聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ヨブ記一章13-22節「このようになっても」 一書説教 ヨブ記

2016-11-06 20:39:12 | 説教

2016/11/06 「ヨブ記 このようになっても」ヨブ記一章13-22節

 「ヨブ記」を初めて読む方もいるでしょうか。ヨブという、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人が、今読みましたように、牛や羊や駱駝など全財産も、子ども十人も失う大惨事で幕を開けて、展開していく劇的な書です。苦しみと言えばヨブ記、という書です。

1.答は最後までない

 ヨブはこの大惨事の中で、悲しみを表しつつも、地にひれ伏して神を礼拝し、

21…「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

と言います。しかし、次の二章では、更にヨブは全身を悪性の皮膚病に覆われて、痒みをかきむしりながら過ごすのです。それでも、ヨブは、そのような中で神を呪うことはせず、

二10…「…私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」

と言い切るのです。しかしです。それでも、ヨブの苦しみは終わりません。訪ねてきて、一緒に黙って悲しんでくれた三人の友人の友も、その苦しみを分かってはくれません。週報に書きましたように、三ラウンドの対話をするのですが、ヨブは友人たちの答に納得できない。どうしてこのような禍に遭うのか、神の答が聞きたいのに、神は応えてくださらないとヨブは苦しみ続けるのです。その後に、若い友人のエリフがもっと鋭くヨブの考え方の問題を突いてくると、今度はヨブは何も言い返せません。そして、最後に、主ご自身が登場されて、ヨブに語りかけられるのですね。でも、主はそこでもヨブに、どうしてこのような苦しみに遭わせたのかは一言も仰らないのです。結局ヨブは最後まで、なぜ自分にこんな禍が起きたのかを教えられることはないのです。しかし、実はこれこそが、ヨブ記のテーマの一つなのですね[1]

 一章の6節以下に、神である主に対して、サタンがヨブの信仰を批判します。

 9サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

10あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

11しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

2.神を恐れ、礼拝する「理由」

 つまり結論から言えば、サタンは「ヨブが神を恐れるのは自分に利益があるからだ。神を心から恐れ、信じて礼拝しているのではない。自分にとっての有利な条件がなくなれば、神を信じることは止めるに違いない」と言っているのです。人間が神を恐れるのは結局、御利益があるからであって、神を恐れる見返りがなくなれば、信仰など捨ててしまう。自分本位の信心に過ぎないのですよ、とサタンはせせら笑っているのです。しかし、神は既に、ご自身のしもべであるヨブの信仰がそのようなものではないとご存じでした[2]。神が求められるのは私たちとの心と心の関係(人格的関係)です。御利益や繁栄のためではなく、ただ神が神である故に恐れるのが本当の信仰です。ですから、ヨブの財産や健康が奪われることを許されましたし、その大変な経験を通して、更にヨブを深い神との信頼関係に導き入れようとされたのです。

 さあ、それがこの苦難の目的ですから、ヨブは最後まで苦難の意味を知らされません。意味が分からない禍の中でも神を恐れ続けるかが問われたのです。そう説明されたら意味がなくなります。だからヨブはこの試練の意味は分かりません。最後に登場された主ご自身も、ヨブに説明はなさいません。それでもヨブは、祝福だけではなく苦しみをも与えられる神を礼拝しました。全てを奪われても、どのようになっても、神が神である故に、神を恐れたのでした。

 ヨブの友人たちは違いました。こんな禍がお前に降りかかったのは、何かヨブに問題があったからに違いない。だから謙虚になり、神の前に悔い改めて、神に自分の非を認めよ。そうしたら神は憐れみ深く、お前を回復させて下さるだろう、と言います。一見これは正しそうに見えます。しかし、ここには大きな問題が二つあります。一つは現実と違う、ということです。現実には、問題がなくとも禍に遭う人は大勢います。悪者が栄え、不正の報いを受けることなく平穏に暮らし、長寿を全うしています。「因果応報」では現実の世界は説明できません。

 もっと大きいのは、結局、神を信じるのは自分のため、御利益のためだ、という問題です[3]。自分にとっての「理由」があるから神を礼拝するのです。ヨブの友人たちが考える神は、正しく力があり憐れみもあります。でも、「だから謙虚に神を求めたら、神はまた回復させてくださる」という関係しか語りません。しかし、最後に主は、ヨブの友人たちを責め、彼らの語った一見正しい勧めは、「わたしについて真実を語らなかった」ときっぱりと仰せられるのです[4]

 とはいえ、それは最後までヨブには明らかにされません。答のない中で、なお神を模索すること自体がヨブ記のテーマですから、私が先回りして種明かしを話さず、ぜひ皆さんがそれぞれ、ヨブ記を読んでください。分かりやすい書ではありませんが、それでもヨブの苦悩や、一見正しそうな友人たちの間違いも含めて、ヨブの辿った経験を読み、思い巡らしてください[5]

3.ヨブ記の励まし 三つだけ

 ヨブ記の存在自体、古代から、人間が苦しんできたことの証拠でもあります。強盗や自然災害、破産や病気などが起きて、「何故?」と問わずにおれないのが私たちの現実の生活です[6]。ヨブ記は、そういう時に、神の祟りだとか裁きだとは絶対に決めつけてはならない、単純な解決方法などを安易に語ることを慎むよう教えてくれます。信仰や祈り、悔い改めは大事ですけれど、何かをすれば問題が解決するなどと言うことは憚らなければならないことを教えてくれます。神は、正しく憐れみ深いお方ですが、私たちの理解を遙かに超えたお方です。神のなさることに対して、本人の罪や間違いのせいだとか、こういう目的やメッセージだとか、分かったようなことをみだりに語ってはならないのです。むしろ、最初の友人たちのように、ともに悲しみ、黙って一緒に座っていることのほうが遙かに慰めになるのだと教えられるのです。

 二つ目は、新約聖書でヤコブが勧めている通り、ヨブの物語そのものが私たちの希望です。

ヤコブ五11見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 ヨブの苦難と最後の結末は、私たちにとってやはり大切な励ましです。希望なのです。

