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四谷見附

2019-01-10 05:39:36 | 江戸川・紅葉川

 四谷見附は半蔵門から四谷大通(新宿通り)、甲州街道へと向かう交通の要所にありました。その四谷見附の工事を担当したのは長州藩毛利家で、寛永13年(1636年)の牛込、赤坂間の外堀工事の一環として行われ、こうして、30年に及ぶ江戸城建設(天下普請)は一段落したことになります。なお、四谷見附の場所は軍事的配慮からでしょう、新宿通りとはずれる食違い構造になっており、交通の障害ともなっていました。そこで、大正2年(1913年)に四谷見附橋を新設、このずれを解消するとともに、同14年には、従来の場所に橋を架け替え、こちらを新四谷見附橋としました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」に収録されている西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。 

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    ・ 四谷見附跡  「実測図」で枡形は維持されていますが、明治時代の中ごろまでには、石垣の大半は撤去されました。 奥の新四谷見附橋から振り返った市谷堀跡は→ こちらです。  

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    ・ 四谷見附橋  都内最古の陸橋ですが、平成3年の道路拡張の際架け替えられました。四谷見附橋から四谷堀跡のショットは→ こちらで、すぐに左カーブでJR線と分かれます。

 四谷見附から西方一帯が広く四谷で、内藤新宿も当初は四谷のうちでしたが、元禄年間(1688~1704年)に宿場が開設され代官支配となったため、四谷から外されたといいます。いずれにしても近世以降の地名のようで、牛込や市谷のように中世の文献に登場することはありません。地名由来は大きく二説で、四谷との表記から四つの、ないし四番目の谷説、そして四家との表記から四つの家説です。「御府内備考」は四つの家説に立ち、「右四家の内梅屋保久屋は子孫今に此地にあり」としています。なお、市谷(市ヶ谷)と同様、二つの表記が併存しますが、現在の住居表示は四谷、駅名は四ッ谷となっています。