神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

戸塚村

2018-04-04 06:43:16 | 神田川5

 「戸塚村は日本橋よりの行程前村に同じ(二里余)、下戸塚村に対し、土人は上戸塚村と唱ふ、・・・・家数三十三、東は諏訪、源兵衛の二村、西は上落合村、南は西大久保村、柏木の二村、及大久保百人組屋敷、北は下落合村なり、東西八町、南北五町、天水を湛て耕し、神田上水をも引沃く、飛地上落合村にあり、・・・・又村の中程に青梅道係れり、こは高田辺より多摩郡田無村への脇道なり」(「新編武蔵風土記稿」) 最後の「青梅道」は青梅街道ではなく、その裏道の機能を有する早稲田通りのことです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は戸塚村当時の村、大字境です。  

 「古は近村の総名にて富塚と書して後各村に分れし頃今の字に改むと云、されど『小田原役帳』に太田新六郎知行内寄子衆配当十一貫五百文、江戸戸塚内山中分、及恒岡弾正忠五百文、江戸牛込之内富塚とのせ又『長禄江戸図』にも牛込の辺に富塚村及び山中分と云ものあれは、富戸唱同しきを以て当時互に記せしならん」 「新編武蔵風土記稿」はさらに続けて、「正保の改」には大久保一村のみ載せ、「元禄の改」では戸塚村、戸塚村の枝郷大久保新田、大久保村、大久保村の枝郷諏訪村などとなっていることから、広域地名の戸塚(富塚)が一時大久保に代わり、その後各村に分かれたのではないかと推測しています。

 

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    ・ 諏訪神社  「当村(諏訪村)及び戸塚村、大久保百人町、西大久保村等の鎮守なり」(「新編武蔵風土記稿」) 当社が戸塚、大久保を含む一帯の鎮守であることも、広域地名説の有力な傍証です。

 以下は戸塚の地名由来に関する「江戸名所図会」の引用です。「江戸鹿子に昔洪水の時此地ばかりは戸を以さゝゆるが如く、水災にかゝらざりし故に名とするよし、記せども信ずるにたらず。里老の説に、宝泉寺の地に富塚と云ありて、所の名も富塚村と号く、今は富を戸に改むると、云云。或人云、旧岡本氏某の邸の地に古き塚ありて白狐の窩とす、戸塚は狐塚を誤りて唱ふるにやと。又此辺昔古塚多くありし故に、十塚と呼しなるべしともいへり。按に、狐塚といふは水稲荷の社の傍にある塚の事をいふならんか」 「新修 新宿区町名誌」(平成22年 新宿歴史博物館)は、二番目の富塚と三番目の狐塚は、水稲荷の旧地にあった同じ、おそらく前方後円墳としたうえで、富塚説を妥当としています。