 最後は、神は私たちをも理由もなく愛しておられます。私たちが私たちである故に、私たちを愛しておられます。私たちがどのようになっても、下心や誤解があり、大きな失敗をし、神の意に添わなくても、神は私たちを愛してくださるのです。私たちが私たちである故に、神は私たちを喜び、尊び、ともにおられます。そのような本当に深く、親しく、状況に煩わされない関係こそ、神は私たちとの間に育まれるのです[7]。そのために、神のひとり子イエス・キリストがこの世に来られました。ヨブ以上に全てを奪われました。ヨブ以上に、そのからだはボロボロにされました。ヨブ以上に孤独になり、沈黙の中におかれました。ヨブの友人はヨブを責めましたが、イエスの敵たちは「もし神の子なら自分を救え」と嘲笑い、友であった弟子たちは裏切り、見捨て、関係を否定しました。イエスが受けたその不条理な苦しみは、私たちを愛されたから-私たちが神を心から愛して、どのようになっても神を神として崇める生き方へと導き入れてくださるためでした[8]。その主の苦しみを覚えて、主の聖晩餐に与りましょう。

「あなたは禍を通してさえ善をなさいます。そう信じるのが難しい闇夜にも、あなたは私たちとともにおられ、その闇を通らなければ分からない場所へと導いておられます。どうか私たちの心を支え、禍から守られること以上に、禍の最中にあってもあなたを信じる信仰を与えてください。ヨブ記を通して、私たち一人一人の歩みを照らし、励まし、希望とならせてください」



[1] ヨブ記のテーマは「苦しみや不正がこの世にあるのに、神は本当に正義の神なのか」という「神義論」ではありません。神が正しいことは、ヨブ記においては大前提なのです。むしろ、人間が神の正しさや信仰の利益性を理由に神を捨てる姿勢を問い詰める、といえます。

[2] ヨブ記が扱うのは、一般的な苦難ではなく、すでにヨブは神との契約関係の中にあった上での、主のしもべの苦難の問題です。主がヨブを必ず「わたしのしもべ」と呼ばれていること、ヨブが神を必ず「主」と呼んでいること、いけにえや対話があったこと。つまり、すでに主との親しい契約関係にあったことが強調されています。言い換えると、主の民とされていても、このような尋常ならざる苦難や悲劇に見舞われないという保証はどこにもない、ということでもあります。

[3] もちろん、そのような「苦しい時の神頼み」がすべて悪いわけではありません。苦しみを通して神を求めるというのは、病気の症状が堪えきれないために生活を改めるのと同様、きっかけとしては十分なのです。しかし、いつまでもそのような消極的な動機が「究極的な目的」とはき違えられたままでいるなら看過は出来ません。そして、ここで友人たちが述べているのは、神の理解そのものが人間中心的なものに留まった、神を恐れない勧告なのです。しかし、この事にさえ、私たちは神の謙虚を見ます。「神はあえて彼らの生活を、彼らにとって、より仕合わせでないものにしたまいます。わたしはこれを神の謙遜と呼びます。なぜなら、船が沈みかけてから降参するなんて-どうにもほかに方法がなくなってから、つまり、もはや大切に取っておく値打がなくなってから神のところに行き、「自分のもの」をささげるなんて情けないことです。もしも神が誇り高くいましたもうならば、そんなご都合主義の人間を受けいれたもうわけはないのです。けれども神は誇り高くありたまわないので、わたしたちを征服するために身を屈めてくださいます。わたしたちができることなら、何によらず、神以外のものを選ぶということをさえ明らかにしても、あるいはほかに何一つよきものを得る望みがなくなったために、仕方なく神の所に赴いてさえ、神はそんなわたしたちを受けいれてくださるのです。」(C・S・ルイス、『痛みの問題』、中村妙子訳、新教出版社、1964年、124頁)

[4] 四二7「さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。8今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのめに全焼のいけにえをささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。あなたがたはわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。」ここでは、ヨブを叱咤しつつも、ヨブの主に対する態度が基本的には「真実」であり、ヨブの友人たちの理解は根本的に「不真実」であったことが明らかにされています。同時に、ヨブの友人たちの理解で言えば、神を正しく理解しておらず、間違っていた彼らに、神はわざわいを下すことも十分あり得ましたが、主はそのように友人たちを機械的な正義で取り扱うことはなさらず、回復に向けての交わりを育てられたことも明らかです。

[5] ヨブは、主を信じておとなしくしていたわけではありません。主に対して激しい言葉を吐き、友人たちと激しく論争をしています。また、ヨブの理解には確かに限界があり、言い過ぎてしまった態度もありました。それをエリフはたしなめ、主ご自身も厳しく悔い改めを迫られます。しかし、ヨブが最後まで黙っていれば良かったかと言えば、そうではありません。41章では、黙ろうとしたヨブを、一層神は弾劾され、逃げることを許されません。踏み出さなければ、自分の間違い、悔い改めるべき問題にさえ気づけないのです。ただ黙ることではなく、主に心を包み隠さず申し述べたヨブの態度は、基本的には主から「真実を語った」とも言われるのです。

[6] それに対する人間の手っ取り早い解決は「因果応報」です。本人に問題があったに違いない、と考えるのです。そしてそういう発想に立つ限り、苦しみに遭った人に対しては、責めたり諭したり決めつける言葉しかかけられません。そして、神ご自身を深く信頼させることがありません。神は慈しみ深い方だと言っても、その前に人間が正しく生きれば、謙虚であれば、という条件が付きます。しかし、ヨブ記はそのよう考えとは全く違う土台を示します。

[7] 神を恐れるとは、理由があってはならないことです。なぜなら、三位一体の愛なる神が造られたこの世界では、人間の求めるのは利害や機能を第一とするのではない、人格的な愛の関係であるからです。神も私たちを、理由なしに無条件に愛されます。私たちが私たちである故に愛されます。そして私たちも、神を神である故に愛し、互いにも自分自身をも、無条件に愛することをもって、神の栄光を表すのです。ただし、神との関係に背いた堕落以来、私たちは神を無条件に恐れることはなくなりましたし、互いに愛し合うことも、損得抜きには出来ない、自己中心的な存在となっています。自分をさえ理由なしにではなく、業績や競争や好ましさの故に愛そうとします。しかし、主は、私たちのすべてがはぎ取られてなお、私たちを愛されるのです。

[8] ヨブ記には、この主への告白が、不思議なことに、ヨブの言葉の中で導かれていきます。十六19「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために」、十九25「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。」

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ヨハネ九1-14「奇蹟では解決しない」特別集会より

2016-09-18 22:07:18 | 説教

2016/09/18 ヨハネ九1-14「奇蹟では解決しない」特別集会より

 

