聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

Ⅰテサロニケ一9-10「復活以上のことを信じる」 復活日夕拝

2015-04-06 19:34:05 | 説教

2015/04/05 Ⅰテサロニケ一9-10「復活以上のことを信じる」

 

 今日開きましたテサロニケ人への手紙第一は、新約聖書の中でも、最も早く書かれた手紙ではないかと言われているものです。その中でも今日の箇所は、パウロがテサロニケの教会の信じた信仰がどんなものであったのか、思い出させる意味でも、簡潔にまとめている言葉です。教会が、最も早い時代から何を信じ、何を教え、何を伝えてきたのか、それを教えてくれていると言えます。そして、当然と言えば、当然ですが、ここにイエス様の復活のことが述べられていますね。

…あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

10また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、…

 もちろん、これはパウロがテサロニケに行ったときに、こういうことを教えたのですね。「神ではない偶像から、本物の神に立ち返りなさい。生けるまことの神に仕えなさい。そして、イエス様を待ち望みなさい。イエス様は、神が死者の中からよみがえらせなさった神の御子であり、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるお方です」と伝道していたのです。それを信じた人ばかりではなく、むしろ、大半の人々は、偶像から離れませんでした。復活だなんて馬鹿馬鹿しい、神の怒りだなんて信じたくない、と福音を嘲り、抵抗しました。けれども、これを信じる人もいたのです。

 ある人たちはこう言います。「現代は科学や医療が進んだから、復活だなんてあり得ないと知っている。昔の人なら、奇蹟や復活を信じられたのかも知れないが、自分たちは信じられるわけがないさ」と言います。けれども、聖書を見ると、今から二千年以上前の時代だって、奇蹟や復活は、普通ならあり得ないこと、信じがたい特別なことだと十分疑われていた事が分かります。昔だから信じられたのではありません。そして、今でも、「科学だ」何だと言いながら、「占い」だ「祟り」だ「風水」だなんて言っているほうがよっぽど可笑しいのではないかと思います。

 今日の箇所が教えているのは、教会は、イエス様の復活という奇蹟が本当に起こったのだと信じただけではない、ということです。奇蹟があり得るかどうか、という問題を論じて信じただけではないのです。もしそれだけなら、今、私たちがイエス様の復活を伝えても、「信じられないけど、そんな二千年も前の話、結局、どっちだっていいんじゃない?」という事になりますね。「よみがえったかどうかなんて、自分には関係ないよ」で済んでしまいます。そういう事ではないのです。

…神さまが死者の中からよみがえらせなさった御子[は]、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス…

 イエス・キリストが復活されたという信仰は、そのイエス・キリストが今も生きておられて、私たちにも新しいいのちを下さること、やがては神の正しい審判の時にも私たちを、罪に対する怒りから救い出してくださる、という信仰でした。私たちとは関係ない、昔々の遠い場所での不思議なお話、ではありません。いいえ、神さまがイエス様をよみがえらせなさったのは、イエス様を通して私たちを救ってくださるため、死を越えた力に、私たちも与らせてくださるためだったのです。その御力が、復活という事実に現されたのであって、復活とは死人が息を吹き返す以上のことだったのです。よみがえられたイエス様は、今も私たちとともにいてくださいます。そして、私たちのうちにその命を注いで、私たちを新しくしてくださるお方なのです。

 でも、その「新しいいのち」は、人間が思い描くような、特殊な能力とか人も羨むような輝かしく魅力あるもの、とは少し違います。9節に、

…あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

とありましたね。偶像から神(本物の神)に立ち返った、というだけでなく、生けるまことの神に仕えるようになった、とわざわざ言っています。神に仕えるようになる。これも、キリストの復活と切り離せないことですね。偶像から神に立ち返ったけど、その神様にも、自分がしたいことをお願いするばかりだったり、自分が輝いたり羨ましがられたりさせてくれることを期待するだけ、ということだってあるでしょう。でも、それは本当に、神を知ったことにはなりません。自分のために神様があるという思い上がりでしょう。自分が幸せになる秘密を見つけた、と考えているだけなら、神様を卑しめていることにしかなりません。

 「生けるまことの神」は、世界を作られた大いなる神です。いくら科学が進んでも、この宇宙のことではまだまだ分かっていないことの方が多いのです。動物や植物についての百科事典を完成させようとしたら、どれ程の量になるか分かりませんし、読めるだけを読んでも到底理解できないぐらいのものです。その世界を作られた神様は、もっと偉大なお方です。そして、この神は正しいお方です。罪を見逃さず、深く怒り、悲しまれ、裁かれるお方です。しかし、その神が、御子イエス・キリストをこの地上に送り込まれ、十字架の死にまで謙る道を行かせられました。私たちのために、です。そのイエス様をよみがえらせなさいました。イエス様は今も生きておられて、私たちに、この信仰を与えてくださるのです。偶像を信じたり、偶像に願ったり、神ならぬものに仕えて、振り回される生き方から、生きておられて、大いなる神で、そして、本当に真実で尊いまことの神様に仕える生き方を与えてくださっているのです。

 10節の

「救い出してくださる」

は未来形ではなく、現在形なのです。御怒りも、イエス様がおいでになるのも「やがて」のことです。でも、イエス様の助けは「やがて」の将来のことだけでなく、今の私たちに与えられている現実です。よみがえられたイエス様は、今も私たちを助けて、救い出してくださっています。神の御怒りを受けるような生き方の間違いに気づかせ、世界が自分を中心に回っているかのような勘違いに気づかせてくださいます。イエス様は、今も生きておられ、私たちに働いて、新しい心を下さって、導き、助けてくださっています。イエス様の復活とは、そういう約束なのです。

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