昨日引用した「新編武蔵風土記稿」は、戸塚村の用水について、「天水を湛て耕し、神田上水をも引沃く」としていました。以下は、後者に関する明治17年(1884年)の「田用水に関する調査」からの抜粋です。「用水の名称 神田上水ヨリ分水。水源 神奈川県北多摩郡吉祥寺村井ノ頭池。川幅 九尺。川延長千十五間。水掛反別 六町九反廿五歩。配水方法 草堰拾間。水路管理方 毎年五月ヨリ九月迄田方仕付中、田持惣代ヨリ府庁水道掛江願之上神田上水村内字小瀧橋江草堰ヲ以テ水引入候事」 最後の草堰は小滝橋の名前の由来となったもので、「東京府志料」は「夏秋ノ間上水ヘ堰ヲ置テ田ノ用水ニ引ク其余水溢レテ瀧トナル故ニ名トス」と書いています。
- ・ 「戸塚村絵図」 「地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-」(昭和60年 新宿区教育委員会)に収録された文政8年(1825年)成立の「大久保新田戸塚村絵図」をもとに、イラスト化しました。
小滝橋下流で分岐した用水は右岸段丘の裾をめぐり、次の田島橋手前で本流に戻っていました。この構造は昭和の初めに神田川(及び妙正寺川)が改修され、田用水が埋め立てられるまで変わりませんでした。→ 「段彩陰影図」に見られる右岸の地形からすると、変えようがなかったといえそうです。なお、上掲「村絵図」の右端の二本の水路にも注目です。「段彩陰影図」にも対応する二本の谷筋があり、うち一本はJR線の築堤で、もう一本は射撃場(現戸山公園)による整地で、各々わかりにくくなっていますが、れっきとした自然の谷筋です。「新編武蔵風土記稿」が「天水を湛て耕し」としているのは、そのうちの西側のもので、合流地点の字から清水川と呼ばれています。
- ・ 小滝橋 下流方向のショットです。この付近に堰が設けられ、右岸に用水が分岐していました。ただ、改修以前の神田川は右手に蛇行しており、堰の位置も現在の流路とはズレていたはずです。
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