 今日のお昼には「福祉」や「介護」というテーマで特別講演をしていただきました。

夕拝も特別にして、中澤先生が教えてくれた聖書のメッセージをお分かちします。

 ヨハネ九1-14には、「生まれつき目の見えなかった人」が出てきました。この人がイエスに目を癒やしていただく奇蹟が出てきました。ここには有名な会話があります。

2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

 そうしてイエスはこの人を癒やされるのです。結果彼は、見えるようになり、最後にはイエスを信じるようになりました。これが「さいわい」だと言えます。

 でも「幸い」とか「健康」っていったい何でしょうか。今日話して下さった中澤先生は世界保健機関(WHO)の「健康」の定義を紹介しています。

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」

をいいます。

 言い換えれば、この人も目が見えなかっただけではないですね。「目が見えないのは誰のせい? きっと本人か親が罪を犯したからだ」。そんなことを言われたら、物凄く責められていることになります。そういう差別や、拒絶された思いもあったのです。そして、18節以下ではこの人の両親も冷たいのですね。生まれたときから目が見えなかった彼を、どう愛すれば善かったのか分からなかったのかもしれません。そして、毎日ここに来て、物乞いをしながら生きる、という人生。働いて仕事をしたり、結婚したり、人と遊んだりはしない一生です。

 皆さんだったらどうでしょうか。耐えられるでしょうか。もっと自分のやりたいこと、生きていて善かったと思える生き方がしたいと堪らなくなりませんか。目が見えない事は変えられません。でも、目が見えないんだからしょうがない、と考えるのではなく、目が見えなくても、精一杯幸せに、自分らしく生きられるように考えられたら、もっと健康に近く生きられたはずです。パラリンピックはそれを教えてくれます。

 これは、WHOが1980年に造った、「国際障害分類」ICIDHモデル、という少し古いものです。

 このモデルで障害とはどういうことなのかといいますと、これは、疾患・変調が原因となって機能・形態障害が起こり、それから能力障害が生じ、それが社会的不利を起こすという図式です。これをシロアムの盲人に当てはめますと目が見えない(ここでは「先天性網膜色素変性症」)は(機能・形態障害)に当たり、その結果、歩けない、字が書けないなど(能力障害)が表れます。その結果、職を失う、社会参加できないなど(社会的不利)に陥るという図式です。

 矢印一方向的です。また、バイパスの矢印があるように目が見えないというだけで差別されるという社会的不利もあるということを表します。したがって、目が見えない人が社会的不利になるのはしょうがないんだという考え方でした。これは、奇蹟でも起きて、目が見えるようになる以外、彼が幸せになることは出来ないし、両親か本人の罪だから仕方ないという図式でもあります。

 しかし、そうなのでしょうか。それでいいのでしょうか。社会的不利は本人の心身の状況のみで決まることではありません。たとえば、歩くことができなかったり、移動することが困難な場合、エレベーターを付けたり、段差を解消したりすれば移動に関する障害が軽減するなど、その人の周りの環境が非常に大きな影響を及ぼします。

 中澤さんはもう一つのモデルを紹介してくれました。同じWHOが2001年に造った、ICHというモデルです。

 ここでは、先ほどのICIDHの変調・疾患ということばは健康状態ということばへと変わり、機能・形態障害としていたものは心身機能・身体構造、能力低下は活動、社会的不利は参加というような表現になっています。つまり、障害とか不利ということばはなくなっているのです。また、その人の生活には環境因子というその人の周りの物・人・制度や個人因子というその人のライフスタイルや価値観も関わっているとしています。そして、矢印はすべてが双方向ですので人の生活はこれらのすべてが関わり合って成り立っているということを表しています。

 生まれつき目の見えなかった人も、イエスが運よくここに現れて癒やされたから、神の栄光が現されて、幸せになれた、ということではないのです。イエスは、そういう考えそのものに挑戦されました。彼は、罪の結果、不幸を強いられた存在ではなく、神の栄光を現すための存在だと、当時の社会の考え方そのものをひっくり返されたのです。実際、イエスがなさった癒やしの結果、周囲の人は彼の存在を受け入れられず、彼を追い出してしまいます。安息日に癒やされたというだけで、彼の癒やしを否定することで納得しようとします。彼は幸せになる所か、社会からはじき出されてしまったのです。

 でも、イエスは彼に出会って、新しい生き方を示してくださいました。尊厳を与えてくださいました。イエスとの関係を与えてくださいました。

 そういう見方をするなら、この箇所から私たちは、また奇跡が起きることを願い、唯一の解決とするのではないはずです。むしろ、医療や介護、職業訓練でサポートが出来ます。職がないのなら役所という環境因子に働き掛けて生活保護を紹介できます。差別をなくすよう、啓蒙活動も出来ます。街中を移動しやすいよう、バリアフリーにする、移動の介助者を頼む。鍼灸マッサージ師の職業訓練を受けたら、収入も得て、仕事の喜びも持てます。私たちはこれを使ってさまざまな可能性を探していくことが必要なのです。

 しかも、ICFモデルでは扱えない、心の悩みやケア、生きる意味の模索も、イエスは差し出しておられます。人の心、魂の深い所にも光をくれ、私たちの考え方を覆してしまわれるのがイエスです。イエスは、この人にも私たちにも、新しい生き方、一方向ではない生き方を示してくださったのです。

 聖書には沢山の奇蹟が出てきます。しかし、奇蹟が幸せにしたのではないのです。主は奇蹟以上のこと、ご自身を下さいました。私たちが、今ここにあることに尊い神のご計画を見て、出来る形で関わる生き方に変わるのです。「奇蹟が起これば幸せになれるのに」ではないのです。イエスが私たちの所に来て私たちの全生活に関わって下さることが、私たちを幸せにするのです。その福音に私たちが目覚めて、仕えることこそ、幸せの始まりなのです。それこそ最大の奇蹟です。

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Ⅰ歴代誌29章10-19節「歴代誌 心を見る神」

2016-08-28 21:30:46 | 説教

2016/08/28 Ⅰ歴代誌29章10-19節「歴代誌 心を見る神」

 教会の「祈りのカレンダー」では毎日に聖書日課が付いています。五年で、聖書を一通り読むサイクルで「聖書同盟」が作っている通読表を借用させてもらっています。今は、第二歴代誌を読むサイクルになっていますので、今日は歴代誌についての紹介をしたいと思います。

