羽沢ふじ公園を過ぎ、百数十メートルで都営アパートの敷地に差し掛かりますが、このあたりまで来ると谷筋もやや広くなり、かっては水田として利用されていたところです。そうはいっても、ここまで見てきた中村や中新井村に比べ、→ 「段彩陰影図」で見るように谷筋の狭さは顕著で、分水に依存する水田はごく限られたものでした。明治初めの用水使用水田面積は3.2町歩(村全体の水田面積44.2町歩 以下同様)となっていて、中村の9.4町歩(10.2町歩)、中新井村の11町歩(17.5町歩)に比べ、面積の少なさ依存の割合の低さは際立っています。なお、数字は用水使用水田が「星野家文書」、全体は「東京府志料」によっています。ちなみに同じ文献を元にした上、下井草村等六ヶ村組合の合計は64.2町歩余(81.8町歩余)です。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正測図) / 下練馬」 上掲地図と同一場所、同一縮尺です。
- 1. 羽沢ふじ公園の先です。右手の歩道には車止めが付いていて、水路跡を物語っています。
- 2. また水路単独の狭い路地が見えてきました。右写真は左岸からのショットで、変わらず狭い谷筋が続いています。
- 3. 狭い路地を抜けると、右手が都営羽沢2丁目アパートの敷地です。
- 4. 右写真に写る都営アパートの敷地の幅が、ほぼ谷筋の底の幅にあたり、かっては水田だったことになります。