数学は一つの言語だという考えをこの間のM大学の基礎物理学の授業で話した。
そういう考え方で数学に対して一般学生のもつアレルギーを少しでも減らしてもらいたいと思ったからだ。だって、数式が一つ出てくると思考停止におちいるのは困る。
数式だってなんらかの意味を持っているのだし、それを一つ一つ調べていけば普通の人にも分かるはずだから。
それで有名な例はランスロット・ホグベンの「百万人の数学」の冒頭に出てくる。
フランス百科全書派のディドローが数式がわからないために神の存在を証明したというオイラーの提出した数式に眼がくらんで当時滞在していたロシアの宮廷から逃げ出してフランスに帰ったという話である。
とてもありそうな話で身につまされるが、遠山啓によれば、これはホグベンのフィクションだろうという。というのはディドローは数学の論文も書いているという。
ホグベンはもちろんこのオイラーが神の存在を示したという式を言葉で解説して、それがもちろん神の存在とは関係のないことを示している。
しかし、世の中には数学は一つの言語だという考え方に同意しない人もいるに違いない。では数学は何だといわれると困るが、数学は一つの思想だというのがそれであろうか。
私は数学者ではないので数学言語説の方に加担をしがちですが。
それと数学の論理等が現実を反映したものと考える人は例に挙げておられるゲーデルもそうでしょうが、水道方式で有名だった遠山啓氏の一派は現実を反映したものという考えが強いです。
大学の一般教養の微積の先生が当時のソ連の数学者は数学は現実を反映したものと考える傾向が強いといわれてました。もっとも、もうかれこれ50年に近い昔のことです。それに反して普通の数学者は数学は人間の頭で考え出したものという雰囲気が強いですね。その代表はヒルベルトでしょうか。
素粒子物理ではいろいろなアイディアが出ますが、このころの私たちの感じているところではおよそ人間の考え出したようなものは自然界で何らかの形で実現しているということです。
もっとも私の先生の一人などは本来科学は自然の反映と考える傾向の人だったと思いますが、歳をとってくると科学も人間のやることだという実感をもつようになったと述懐されていました。そういう側面はあると感じています。