1.歴代誌の特徴

 英語では「クロニクルズ」と格好いいタイトルですが、私は若い頃、この歴代誌があまり好きではありませんでした。まず、長い。第一巻が二七章、第二巻が三六章、合計六三章もあります。そして、始まりに延々と九章も系図や名前の羅列が続きます。これは、聖書を続けて読む上での難関ですね。せっかくレビ記や申命記の難所を越えて、面白くなってきたと思ったのに、歴代誌でやる気が削がれそうになるのです。そして、その内容に新鮮味がないと思えます。その殆どは、歴代誌の前の「サムエル記」と「列王記」で、既に読んだことなのですね[1]。イスラエルの最初の王サウルの最期から、ダビデ王のこと、神殿建設のこと、ソロモン王のこと、その後のイスラエル王国の分裂と、ダビデ王朝の歴史が繰り返されます[2]。小さな変更はあるのですけど、また同じ話かと思ってしまうのです。「歴代誌は詰まらない」と思っていました。

 しかし私が、歴代誌の背景を知るうちに、見る目が変わりました。歴代誌が書かれたのは、イスラエルの民にとって大変厳しい時代、励ましや希望を必要とする時代でした。歴代誌後半に書かれるように、イスラエル王国は南北に分かれ、堕落と裁きと悔い改めを複雑に繰り返しながら、最後にはバビロン軍によって陥落してしまうのですね。そして、七〇年後に、ペルシヤ王が、エルサレムの再建のために帰還のお触れを告げる言葉で歴代誌は終わるのです。

Ⅱ歴代誌三六23「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」

そのままの言葉が、歴代誌の次の「エズラ記」の冒頭なのです。でも帰還しても、神殿再建、城壁再建、民の信仰や道徳の問題、様々な問題が山積みでした。民の心がバラバラになっていた中、エズラが律法を教え、この「歴代誌」をも編纂したのだそうです。それは、自分たちが神の民であり、神を礼拝して生きることを確認するためでした[3]。過去の事実の研究ではなく、廃墟の中から民が立ち上がるため語りかけられた本なのです。そう思った時から歴代誌は面白くなり、今では私にとって特別な本の一つです。

2.神殿建設、しかし、肝心なのは人の心の再建

 歴代誌は、捕囚から帰って来た民が「自分たちは神を礼拝する民」というアイデンティティを取り戻すため、また先祖たちの失敗や堕落の同じ轍を踏まないため書かれました。歴代誌の展開で大きな役割を果たすのはエルサレムの「神殿建設」なのですね。第一歴代誌は神殿建設を、ダビデが息子ソロモンと民の指導者たちに託す姿で終わりますし、第二歴代誌の最初、歴代誌の真ん中の部分は、神殿建設やその描写、また、その奉献の祈りなどが詳しく描かれます。

 けれども、その神殿建設は大きな中心になるのですけれども、神殿が中心ではないのです。神殿を建てることを巡っての、ダビデの信仰やソロモンの祈りは大事なのですが、神殿そのものを神聖視したり絶対化したりはしないのです。むしろその神殿は、後々の民の歩みで、どれほど乱用され、悪用されていくか。そこに偶像を持ち込んだり、異教の祭壇のレプリカを作ったり、勘違いした礼拝をしてしまう。最後に主はそのエルサレム神殿を惜しまず破壊させておしまいになるのですね。神を礼拝することは大事です。でも、礼拝する場所や礼拝の行為、また自分が礼拝に来ていること自体を誇り、安んじて、違う者を礼拝していることが人間はどれほど多いことでしょう。読んで戴いたダビデの祈りは、神を偉大なる方として誉め称えつつ、

Ⅰ歴代二九19私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛される…

と心を強調しています[4]。口先だけ、日曜だけ、教会だけの礼拝でなく、心にいつも神への礼拝があり、それが全生活に滲(にじ)み出る。それこそが神殿の建設なのです[5]。18節19節で言われる通り、神は私たちに、そういう礼拝の全き心を与えてくださのです[6]。そのために、私たちが失敗を通り、心の問題が暴露されるかもしれません。神ご自身も忍耐し、時にはご自身の壮大な神殿さえ、躊躇せずに破壊なさるかもしれない。でもそうやって神は人を導かれるのです。

 歴代誌には悪い王がたくさん出て来ます。彼らの悪い模範からも学ぶことは十分あります。しかし良い王たちも綻(ほころ)びを見せます。彼らは神だけを礼拝し、神殿礼拝の制度を大胆に改革したのです。しかし、いつのまにか、「自分は正しい」「自分は特別だ、人とは違う」と思い上がってしまいます。ウジヤ王は本当に素晴らしい王様でしたのに、祭司しか出来ない礼拝の務めを踏み込んでしまいます[7]。ヨシヤ王も律法に従った改革をしたのに、最後は無茶な戦争をエジプトの王に挑んで、愚かな死に方をします[8]。ダビデ王も、あのバテ・シェバとの不倫が描かれない代わりに、人口調査で主を怒らせたことが強調されています[9]。抑もソロモン王が神殿を建て、栄華の極みを果たした時も、民を重労働や重税で苦しめていました[10]

3.回復を宣言される神

 最悪の王のひとりはマナセ王です。散々酷い政治をした末に、バビロンへ捕縛されてしまいますが、そこでマナセが謙り、神に祈った時、神は彼の願いを聞いて彼をエルサレムに戻してくださるのです。そして、マナセはこの憐れみを体験したときに、主こそ神であることを知った、とあるのです[11]。そして彼が帰国してから心を入れ替えて精一杯真実な政治をした。この事は、歴代誌だけが伝えるエピソードです。神は、憐れみの神であり、私たちを生かす唯一のお方です。そして、歴代誌の最後は、滅ぼされたイスラエルの民に、神がペルシヤの王を通して、再出発を宣言なさったことです。主がそこにも回復を与えてくださったことです。

 歴代誌の王や民の信仰からも失敗からも、私たちは多くを教えられます。しかし、そういう失敗にさえ神が憐れみを下さり、回復をさせ、心から神を礼拝するようになる物語が繰り返されるのです。これを見逃すと、歴代誌や旧約の歩みは「失敗例」としか読めません。「私たちも同じような過ちをしないよう頑張りましょう」という道徳的な読み方になります。「ちゃんと礼拝しないと同じように滅ぼされるぞ」という殺伐としたお説教かと思いきや、歴代誌が語るのは、その反対です。反逆の民にさえ、繰り返して赦しと回復を惜しまない神の物語なのです。神は、憐れみと力に満ちた神です。この神を私たちは礼拝しているのです。この神を礼拝する民とされているのです。申命記でも繰り返して確認しながらお話ししてきましたが、この歴代誌でもそういう恵みの神が語られていて、そういう神への礼拝だと確認するのです。

