、その知らせは、ベツレヘムの郊外で羊たちを見守っていた羊飼いたちに対してでした。彼らは、住民登録をする義務からも外され、社会的には劣るとされていた人々です。その人々に、御使いが来て、彼らに言ったのです。

10…「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 ここには、「この民全体のためのすばらしい喜び」と言われています。が、御使いはそれを羊飼いたちに告げることで十分としています。「今日、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と羊飼いたちに集中しています。そうです。社会の統計の数にも数えられなかったあなたがたのために、救い主がお生まれになりました、と断言するのです。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」

とあるのは、探すのは大変だろうけど、布にくるまって飼葉桶に寝ている赤ちゃんがいればそれで分かりますよ、それが見つけ出すためのしるし(ヒント)になりますよ、という意味ではありません。その、いる場所もなく、貧しく厩(うまや)に寝かせられているお姿に、この救い主があなたがたのためにお生まれになった事実の証しがある、ということです。それが、宿屋の人々やベツレヘムの町中の人ではなく、わざわざ郊外の野原にいた羊飼いたちに届けられた、しるしでした。

 実は、マリヤとヨセフも、いる場所がなかったとあったように、卑しい人、貧しい人たちでした。このルカの福音書は、この後のイエス様のご生涯全部が、そのような貧しい人たちに向けてのものだと繰り返しています。貧しい者、罪人や不品行な女、放蕩息子や取税人として嫌われていたザアカイ、そして、イエス様のそばで十字架にかけられた強盗。そういう人を並べながら、イエス様がおいでになったのが、立派な人や強い人のためではなく、貧しく、自分の惨めさを痛いほど知っているような人のためだと強調されるのです。それを明言するのが、

ルカ十九10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

というイエス様ご自身の言葉です。そのメッセージを、ここで羊飼いたちは聞いたのです。あなたがたのために救い主がお生まれになった、そのしるしが、布に包まって飼葉桶に寝ている赤ちゃんのお姿だ、ということでした。

 この知らせを聞いて、羊飼いたちはベツレヘムに急いで行きます。

16そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。

18それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。

 でも、彼らは、みことばを伝えなさい、イエス様のことを伝道しなさい、と言われたから伝道したのではありませんでした。伝えなさい、などと言われていなかったのです。でも、彼らは御言葉を聞いて、従った結果、その約束の通りだったことの喜びの余り、人にもそのことを告げずにはおれなかったのです。

20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 確かに、この最初のクリスマスに、羊飼いたちは自分たちに伝えられた素晴らしい知らせを受け止めました。それは、本当に素晴らしい知らせでした。何と言っても、自分たちのために救い主がお生まれくださったという素晴らしい恵みでした。

 今日、ここにおられる方に、本当はこんな所に来るような気分じゃなかった、という方もおられるかも知れない。クリスマスのお祝いどころじゃない大変な中にいる方もいらっしゃるかも知れません。そのあなたがたのために、救い主がお生まれになりました。そう言われているのがクリスマスです。状況や気持ちがどんなに孤独で、絶望的でも、人が見捨てても、居場所がなくても、そのあなたがたのために、そこにキリストはご自身、低く低くなって、おいでになって、私たちを取り戻してくださるのです。

 この福音の喜びに、まず一人一人が深く、じっくりと立つことなしに、伝道、伝道と出て行くことは出来ません。この私たちのためにキリストがお生まれになった。そのかけがえのない幸いに心が潤されて、私たち自身が変えられ、喜びに溢れる。それ程の福音を受け取ることから始まるのです。それがおざなりのまま、伝道をしようとすると、自分が信じてもいないことを語ることになります。自分の達成感や充足感のため、伝道して成果をあげようとすることになります。結果が出ないと虚しさや怒りが出て来たり、自分がダメな人間であるかのように思うとしたら、それは、語っているのは福音だけれど、動機になっているのは福音の素晴らしさではなく、福音を装ったこの世的な価値観、成果主義、業績主義、競争心、自己義認だからでしょう。そんな伝道だと、見せかけとか胡麻菓子とか、お金の話が大きなウェイトを占めるようになります。そのようなものに目が眩んでいることこそ、神様の圧倒的な恵みから離れている姿でしょう。それこそは、「失われた」姿です。

