神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

戸塚村用水

2018-04-05 06:45:47 | 神田川5

 昨日引用した「新編武蔵風土記稿」は、戸塚村の用水について、「天水を湛て耕し、神田上水をも引沃く」としていました。以下は、後者に関する明治17年(1884年)の「田用水に関する調査」からの抜粋です。「用水の名称 神田上水ヨリ分水。水源 神奈川県北多摩郡吉祥寺村井ノ頭池。川幅 九尺。川延長千十五間。水掛反別 六町九反廿五歩。配水方法 草堰拾間。水路管理方 毎年五月ヨリ九月迄田方仕付中、田持惣代ヨリ府庁水道掛江願之上神田上水村内字小瀧橋江草堰ヲ以テ水引入候事」 最後の草堰は小滝橋の名前の由来となったもので、「東京府志料」は「夏秋ノ間上水ヘ堰ヲ置テ田ノ用水ニ引ク其余水溢レテ瀧トナル故ニ名トス」と書いています。

 

Totukaezu1

    ・ 「戸塚村絵図」  「地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-」(昭和60年 新宿区教育委員会)に収録された文政8年(1825年)成立の「大久保新田戸塚村絵図」をもとに、イラスト化しました。  

 小滝橋下流で分岐した用水は右岸段丘の裾をめぐり、次の田島橋手前で本流に戻っていました。この構造は昭和の初めに神田川(及び妙正寺川)が改修され、田用水が埋め立てられるまで変わりませんでした。→ 「段彩陰影図」に見られる右岸の地形からすると、変えようがなかったといえそうです。なお、上掲「村絵図」の右端の二本の水路にも注目です。「段彩陰影図」にも対応する二本の谷筋があり、うち一本はJR線の築堤で、もう一本は射撃場(現戸山公園)による整地で、各々わかりにくくなっていますが、れっきとした自然の谷筋です。「新編武蔵風土記稿」が「天水を湛て耕し」としているのは、そのうちの西側のもので、合流地点の字から清水川と呼ばれています。

 

0116a

    ・ 小滝橋  下流方向のショットです。この付近に堰が設けられ、右岸に用水が分岐していました。ただ、改修以前の神田川は右手に蛇行しており、堰の位置も現在の流路とはズレていたはずです。  

  <「嘉陵紀行」>  村尾嘉陵は文化13年(1816年)弥生七日早朝、勤め先の清水邸を出て早稲田通りを西に向かいます。「高田の馬場の北側の路を西に向て行、二十六七丁、路の傍に寺あり(寺の名聞しかどわすれたり)、門前に石碑あり、戸塚村と彫付けたり、少し行ば左の方林樹の間人民あり、猶行て橋あり(戸塚村の橋と云)、井ノ頭上水の流れにわたす、長さ三丈斗り、路の右、橋の手前に薬師堂、林のうち小高き所にあり、橋より南に行くみちあり、一里斗にて大久保百人町に出ると云、橋をわたりて行ば、左右田也・・・・」 注目は橋の前後の風景の違いで、橋の手前は小高い林、橋の先は田圃だったたことになり、この違いは左右の段丘の迫り具合の差ということになります。