 ヘブル語の旧約聖書では最後に来るのは歴代誌なのです[12]。ヘブル語聖書の結びは、

「あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。」

なのです。神は、ご自身を心から礼拝するよう、私たちを招かれる神です。立派な神殿を建てても、忠実な教会生活を送っても、本当に私たちが求めているのは、神ではなく、違うものになってしまっていることがいかに多いことでしょう。私たちが犠牲を惜しまず仕えているのは何に対してなのでしょうか。そしてそれは、本当に私たちを救うことが出来るのでしょうか。イエス・キリストだけが、私たちを本当に回復してくださる神です。神を礼拝する民として私たちを再建し、本当の礼拝の旅へと踏み出させてくださるのです。

「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。憐れみも回復も慰めも、あなたのものです。あなたと比べられるものは何一つありません。その事をあなたは今も私たちの人生において、この世界の歴史において、現されます。どうぞそのあなた様を心から信じて従う相応しい歩みを、与えてください。私共の歩みも、この礼拝の民の歴代誌に加えてください」



[1] 列王記では、北イスラエルと南ユダ王国の歩みが平行して記録されていきますが、歴代誌において北イスラエルはほぼ無視されています。

[2] アウトライン:Ⅰ歴代1-9章 系図、10-29章 ダビデ王、Ⅱ歴代1-9章 ソロモンと神殿建設、10-36章 王たちと陥落、そして帰還。

[3] 結びだけではありません。その本文の始まりも、サウルの破滅という荒廃からでしたし(一〇章)、途中は、破綻と再生の小さなエピソードが繰り返されるのです。

[4] Ⅰ歴代二八9わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。10今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。

[5] 人類の歴史を、礼拝と、実生活の信仰的な諸決断から描いているのが歴代誌です。戦争も、礼拝行為として描かれている。戦いにおいての決断は、窮地におけるその人の本質の暴露だからです。

[6]18…主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。19わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めとを守らせ、すべてを行わせて、私が用意した城を建てさせてください。」心を導かれるのは主です。私たちが自分で良い心、聖い心と生き方を作り出す事は出来ません。そう期待されたり命じたりされているわけではなく、心を見て、心を試し、心を成長させてくださる神に望みを置くことが何よりなのです。

[7] Ⅱ歴代誌二六章。

[8] Ⅱ歴代誌三四-三五章。

[9] Ⅰ歴代誌二〇章は、Ⅱサムエル一一章でダビデがウリヤの妻バテ・シェバと姦淫を犯した時期と重なりますが、歴代誌はこの事件について沈黙しています。しかし、その直後の二一章で、人口調査をすることによって、「神の御心を損なった」(7節)ことが却って、クローズアップされるのです。歴代誌は、ダビデの働きを「英雄視」と言われる程、肯定的に描いていますが、それは、サムエル記や列王記の描くダビデの負の部分を「歴史修正主義」的に改ざんしようとしたのではありません。歴代誌は、列王記を読者が読んでいることを前提としています(Ⅱ十15など)。その上で、違う角度から、この歴史を見させようとしています。ダビデを美化するよりも、ダビデとソロモンが陥った、権力・豊かさの落とし穴により集中しているように思います。

[10] Ⅱ歴代誌十4「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」ソロモンの業績の三つの側面:豊かさ、抑圧的な社会政策、変化のない宗教。W.ブルッゲマン『預言者の想像力』(日本キリスト教団出版局)、七四頁以下。新しいものを生み出すことのない宗教は、神を引き寄せるだけで、神の自由を黙殺する。今を豊かで楽しみに満たすことに集中し、神に今をも自分をも捧げることなどなくなる。

[11] Ⅱ歴代誌三三章。

[12] ヘブル語聖書の順番は次の通りです。①「律法(トーラー)」創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、②「預言者(ネビイーム)」ヨシュア記、士師記、サムエル記(上下)、列王紀(上下)(以上、「前預言者」)、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言書(以上、「後預言者」)、③「諸書(ケスビーム)」、詩篇、箴言、ヨブ記(以上、「詩歌」)、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書、エステル記(以上、「メギローテ(巻物)」)ダニエル書、「エズラ・ネヘミヤ書」、歴代誌(上下)(以上、「歴史書」)。

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マタイ二八章16-20節「あらゆる国の人が」 世界宣教週間

2016-07-03 15:02:22 | 説教

2016/07/03 マタイ二八章16-20節「あらゆる国の人が」

 「世界宣教週間」にあたり、日本長老教会の海外宣教の働きを覚えます。お配りした「海外宣教報」にありますように、中国やタイに遣わされている宣教師、バングラデシュやインドの長老教会との協力関係、そしてここにいる諸外国の方々の母国を特に覚えたいと思います。

1.イエスには、天地のいっさいの権威がある(18節)

 今日のマタイ二八章、マタイの福音書の最後の数節は、「大宣教命令」とも言われて、世界宣教の根拠としてよく読まれる言葉です。この部分を読みますと、私たちの宣教がとてもユニークなものであることに気がつきます。ここでイエスは、

二〇18…わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と仰っています。権威が与えられています、と宣言しておられます。世界における権威はイエスにある、と事実を述べておられます。決して、「世界におけるわたしの権威が奪われている」と仰ったのではありません。「この世は悪の権威が支配していて悔しい。あなたがたに、わたしの権威を授けるから、世界に出て行って布教活動をしてきなさい」と命じられたのでもありません。イエスは天地における権威を既に与えられています[1]。イエスは、天地における権威であられます。キリスト教を知らない人、信じようとしない人に対してさえ、イエスは権威を持っておられます[2]。言い換えれば、イエスは天地の造り主なる神ご自身であるということです。

 先週お話ししましたように、聖書の最初の創世記では、世界の造り主なる神が、神に背いて悪を計るようになった人間の中にさえ働いておられることが語られています。アブラハムを選び、その子孫を通して世界を祝福され、神のご計画を絶妙に果たされる、と確信するのです。