 イエス様は、そんな失われた人を捜して救うためにこそおいでになりました。私たちのために、貧しく小さな赤ん坊となって、お生まれになりました。私たちがこの方を、私たちのための救い主のしるしとして受け入れる時、私たちもまた、失われた生き方から、見出された生き方へと立ち戻ります。この世の成果、出世、お金、地位、名誉、影響力や評判、あるいは、伝道とか教会の立場さえも、私たちの心を失わせることがありますが、そんなものを一切持たない赤ちゃんとなることをイエス様は選んでくださいました。それが、私たちのためのしるしです。このお姿に背を向けて、がんばって伝道するのではなく、この驚くばかりの出来事に、本当に私たちが心深く癒やされ、光を与えられて、変えられていくことから始まるのです。

 主の御言葉は、私たちに届けられています。私たちを取り戻す御言葉です。その御言葉の恵みに、いつも導かれていきましょう。主が私たちのうちにも宿ってくださって、御業を始めておられることに委ねましょう。その恵みを私たちの存在ごと携えて、口先や方法論やイベントではなく、私たちの存在が恵みの証しとなることを願いましょう。

20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 聞いた人たちが信じてくれたとか、何かをすることが出来たからとかではなく、ただ、神の御真実を見たことで、神を崇め、賛美しながら帰って行きました。それ自体が、彼らの大きな変化でした。福音の証しでした。私たちも、今日、神をあがめ、賛美しながら、帰途につく時であれたらと願います。

 

「伝道とは溢れていることです。溢れていれば、存在そのものが伝道なのです」

「主よ、私たちもまた、福音を伝えられました。私たちのために惜しみない愛をもって謙り、尊いあなた様がおいでくださいました。この素晴らしいクリスマスのメッセージを、どうか私たちが慣れることなく、年ごとに初々しく、瑞々しく、聞き続け、恵まれ続けて行けますように。闇や悩みを経る毎に、ますます主の御愛に根ざして、溢れる思いで歩ませていただけますように。そのような私共の言葉と技を通して、御言葉が更にこの地に広まりますように」


2014年こどもクリスマスのお話し

2014-12-20 13:14:59 | 説教

2014/12/14 ルカ2章11節

 

 クリスマスは、「キリストのお祭り」という意味です。イエス・キリストのお誕生をお祝いしましょう。そうやって、教会が始めたお祭り。それがクリスマスの始まりです。今は、そんなことは考えなくて、12月になればクリスマスだ、おめでとう、とパーティをしたり、プレゼントを貰ったり、ケーキやご馳走を食べたりしている人が多いです。だから、教会でクリスマスっていうと、「え? 教会でもクリスマスするの? 教会のクリスマスって何をするのかなぁ?」と思って今日来た人もいるかもしれません。折角だから、そういうお友達は、ぜひ知って帰って下さいね。クリスマスは、神様が、神の子イエス様を、私たち人間に贈ってくださった日。イエス・キリストが人間としてお生まれになった素晴らしいプレゼントを、お祝いする日です。それが本当に素晴らしい出来事だから、沢山の人が喜んで、イエス様のお祝いをして、今では世界中で、クリスマスがお祝いされているんですね。だって、みんなの中で今から何百年かしたら、自分の誕生日が世界中でお祝いしてもらえているなんて人いるかな? 世界一有名なキャラクターのミッキーマウスは11月18日、キティちゃんは11月1日だけど、そんなこと知らない人がほとんどでしょう?イエス様以外に、世界中でそのお誕生のお祝いをしてもらっている人なんて、他には誰もいませんね。それは、やっぱりイエス様がお生まれになったということが、何よりも、誰よりも、物凄いことだったから、なんですね。

 キリスト教会にとって、一番大事な本は聖書です。神様が人間に与えて下さった、大事な、大切なことが沢山書かれています。この中に、イエス様のお誕生のことも書いてあります。それが12月25日だった、とは書かれていません。でも、イエス様のお誕生のことが、いろいろと書かれています。今日は、この後で、そのクリスマスのお話しをペープサートでします。だから、お話しは、そちらで見て下さい。それを見る前に、お話しがもっとよく分かるためのポイントを一つ言わせてほしいので、よく聞いて、覚えておいて下さいね。

