昔、私の若い頃1回だけ大森荘蔵氏にあったことがある。ある「科学と哲学の会」の席であった。
大森さんの話は『コップを私たちは全体を見ることができないので、もののを認識するのに知識が不十分というのかものそのものを正しく認識できないのだ』といういうような話だったと思う。
確かにある角度からコップを見れば、その裏まで見ることはできない。しかし、その裏のところに鏡をおいてその像を見ることにすれば、コップの裏側を見ることができるではないかと思った。
コップの底にしても同じである。その下の鏡をおけば、見ることができる。多分大森さんならこう反論されるであろう。確かに鏡の像によってコップの裏側も下も見ることができるだが、それはコップそれ自身ではない。
だが、先日述べたように物が見えるというのはその物体から反射された光を見ているのだ。物理の法則で光の反射と屈折は同じ光の性質として同等の立場で成り立っている。
鏡で見た像がコップそのものの認識にならないという主張は逆に物が見えるということに対する主張を危うくする。だから、私はそういう主張はまやかしだと思うのである。
これは人によくわかるようにたとえて言ったものだったのかも知れない。しかし、論があまりにも雑にできすぎている。
大森さんは東大の物理学科の卒業生だそうである。戦争中であまり勉強はしなかったかもしれないが、それでもそういうことは考えが及ばなかったとは思いがたい。
そういうことをご存知の上で上に言ったような主張をされたのだと思う。これはしかし頂きかねるというのが私の意見である。
実際に何を主張されたかったのは哲学に暗い私にはいまもわからない。ただ、そのときにそういう反論がすぐにできればよかったのだろうが、その場での大森さんの主張をおかしいと思って考えて後で思いついたことなので、後知恵である。
その後、大森さんは分析哲学の大家になられて、その後に亡くなられた。しかし、これが大森さんをめぐる私の思い出の一つである。