 イエスが弟子たちを遣わされたのは、この、世界を創造された神の、祝福のご計画に基づいています。神が世界に権威を持っておられ、祝福なさるご計画に基づいて、それを告白するために弟子たちが派遣されました。キリスト教という思想や信条を広め、自分たちのシンパを増やすとか「教勢を拡大する」、或いは「世界を支配しよう」という野望で動いたのではありません。むしろ、既に天地のあらゆる権威をお持ちであるお方の、祝福の約束に根差して、宣教は始まるのです。イエスを、世界の主なるお方として告白するから世界宣教をするのです。

2.弟子としなさい(19節)

 ですから、イエスが弟子たちを遣わしてしなさいと言われることも、ただ入信させなさい、信じさせなさい、ではなくて、

19…弟子としなさい。

なのですね。「弟子」とは「見習い、生徒」と言い換えても良いでしょう[3]。イエスの権威の下に謙り、教えに従い、その示して下さった歩みを示して生きる人です。すべてのクリスチャンは弟子でもあります。弟子というと特別な人を指すように思われがちですが、私もみなさんも主の弟子なのです。この言葉はそう教えますね。「福音を伝えて、信じた人の中から、特に熱心な人を弟子にしなさい」ではない。

19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。…

なのです。主が弟子たちに命じられたことをすべて守るように教えられる。それが「弟子とする」ということですね。あらゆる国の人々を「弟子」として生み出していく事こそ、主が命じられたことなのです。私たちはみな主の弟子です。教会の看板には、

マタイ十一28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

とあります。「休めたらいいのであって、弟子になるなんて遠慮したい」と思うとしたら、

29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

なのです。この「学ぶ」が元になったのが「弟子」という言葉です[4]。イエスが下さる「休み」とはイエスに学び、イエスと共に軛を負い、イエスが下さる軽い荷を担う生き方から与えられる「休み…安らぎ」です。つまり、イエスの弟子となる時に「安らぎ」が来るのです。なぜなら、イエスは全ての権威を持っておられ、心優しく謙った主だからです。イエスの教えとは無理難題や高尚な生き方ではありません。重荷を増し加えるのでなく、私たちの魂を自由にしてくれるのです。イエスという心優しきお方が、この世界の権威を持っておられ、その方がともにいてくださる。そう知って、それまで私たちの心を縛っていたあらゆるもの、迷信とか地位とか勝ち負けとか、人を支配したいとか、あらゆる間違った権威から解放されるのです。主の権威を受け入れ、自分を明け渡し、喜んで主の弟子となり、深く安らげるのです。主は、私たちの心や私の人生、毎日の行動においても、本当の権威をお持ちです。そして心優しく謙っておられ、私たちを愛し、聖書の言葉により従う道を教えて、安らぎを下さる良き羊飼いです。

3.世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(20節)

 面白い事に17節には、この時の弟子たちの中にも

疑う者

がいたとあります。この時のイエスは、弟子たちの疑いを一掃するような輝かしく眩いお姿ではなかったのですね。そして、主は疑う者をもそのままお遣わしになりました。「疑わず信じなければ伝道は成功しない」などと脅迫したり従順を強いたりしてコントロールしようとはなさいません。そして最後には

「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

と言い切ってくださいました。疑いも、悲しみも、障害や限界、喪失など、抱えているのが弟子たちです。その人生には、困難な時、真っ暗闇の時、単調で物足りない時、もあるでしょう。そうした日々、どんなときも、主は決して離れることなく、ともにいてくださる…。この約束を戴いているのが、「弟子」なのです。私たちとともにいる、とこう宣言して下さる主は、本当に心優しく謙ったお方ではないでしょうか。この深く大きな主の約束に私たちも押し出されて、主の弟子として歩むことが出来るのです。こういう恵みの主が、天にも地にも、世界の国々にも、私たちの人生にも権威を持っておられる。そう気づかされて、本当に深い安らぎを持つのです。

 イエスが弟子たちを遣わされたのは、その恵みの権威を知らないで、恵みならざるものに縛られて生きている人々の回復のためでした。世界中、民族や言語や文化は違っても、疲れたり絶望したり苦しむ人を愛おしまれたからです。ただ何とか言いくるめて信じさせて洗礼を授けたらお終いとか、沢山の改宗者を造るとか、そういう宣教ではないのです。また、西洋の伝統とか自分たちのやり方を押しつけて、「キリスト教化」したと思うのでもないのです。オセアニアのある島国では村ごとキリスト教に入信しました。建てられた教会はどこも犬が繋がれていて、理由を聞いたら、「最初の宣教師が犬を飼っていたから、教会とは犬を飼っていなければならないのだろう」と答えたそうです。そういう「改宗」から、彼らの言葉に聖書が飜訳され、学ばれていった時、イエスとはどんな方かを学び、心に喜びが溢れる回心が起きたのです。

 犬を飼うとか、クリスチャンらしくするとか、あれをせずこれをするではないのです。心がキリストを主とする恵みによって変えられるのが宣教です。主ご自身が、私たちが何かをすること以上に、主とともに歩むあり方を願っておられます。深い安らぎと喜びとを持つ生き方に、心から変えてくださるのです。世界のあらゆる国々の人も、ここにいる私たち一人一人の心の底においても、イエスが崇められますように。世界の反対側で宣教が推し進められることと、私たち一人一人の心がまだイエス以外のものに囚われている問題は、等しい大問題なのです[5]。同時に世界宣教の様子を知り、宣教師たちの苦労や証し、そこでの回心のドラマや大変さを知ることで、私たち自身が励まされ、教えられます。主が本当に天地のいっさいの主であることを、鮮やかに知らされます。世界宣教のために、祈り捧げ、私たちも主の弟子とされましょう。

「天と地、一切(いっさい)の主権者なる主よ。疑い迷う私たちをも養い、愛する弟子として成長させたもうのは、あなただけです。ここ日本で、私たちが礼拝の民として集められ、今、世界の弟子たちとともに礼拝を捧げている不思議に、あなたを崇め、私たちの心も人生も捧げます。主よ、どうぞ世界において、主の弟子とされる祝福を推し進め、そこに私たちも加えてください」



[1] これは、マタイが最初から宣言してきた「権威者イエス」のテーマです。七29「というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」、八9(百人隊長のイエスに対する台詞)「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」(だから、イエスの言葉には尚更権威があるので、ただおことばを下さい、という繋がりになっています。)、九6「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。7すると、彼は起きて家に帰った。8群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」、十1「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」、二一23「それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老が、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」24イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。」(27節まで参照)。このように、イエスの権威は、十字架に掛かる前から明らかであり、論点であったことが分かります。十字架と復活によって帯びた権威ではなく、十字架と復活へと至るような権威であった、とも言えます。それは、四章の「荒野の誘惑」で悪魔が「この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ四8-9)」と誇示した権威とは根本的に異なる権威です。