 それは、キリストのお生まれは、ずーっと前から約束されていた、ということです。聖書で、イエス様が登場するのは、半分よりももっと後です。その後が新約聖書、その前が旧約聖書、と分けられていますけど、イエス様が来られる前のお話しの旧約聖書にも、やがてキリストがおいでになるよ、私たちを助けてくださるお方、本当のよい王様、世界をよくしてくださるお方が来るよ。そういう約束があちこちに書かれているんです。そして、そのお約束を信じて、キリスト様が来てくださいますように、神様のお約束の時が早く来ますように。そんな思いで過ごしていた人たちが、イスラエルにはちゃんといたんです。イスラエルだけではありません。遠い遠い東の国に住んでいた人たちにも、そのことが伝わっていました。そういう人たちが、やがて、イエス様がお生まれになった時に、ある特別なしるしを見たときに、「そうだ、これはきっと、神様が約束されていた王様がお生まれになったに違いない。では、その王様を拝みに行きましょう」と、はるばる遠い国からエルサレムまで旅をしてやって来るのですね。

 また、羊飼いたちにもイエス様のお誕生は知らされますが、羊飼いたちはきっと神様の約束を覚えてはいなかったんだと思います。でも、「きょうダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです」という言葉を聞いた時に、忘れていたお約束を思い出したんです。神様が、救い主を送ってくださるよと仰っていた。そのお方がおいでになったんだ、そう気づいて、この人たちもイエス様を捜しに行くんですね。

 羊飼いたちも東の国の人たちも、ずっと約束されていた神様の言葉を思い出しました。そして、イエス様を拝みにやってきました。神様が、私たちを覚えていてくださったんだ。神様が私たちの王様になってくださるんだ。それが嬉しくて、嬉しくて、イエス様を礼拝したのです。

 神様なんていないって言う人がいます。神様がいるかいないかなんて分からないって言う人もいます。神様がいてもいなくても関係ない、っていう人もいます。でも、クリスマスは、神様は本当にいらっしゃいますよ。そして、私たちの所に、神の御子イエス様が今から二千年前に本当に来てくださったんですよ。そうして、今でも神様は私たち一人一人を覚えていてくださいますよ。私たちのそばにいてくださいますよ。私たちの心を明るく照らしてくださいますよ。そう教えている日なんですね。

 それから二千年、たくさんの人がイエス様を信じました。自分勝手な悪い心をゴメンナサイと言ったり、とっても悲しい目に遭っても慰められたり、生きていたくないと真っ暗だったのに神様に愛されて生かされている喜びを持ったり、人を助ける生き方をするように変えられたり。ぼくも、今までずっとイエス様に助けられて来ました。イエス様は素晴らしいお方です。だから、イエス様が来てくださったお祝いが、世界中で行われるようになっています。皆さんも、イエス様に出会って、イエス様を信じる素晴らしい喜びを持って欲しいと思っています。


徳島キリスト者平和の集い拡大準備会説教

2014-11-16 16:04:00 | 説教

徳島キリスト者平和の集い拡大準備会説教     2014年11月15日(土)

1.      エペソ書の「和解の務め」の全体的理解

 「キリスト者平和の集い」ということで、教会が依って立つ平和を励まされる御言葉には様々な聖書の箇所があります。その一つに、エペソ書二14節があるでしょう。

14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

 「キリストこそ私たちの平和」。今日は、この言葉をもう少し探って、私たちの平和の集いの手がかりとさせていただけたらと思います。

 エペソ書で、平和という言葉を用いるのは二章のここが初めてですが、ここまでの話が平和について無関係であるということではなく、むしろ、エペソ書の大切なテーマの中で、「平和」を語っているのです。特に、パウロは一9で「御心の奥義」を語っています。

一8この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、

 9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、

10時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

 天にあるもの地にあるもの一切が、キリストにあって一つにされる。それが、神の永遠の御心による奥義だ、というのです。この神様の御心の宇宙的な奥義、終末を具体的に思い描かせるパウロの視点が、エペソ書のテーマです。

