大久保駅前から小滝橋に至る、通称小滝橋通りが江戸時代、柏木村の東縁を画していました。そのため神田川右岸は小滝橋を境に柏木村から戸塚村へと移り、現行の住居表示でも北新宿(4丁目)と高田馬場(3,4丁目)を分けています。小滝橋が境となった事情は、これまでと同様、田用水の帰属と関係しています。「段彩陰影図」から見て取れるように、ここでも神田川と右岸段丘は接しており、それに伴い柏木村の用水(新堀)は流路を失い本流に戻り、小滝橋下流に設けられた堰から改めて戸塚村の用水が分岐していました。
- ・ 「段彩陰影図 / 神田川6」(1/18000) オレンジ線は区境で大半は新宿区が占め、左下隅が中野区(旧中野村)、右上隅が豊島区(旧下高田村)です。
早稲田通りに架かる小滝橋は、江戸時代からある古い橋で、「上水記」に添付された「神田上水絵図」には淀橋の次に描かれており、この事情は→ 「柏木村絵図」や→ 「東京近傍図」でも変わっていません。名前も当時から小滝(おたき)橋で、その由来は「東京府志料」に、「夏秋ノ間上水ヘ堰ヲ置テ田ノ用水ニ引ク其余水溢レテ瀧トナル故ニ名トス」とあるように、橋の下手に堰が設けられ、小さな滝ができていたためでした。なお、「東京府志料」は小滝橋の仕様に関し、「板橋 中野村ニアリ小瀧橋長十間巾二間」と書いていますが、明治、大正を通じて大きな変化はなく、「豊多摩郡誌」でも「木橋にして幅二間長八間」となっています。
- ・ 小滝橋 小滝橋通りからのショットです。坂下で右手の諏訪通りや、さらにその奥の早稲田通りと合流、早稲田通りとなって小滝橋を越えます。
橋の東側の交差点に面して据えられた→ モニュメントには、小滝橋にまつわる昔話や名前の由来、与謝野晶子の短歌、「しら波と 落合崎のくれかたの 橋杭見ゆる柏木のもと」などが刻まれています。そのうち小滝橋にまつわる昔話ですが、吉祥寺の油屋の小僧が井の頭池に住む大蛇を切ってしまい、その下顎の骨がここまで流れてきてかかったとか、淀橋で身を投げた中野長者の娘の遺体がここ小滝橋で見つかったとか、みな堰があったから成立したお話です。中野長者の娘の話から、淀橋が「姿見ずの橋」、小滝橋が「姿見の橋」と呼ばれたともいいますが、これは(面影橋の別名、ないしその付近の別橋とされる)「姿見橋」とごっちゃになったように思われます。