[2] このことは、マタイでは五46(天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです)などの、民族や選民の枠を越えた広い視座に通じます。

[3] ダラス・ウィラード『心の刷新を求めて』(あめんどう、中村佐知、小島浩子共訳、2010年)、435頁。今回の説教では、同書の第一三章「地域教会の霊的形成」がマタイ二八・一八以下を解説していますので、大いに参考にさせていただきました。

[4] 「学ぶ」(マンサノー)はマタイで三回使われています。九13「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」、二四32「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」。この言葉から「弟子」(マセーテース、マタイで69回)、「弟子とする・弟子となる」(マセーテューオー、十三52、二七57、二八18)が生まれます。

[5] 私たちの中で、まだこのイエスを「主権者」と認めていない思いがある。世俗の政治家や権力者のような虚勢、お金や名誉や恋愛がもたらす欺瞞の恍惚感を追い求めるところがある。そのようなままでは、私たちは「キリストの弟子」ではなく、ただの「信者」でしかない。それはまだ失われた状態であり、疲れ、迷い、渇き、何かがあれば信仰を捨てかねない状態。

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ヨハネ十二章12-26節「栄光を受ける時が来た」 棕櫚の主日礼拝

2016-03-20 20:17:43 | 説教

2016/03/20 ヨハネ十二章12-26節「栄光を受ける時が来た」

 

 徳島駅前や高島の公園への道に、南国の雰囲気を出している大きな木はナツメヤシです。別名が、今日の13節の

「棕櫚」

です[1]。棕櫚の枝を取るのは簡単ではありませんね。梯子をかけ、あちこち傷つけて血を流しながら、棕櫚の木によじ登り、枝を落としたのでしょう。大勢の人が、棕櫚の木の枝を取ってイエスを迎え入れた。この週の木曜夜にイエスは逮捕され、金曜の朝に十字架にかけられました。翌週日曜が復活のイースターですが、それに先立つ一週間が「受難週」です。今日はその最初の日。棕櫚の枝でイエスを迎え入れた、「棕櫚の主日」です。

 四つの福音書のうち、棕櫚の枝が出て来るのはヨハネの福音書だけです[2]。これはイスラエル民族の過去の栄光とダブらせた、民族主義的な行動でした[3]。棕櫚の枝を取りながら、人々はイエスがその神の力で、かつての黄金時代を取り戻してくれると期待したに違いありません。

13…そして大声で叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」[4]

 イエスがイスラエルの王として都に入り、大きな顔をしているローマ帝国やそちら側の人間たちを追い払ってくれる。そんな政治的な期待が、彼らのパレードを盛り上げていたのです。

 しかし、イエスはその彼らの熱狂と距離を置かれました[5]。その第一が、

14イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。

15「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

 これは旧約聖書の幾つかの御言葉をアレンジしたものですが[6]、そこでは

ゼカリヤ九9…この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。…

とあります。イエスは、単なる民族主義の王や軍事力や政治的な国家を打ち立てるお方ではなく、正しく、救いを賜り、柔和なお方である。16節では、それが弟子たちにはこの時は分かっていなかったけれど、イエスが栄光を受けられてから、即ち、十字架にかかり、よみがえられてから、この時のイエスの行動の意味、そして、群衆がイエスにしていたことの本当の意味が分かったのだ、と書かれていますね。弟子たちもこの時は、群衆たちと一緒に興奮していたのでしょう。しかし、イエスはそのような中で独り静かにろばの子に跨がって、ご自身が政治的な王や革命家とは一線を画する「王」であることを示しておられたのです。

 この事を裏付けるのが、20節以下です。その祭りにギリシヤ人たちが来ていて、イエスに会いたいとピリポに頼んできた、というのですね。ピリポは彼らをすぐにイエスに取り次ぎません。彼らは民族主義の興奮に舞い上がっていました。その時、所詮は部外者の異邦人が会いたいと言われて、ピリポは躊躇したのです。しかし、イエスは何と答えたでしょうか。

23…「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。…」

 この、実に美しく、心打たれる言葉を、イエスはこの時に発せられるのです。イエスにとってギリシヤ人の面会は、ユダヤ人の熱狂よりも、ご自身の「栄光」に近かったのです。イエスは、イスラエル民族の回復だけを見てはおられませんでした。ギリシヤ人やローマ人、世界の諸国の人々がご自身のもとに集まる時を望み見ておられたのです[7]。そのために、今イエスはご自身がまもなく十字架に挙げられて、殺されようとしていました。でもそれは、

32わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

 すべての人を。ユダヤ人だけでなくすべての人を自分のところに引き寄せる。そのためにイエスは十字架に御自分を献げられます。だから私たちはこの受難週を特別な思いで守り、礼拝をし、私たちのために苦しまれた主への感謝で過ごすのです。しかし、イエスが言われる「一粒の麦の死」は、ご自身の死だけではありません。私たちに対する呼びかけでもあります。

25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 麦が麦らしく実を結ぶよりも麦粒の形のままでいようとすることが可笑しいように、人間も自分のいのちを守り、自己実現や自己中心に生きるなら、結局は窒息してしまうのです[8]。イエスが、一粒の麦が「死ねば、豊かな実を結びます」と仰ったのは、御自分の死によって、沢山の人、世界中の人が神の国に入るだけではありません。自分の民族しか考えず、自分可愛さを手放さない人間がいくら集まっても、「枯れ木も山の賑わい」であって、「豊かな実」とはなりません。イエスの栄光は、当時の人々が酔い痴れたような、世俗的な王となって崇められることではありませんでした。また、私たちのために十字架に死んでくださって、私たちがイエスを信じればこのままでも天国に入れる、といって終わるものでさえありません。

26わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

 イエスは一粒の麦として死なれたように、私たちにも、自分を握りしめるのではなく、自分を明け渡し、主イエスに仕えなさいと言われ、そういう生き方へと私たちを踏み出させてくださるのです。C・S・ルイスは