 二章で、パウロは、「罪」と恵みによる救いを説きます。その結果として、

13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

と続くのです。この部分を、新共同訳聖書では、「キリストにおいて一つとなる」と題しています。キリストにおいて、「異邦人」も「イスラエル」も一つとなる。それは、言うまでもなく、一章で「御心の奥義」と言われていたことの成就です。異邦人とユダヤ人、当時、お互いに忌み嫌い、一緒に食事をすることも珍しかった異人種同士がキリストにおいて一つとなったというのです。キリストの十字架は、そのような平和のためだというのです。

 三章でもパウロは、自分の務めが、この奥義に関わるものだとして繰り返します。

 6その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

 そして、その福音を伝えるために、自分が選ばれたことを語ります。

 8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、

 9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。

 このように、創造者なる神と、最も小さな私、という対比を繋ぐのが、御心の奥義だと言います。そうした壮大なスケールの奥義を語った上で、四章に入ります。

四1さて[新共同訳:そこで]、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

 2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。…

このように、召しのもたらした「一つ」、御霊の一致を保ち、その召しに相応しく歩みなさい、という勧めになる。御心の奥義に向かって、生きていく。そのために、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和の絆で結ばれなさい、という適用が四章以下で展開していくのです。キリストが果たしてくださった「平和・和解・一つ」というご計画を踏まえて、私たちの平和作りが始まるのです。

 当時も「ローマの平和」と呼ばれる、戦争のない時代でした。ローマ帝国が地中海世界を平定していました。しかし、その「平和」は強者が弱者を抑え、武力で押さえつけている安定でした。ユダヤなどの被占領国は圧政や重税に苦しみ、反乱や転覆を夢見ていましたし、異邦人との和解や一致など願い下げだったでしょう。そうした、取りあえずの「平和」とは違う、キリストの平和、神の奥義である完全な一致を教会は信じ、その始まりとなったのです。

 

2.      教会史における現実

 しかし、そのような福音を授けられた教会が、聖書が完成し、使徒たちの去った歴史において、平和の福音に立ち続けてきたか、「剣を取る者は剣で滅びる」との告白を貫いて、「絶対的平和主義」を守れたか、というと、そうではありませんでした。ご存じのように、アメリカの巨大軍事産業、共産圏との間に「核の傘」によって築いた冷戦時代、そしてイスラム圏を敵対視して湾岸戦争に踏み切って来た背景には、キリスト教会の強力なバックアップもありました。日本の教会も、太平洋戦争に対して大方は賛成し、礼拝の中で戦勝を祈りました。宗教改革の時代に遡っても、農民戦争やカトリック派とプロテスタント派の戦いがありました。もっと遡って、中世を見ますと、悪名高い「十字軍」に代表される、神の名の下に「聖戦」と自称して行われた軍事行動があることは言うまでもありません。

 中世の前はどうだったのでしょうか。よく、「教会は、初めは絶対的平和主義だったが、ローマ帝国に公認されると、教会は世俗化していき、富の誘惑に負けて、制度化されていき、信徒が兵役に就くことも認めるようになった」と言われます。ところが、初代教会の文書を丹念に調べると、決してそうは言い切れないようです。ローマ軍の残酷な軍事行動や流血行為を非難することには歯切れ良くても、信徒が兵役につくことがどうなのか、あるいは信徒でない兵士が洗礼を受けるためには兵士を辞めなければいけないのか、そうした実際的な問題についてはブレがあります[1]。殺人、あるいは皇帝崇拝が偶像であるという理由から、信徒が兵役に就くことは禁じた司教たちでさえ、ローマによる統治の恩恵に与っている面も認めていました。絶対的平和主義を唱えた司教ラクタンティウスも、公認後には軍務を否定せず、皇帝を祝福します。有名な教会史家エウセビオスも、皇帝コンスタンティヌスの信仰や祝福を伝え、「最も偉大な勝利者」と呼びました。そして、

「「キリスト教徒にとって、それが流血を招いたとしても、教会の迫害者に対するコンスタンティヌスの勝利を、非難の眼で見ることは難しかったであろう」。

 つまり、帝国が教会に対して、もっぱら迫害と緊張関係にあった3世紀には、

「キリスト教ローマ帝国」は全くのユートピアに過ぎなかったが、平和主義者ラクタンティウスはその実現を目前にしたとき、より現実的な対応をするようになったということであろう。」[2]

