桃園川緑道の起点はまた、阿佐ヶ谷から馬橋への境でもありました。「馬橋(マハシ)村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱なし、江戸日本橋より行程三里半余、民家五十六軒、村の広さ東西六町南北十八町、東は高円寺村にとなり、西は阿佐ヶ谷村に及び、南は和田、田端の二村につゞき、北は上沼袋村に接す、・・・・青梅街道村の南の方を高円寺村より阿佐ヶ谷、田端の二村へつらぬく、村内にかゝること凡六町」(「新編武蔵風土記稿」) 早稲田通りと五日市街道の間にあって、阿佐ヶ谷村と高円寺村に挟まれた細長い短冊型の区画で、中央を「風土記稿」では単に「用水」とある桃園川が流れていました。
- ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ細線は杉並村当時の村や大字の境です。
この阿佐ヶ谷村と高円寺村に挟まれた細長い区域だったことが、旧馬橋村の現在を決してしまったの感があります。大正時代も中ごろ、4kmと距離の開いた中野と荻窪の間にもう一駅作る話が浮上します。当所のプラン通りなら中間に馬橋駅が誕生したのでしょうが、用地買収に手間取っている間に、阿佐ヶ谷が名乗りを上げ、阿佐ヶ谷だけでは距離のバランスが悪いことから高円寺も巻き込み、結果、大正11年(1922年)に阿佐ヶ谷、高円寺両駅が開業、馬橋駅は幻のまま立ち消えとなってしまいました。駅名を失った馬橋地区は新しい住居表示で、阿佐ヶ谷、高円寺に二分され、現在は両者の中間にある公園や、小学校などにかろうじてその名前を留めるだけになってしまいました。
- ・ 馬橋稲荷神社 「稲荷社 小名西ノ久保にあり、村の鎮守なり・・・・村内福泉寺の持なり」(「新編武蔵風土記稿」) 新住居表示の実施に伴い馬橋の地名が失われたため、あえて馬橋の名前を冠するようにしたそうです。
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