「自分を、地面にじっと植わっている種だと考えてごらん」

と言いました[9]。自分が、一粒の麦である。そのままでは小さく、何も出来ない、価値もないものにしか思えません。しかし、自分を神に明け渡して、イエスに従うことで豊かな価値を実らせる、そう思わせてくださるのです。イエスの栄光とは、私たちのために死ぬだけでなく、その死によって私たちの歩みや願い、価値観も新しくしてしまう栄光です[10]。私たちの努力や本気で変わるのではありません。ただ、私たちが主イエスの愛を深く味わい、感謝するなら、その愛への憧れが始まります[11]。そうして、私たちの置かれたそれぞれの場所や生活の真っ只中で、主が私たちの心や歩みや行動を潤し、恵み、報いてくださるのです。終わりの時代には、

ヨハネ黙示録七9…あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

10彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」[12]

という幻が語られています。今日は、その日を待ち望む日でもあります[13]。大人たちが興奮して棕櫚の木に登って枝を取ったように、私たちも子どものように喜び叫んで、主の救いを誉め称える日が来る。主はその時に向けて、既に働いておられます[14]。私たちを豊かな実としてくださるのです。キリストのいのちをもって愛された者として、尊い務めを託された者として、喜び仕えなさい。主イエスが十字架に死なれたのは、私たちをこのいのちへと招くためでした。

 

「主よ。あなた様は、大きな事業や劇的なドラマよりも、この私たちを受け入れ、愛し、その愛によって私たちを変えることでご自身の栄光を現されます。どうぞ、その御業に与らせてください。一人一人の生活を、心の奥深くを、十字架の愛によって照らしてください。受難週の歩みが、お一人お一人の慰めと励まし、悔い改めと喜びに深く潤される歩みとなりますように」

ちなみにこれが、棕櫚(ナツメヤシ)の実です。
ちなみに、これがナツメヤシの種。
別名「デーツ」 美味しいデスよね。この種から、あのナツメヤシが育つ!
別名「デーツ」。美味しいですよね~ この親指大の種から、あの棕櫚が育つ!

[1] 「正式名称はナツメヤシで、大きい葉っぱだと二メートルぐらい、高さ十メートル近くになる大きな木です。デイツという甘い実がなります。この実を取るには、かなりの高さまで登っていかなければなりません。現在は、品種改良されて、背の低い木もありますけどね。しゅろの葉が道に敷かれたことには、わざわざ木に登ってとってきたということ以上の意味があります。実はイスラエルでは、この〝しゅろ”は、旧約聖書の創世記にでてくる「いのちの木」をあらわす植物なのです。「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。一つの川が、その園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた」(創世記2・10) しゅろの木は、エデンの園にある「いのちの木」であり、同時に〝神の祝福”のシンボルでもありました。つまり人々は、この「いのちの木」の葉を敷くことで、イエス・キリストを救世主と信じ、新しい〝いのちのシンボル”として、入城を喜んだのです。 ちなみに、「そこから分かれて、四つの源となっていた」とあるように、〝木を中心として、水が四方に流れている”というのが、中東における天国のイメージです。今でもアラブの町では、庭に噴水をつくり、まわりに緑の葉、特にヤシの木を植えている家をよく見かけます。できれば、噴水の水は四つに分かれて流れるようにしたいとされます。聖書とは関係ない古代の町でも、水が四つの方向に流れるように造られている跡が発見されています。」杉本智俊「天国にヤシの木? つい人に話したくなる聖書考古学第五回」『いのちのことば』2013年3月号。

[2] マタイ二一8とマルコ十一8では「木の枝」と書かれています。

[3] これは、イスラエルの過去でも、何度か繰り返されてきた勝利の光景でした。敵に占領されていたエルサレムを取り戻した時の、歓喜のパレードでした。参照、旧約続編「マカベヤ書第一」13章

[4] 詩篇一一八25「ああ、主よ。どうぞ救ってください。(これがヘブル語の「ホサナ(主よ、救いたまえ)」という慣用句になっていきます。)ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。26主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」より。

[5] これはこの時だけではなく、ヨハネ六15、七6-8などに見られる、一貫した態度です。

[6] ゼカリヤ書九9「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。10わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」これと、ゼパニヤ書三16「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」も加えた言い回しです。

[7] キリストがこの時見ておられたのは、五日後に訪れるご自身の十字架の苦しみでも、その時「十字架につけよ」と叫ぶ彼らでもありません。豊かな実を結ぶことです。私たちがキリストのいのちをもって愛された者としてともに喜ぶ日です。

[8] ギリシヤ文化が求めたのは、本来、自分を伸ばし、自己主張、自己達成を求めるものです。しかし、イエスはその正反対を教えました。そのイエスの教えに惹かれてギリシヤ人が面会を申し出ています。ここに既に、キリストのみわざがあると言えます。

[9] 「あなた自身を大地の中でじっと冬を凌いでいる一粒の種子と考えてごらんなさい。あなたは大いなる庭師の心にかなうときに美しい花として真の世界に生え出るべく、真の目覚めのときを待っている種子です。私たちの現在の生活はかしこから顧みるとき、半ばは目覚めていても、半ばはまどろんでいるとしか見えないでしょう。わたしたちはいま、夢の国にいるのです。しかし鶏が暁を告げるときが近づいています。それは、わたしがこの手紙を書き始めた瞬間より、いっそう近づきつつあるのです」(『目覚めている精神の輝き』275ページ)。

[10] もし私たちがいくらイエスの十字架の愛を素晴らしい、有り難いと言っていたとしても、自分は自分の生き方をガッツリ守って手放す気もないとしたら、十字架の愛への賛美だって本気だとは言えません。

[11] 群衆の大歓声よりも幾人かのガイジンを喜ばれたイエスの姿を想う時、人の声に振り回されて疲れている生き方から自由になりたいと思うでしょう。自分の命や財産やあれこれを握りしめて死んでいく生き方ではなく、一粒の麦となり、人に仕えて生きたイエスや多くの弟子たちの生き方に参りましたと思わされます。

[12] 黙示録七9「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。10彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

[13] 過去の棕櫚の主日は、民族主義やただの熱狂でした。しかし、その時にはまだ隠されていた真実な意味がありました。柔和な王が来られて、真実な支配をなさる。そして、民族や人種を越えたすべての人が集められるという意味も込められていました。そして、その日は必ず来るのです。

[14] そのためには、全ての人の恐れが超克され、民族主義ではない価値観が信頼されないと無理です。民族主義や、それぞれの文化の価値観にしばられたままでは、神の国でまた分派が起きるでしょう。そこを取り扱われる必要があります。イエスは、そのような深い御業をなさるのです。

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