と言われています。少数派で、国家に物言う関係ではなかった時には、理想論を振りかざせたけれども、では皇帝や支配者がキリスト者となった場合、キリスト教的国家を現実的に考えるに当たっては、剣の問題をどのように考えていくべきか。ちゃんと整理が出来ていなかったのではないか、と思います。

 同じ事が言えるのが、宗教改革の時代の再洗礼派でした。急進的宗教改革と呼ばれるグループの一つで、ルターやカルヴァンの宗教改革は生温く不徹底であると批判した彼らは、新約聖書に現された初代教会の姿に帰り、理想的で純粋なキリスト教会を自称します。彼らの打ち出した信仰は、「シュライトハイム信仰告白」という文書に見ることが出来ます。そこで彼らは、宣誓や公職に就くことの否定などと同時に、「絶対的平和主義」を打ち出し、兵役を拒否します。国家が神の定めによるものであることを認めつつも、それはキリストの完全の外にある、という言い方をして否定してしまいます。

 果たして新約時代の教会が「理想的な」教会なのか、聖書自体が教会の格闘と模索とを伝えており、当時の時代的誓約を無視しては読めないのではないか、とか、この世の教会が純粋であり得ると聖書が教えているのか、などと言った問題はさておくとしても、やはり国家が戦争をし、武力で教会への攻撃を加えてくる時代に、国家によって守られている面を認めながらも、自分たちは「絶対的平和主義」に立つ、とは虫のいい話でした。ちょうどキリスト教公認後の教会が、新しい時代の妥協の産物として、信徒の結婚と兵役を認めつつ、聖職者と修道士は独身を貫いて兵役は免除される、という二重基準を設けた、実に中途半端な方向を選んだのに似ています[3]。地の塩、世の光として、積極的な働きかけを放棄して、自分たちの手は汚さない。そういう平和論が聖書の教える所なのでしょうか。渡辺信夫氏はこう言います。

「この世の中に教会と別次元のものだが、同じく主の立てておられるもう一つの秩序、また制度たる「国家」というものがあって、教会はそれとの関係を終始意識しなければならない。これは福音書の中に最も素朴な形で「神かカイザルか」という問題として提起されている。」(同)

 いずれにせよ、教会は「絶対的平和主義」に常に立っていたわけではありませんし、絶対的平和主義が聖書の教える倫理だと考えたのでもありません。確かに出エジプト記二〇章の十戒は「殺してはならない」と言いますが、その次の頁には、人を殺した者、誘拐する者、両親を呪う者は殺さなければならない、とも書いています。新約においてでさえ、戦いのモチーフはある。そして、現実の世界には暴力があり、国家の衝突があり、不正が行われている。そういう中で、私たちは、「キリスト者だから戦争はしません」という論理が当たり前ではなく、むしろ歴史的にも世界の中でも珍しいという事実も受け止めておくべきでしょう。教会の中にも多様な意見があり、置かれている戦いは複雑なのです。

 

3.      平和の器と変えられるために

 では、そのようなバラバラな教会を考えると、そもそもの「御心の奥義」はどうなったのか、という疑問が生じます。どの立場が正しいのか、という以前に、これだけ多様な価値観があって、それでも「ひとつ」と言えるのでしょうか。一切のものが一つとなる始まりとしての教会が、本当に「ひとつ」だと言えるのでしょうか。そうです。私たちは、このような多様さ、意見の違いを踏まえた上で、なお私たちは一つである、と告白するよう求められているのです。キリストに根ざし、聖書に導かれるとしても、みなが同じ結論を出すわけではありません。勿論、どんなことでも意見が違って良いわけではなく、許される範囲を超えた逸脱は異端と呼ばれます。しかし、その範囲はかなり広いものでもあって、その違いに立った上で、なお主にあって一つ、という告白が与えられているのです。

 エペソ書でパウロが述べていた奥義は、異邦人も神の民に入れられる、ということでした。ユダヤ人と異邦人の違いが無くなってしまうのではなく、ユダヤ人はユダヤ人でありつつ、異邦人は異邦人でありつつ、キリストにあって一つなのです。

四3…御霊の一致を熱心に保ちなさい。

です。パウロは、一致を勧めたり命じたりはしていません。既にキリストにあって一つである、という事実を保つのであって、人間的な一致を造り出すのではないのです。更に、7節で、一人一人にキリストの恵みの測りに従って違う賜物が与えられていることを言います。そこにも「違い」があります。人間関係についての具体的な勧めが四章後半から五章前半まで語られていくのも、そのような人間関係の問題を踏まえてのことです[4]

 五22以下に、有名な夫と妻への勧めがあり、六章では親子、奴隷と主人、という具体的な関係に踏み込んでいくのです。夫と妻、男と女、あるいは大人と子ども。それは大きな違いです。歩み寄ることは出来ても、同じになることは出来ません。しかし、違った上で、主にあって一つである。それが、キリストにあってもたらされた「平和」の奥義です。

 キリストの奥義を信じる私たちには、相手との違いを受け入れる、という態度が求められます。我慢、忍耐、寛容、柔軟性が求められます。ひと言で言えば、愛です。でもそれは、ただ優しい、温かい、教会の人はみんなニコニコしている、という温々(ぬくぬく)とした雰囲気ではありません。人種や国籍や文化の違う人がおり、受け入れがたい人がおり、意見の違いや個性のぶつかり合いがあった上で、なおキリストにあって互いを尊重し、神の家族として受け入れ合う「愛」です。賑やかな愛であり、バラエティに富んだ愛です。

 平和に逆らうのは、このような多様性を認めない力です。話し合いではなく、武力で自分の正しさを認めさせよう。あるいは、手続きを曲げてでも、反対意見を封じてしまおうという動きです。そのような相手に対して、私たちは、自分たちの正しさを主張して、相手を非難する「同じ穴の狢」であってはならないのです。それは、面倒くさいことです。厄介です。でも、その難しさから逃げないのが、地の塩としての務めだと思うのです。教会は平和のために祈らなければいけません。でも、祈ってさえいれば、平和が来る、ということでもありません。私たち自身が、他者を認め、問題の複雑さを受け止め、平和のために出来ることを地道に積み重ね続けること、そうやって、主によって取り扱われ、変えられ、成長させていただくことを求めたいのです。

 エペソ書五章後半の、夫と妻への勧めは、妻は夫に従い、夫は妻をキリストが教会を愛されたように愛しなさい、と命じます。ですが、妻は夫に暴力を振るわれても黙って従っていればいい、という適用は言語道断です。主イエスは、人間の罪の深みを見抜いておられ、その頑なさから人間を守ろうとされました。「祈りつつ堪え忍んで従っていれば、いつかは夫も変わるかも知れない。離婚は罪だから、もっと愛しなさい」とは言われませんでした。聖書は家庭を神聖視するわけではなく、家庭においてこそ罪や人間の本性が露わになり、またそれを隠そうとするものなのだと鋭く見抜いているのです。綺麗な空論に逃げて、聖書が語る堕落した世界の現実を見据えないではダメなのです。夫婦の暴力についての本に、このような結びの言葉を読み、とても本質を言い当てていると思いました。

「この問題に関する訓練をわずかしか、あるいはまったく受けていない人ほど、この極めて複雑な問題を非常に単純化し、また精神化した方法で解決しようとする傾向が強い。」[5]

 これは平和の問題にも当てはまります。戦争、政治、歴史、罪と悪、そして人間そのものについてよくも知ろうとしないまま、こちらが武器を捨てれば相手も押しかけては来ない、とか、祈り続けていれば奇蹟が起こるとか、伝道してみんながクリスチャンになれば平和は来る、そんな事を言う人もいます。「殺すより殺される方が良い」という論理は一見純粋なようでいて、愚かです。罪の問題の暴力性から目を背けています。戦いから逃げることで、もっと大きな悪を引き起こすことにならないのか。悪しき政府が子どもたちを教育した、ポル・ポトの再来でもいいのか。家庭においても世界においても、罪の解決を単純化し、精神化をせず、歴史を学び続け、他者に耳を傾け、手を繋ぎつづけていくことです。信仰は問題を単純に楽観的に考える口実ではなく、聖書の示すように、罪の痛み、苦しみをキリストとともに担いつつ、うめきつつ、贖いを待ち望むものであるはずです。

 また、パウロが、この奥義に仕える者として持っていた自己意識は、

三8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、

 9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためでした。

というものでした。新共同訳では「最もつまらない者であるわたし」と訳していますが、私たちが自分の傲慢や正義感を砕かれて、謙らされることもまた、福音の奥義に生きるためには欠かせません。パウロはエペソ書で、「内なる人を強くされて」と勧めます(三16)。具体的に、情欲(四22)、偽り(四25)、怒り(四26)、などを自制する訓練も強調しています。それは、御心の奥義が、実現していくうえで、私たちが心の奥深くから変えられ、新しくされて、本当に一つとなるために欠かせないことだからです。

 

4.      段階的に。御心への信頼と望みを。

 「平和への道は陶酔せぬ心にある」という言葉を読んだことがあります。キリストが果たされた奥義は、完成のときに向かっています。既に果たされた「ひとつ」であると同時に、まだ完成されていない、やがての完成を待つ「ひとつ」という奥義です。それは、私たちが物事を単純化して考え、ウットリさせてくれるような現実を夢見る誘惑から救い出します。主がおいでになるまで、永遠の御国にともに目覚めるまでは、常に不完全なのです。国家は、靖国や新憲法などによって、私たちを陶酔させてくれるような未来を語ります。ナチス・ドイツに傾いていった民衆も、熱狂的な興奮に酔い痴れた人々でした。教会も、ビリー・グラハムだ、韓国のやり方だ、伝道映画だ、教会成長論だ、と様々な伝道手段に縋っては、爆発的な成長を夢見て、陶酔したがる醜態をさらしてきました。けれども、そこにこそ、真の平和とは程遠い、まがい物があるのです。

 パウロは、エペソ書最後の六章で、

六10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

11悪魔の策略に対抗して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言い、「神の武具」として真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えを挙げます。これは、四13~16で語られてきたことと繋がっています。キリストのからだを建て上げ、信仰と知識との一致に達し、完全に大人になり、キリストの身丈にまで達する、と言いながら、

14それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、

15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

と言うのです。「霊的な戦い」とはただ、悪霊の存在や邪魔を意識するというだけではありません。悪魔の策略は、教会を、キリストにある一致、御心の奥義から引き離そうとすることにあります。真理や神の正義が曖昧だと、サタンの欺き、人間的な虚しい幻想に走ってしまいます。平和の福音にしっかりと立っている事が、悪魔の策略や国家の語る幻想から私たちの目を覚まさせるのです。

 今はまだ主の平和は完成してはいません。しかし、私たちはその途上にあります。この二千年の歴史、教会もまた模索と失敗とを繰り返し、世界も多くの戦争と挫折を繰り返してきました。この歴史は無駄ではありません。神は、太陽を上らせ雨を降らせて全ての人を憐れんでこられました。科学が進歩し、技術が発展し、思想も深まってきたのも神の一般恩恵です。多くの王制が廃止され、「民主主義」という手段が広がっていることもそうでしょう。世界が繋がり、国際感覚も成熟して、平和教育も浸透しています。ガンジーやマララさんの言葉には本当に胸を打たれます。武器も大量破壊兵器などに発達しましたが、平和論もまた発展しています。私は、日本の「憲法九条」という平和主義もまた、神が人間に与えてくださった、強靱な平和論だと信じる一人です。渡辺信夫氏も言います。

「第一次世界大戦の直前に、戦争勃発防止の企てがいろいろとなされ、その企ては成功に至らなかったけれども、戦後には国際連盟をはじめとして戦争を未然に防止する措置は飛躍的に進んだ。/それでも、第二次大戦を防止することができなかったので、戦後はさらに熟慮された防止策が続いている。その最たるものが日本国憲法第九条であって、「国家間の紛争解決の手段として戦争を考えることができない」とは、発展を遂げた公法思想の論理的帰結である。」[6]

 聖書から「絶対に戦争は行けない」とは言えません。四百年前にシュライトハイム信仰告白が唱えたのは、当時の政治状況を踏まえない理想論でした。しかし現代の日本が、被爆や敗戦を経て与えられた「憲法第九条」はノーベル平和賞にノミネートしてもらえるほど、現実的な平和政策です。逆に、九条を捨てて武器を取ろうとすることが、周囲の危機を煽り、不審を買っています。私たちは、平和を願う声を上げなければなりません。相手に通じる言葉を探しながら、陶酔せず、希望をもってです。箴言十七1に、

一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

とあります。この「平和」は、実は、有名なシャロームではなく、シャルバーという言葉です。シャロームは「完全」をも現し、内面的な平和から繁栄、神の祝福なども示す言葉です。それに対して、シャルバーはもっと低次元の「安全」「無事」といったニュアンスです[7]。ですが、ここでは、ご馳走と争いがあるよりも、一切れの渇いたパンと取りあえずの無事があったほうが遥かに勝っている、と言います。シャロームではないからダメだ、ではなく、もっと平凡な争いのない状態です。しかし、それさえも、豊かさに勝ると言い切るだけのものを聖書は見据えています。私たちがそのような「平和」を、ケチをつけずに大切に育てていくこと、食卓における争いの解決から始めるようにと教えているのです。

 

「平和の神なる主。あなた様が、私たちを一つとしてくださるという奥義によって、望みを抱かせてください。大きな事は出来ません。世界を変えることも私たちの仕事ではありません。私たち自身が平和に相応しく変えられていくこと、私たちの家庭、教会、人間関係が新しくされていくこと、そして、ここで手を繋ぎ、この国の一人として学び、声を上げ、祈り続けさせてください。彼方の完成に励まされて、福音に立ち[8]、今ここにおける平和づくりを、小さくとも積み重ねさせてください。愛を与え、恐れを取り除いてください」



[1] 「研究を進めるうちに明らかになり、筆者が少なからず当惑したことは、キリスト教史の最初の3世紀間においても、厳格な平和主義の立場が明確に貫かれていたのではないことであった。」木寺廉太『古代キリスト教と平和主義 - 教父たちの戦争・軍隊・平和』(立教大学出版会、2004年)、246頁。

[2] 木寺、117頁。「」内はSWIFTの引用。

[3] 木寺、118頁。

[4]四21ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はキリストにあるのですから。22その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、23またあなたがたが心の霊において新しくされ、24真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に著るべきことでした。」とある「新しい人」とは、キリスト者一人一人が新しくされるという以上に、「新しい一人の人」、すなわち、キリストにあって一つとされた者となる、ということです。ですから、「25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」と繋がるのです。

[5] アル・マイルズ『ドメスティック・バイオレンス そのとき教会は』(関谷直人訳、日本キリスト教団出版局、2005年)240頁

[6] 『キリスト者の平和論・戦争論』(いのちのことばブックレット)72頁。

[7] 詩篇一二二7、「安心」(箴言一32)、「繁栄」(エレミヤ二二21)、「安逸」(エゼキエル十六49)など

[8]  この事を考えていく上で、もう一つ忘れてはならないのは、私たちの根ざすのが、キリストの御業であるということです。神の永遠の御心であり、キリストの贖いの御業において果たされ、やがて終末において完成される、万物が真の意味で一つにされる、という奥義です。この平和の福音を捨てては、私たちは足下をすくわれてしまいます。かつての日本帝国を始め、ローマ帝国や様々な国家が、ここを譲らせようとしてきました。キリスト告白を骨抜きにして、国家の方針に従うことを求め、それに従わなければ、迫害をしたり、経済的な恩恵を与えなかったり、圧力をかけることがあるでしょう。教会が宗教法人を持つとか、キリスト教主義の学校が政府の補助金を受けている時、こうした問題は深刻です。かつて、日本の教会やミッションスクールが国家神道に妥協した動機には、そうしなければ教会を守れない、という思いがあったと言います。しかし、神のみを神とし、十字架のキリストへの信仰に蓋をする妥協は、教会の建つ土台を捨てることであり、教会でさえなくすることに他なりません。私たちが教会を守るのではありません。主キリストが教会を建てられたのです。それゆえ、私たちは、迫害や反対が来て、教会がその時は困窮したり解散したりするとしても、恐れる事なく、希望を捨てることなく、信仰告白に立つ。そのような姿勢が求められるのです。