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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

弥生町4の水路2

2018-02-08 06:11:54 | 神田川4

 本郷橋と柳橋の間で右岸から合流している小支流を追っています。流路の大半が弥生町4丁目に属することから、仮に弥生町4の水路と名付けたものです。明治、大正期の地形図を見ると、水路こそ描かれていませんが、狭いながら田圃が描かれています。昭和初めの区画整理の際、田圃はほぼ消滅し代わって碁盤の目状の道路網が出現しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 通りを越えた先で右カーブです。ここまでは300m弱の直線コースでした。

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    2. 左手台上には「新編武蔵風土記稿」に「小名川嶋の内にあり」と書かれた→ 正蔵院があります。

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    3. このあたりが田圃の先端でした。右写真は右手からのショットです。 

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    4. ここからは水路単独を思わせる狭い路地になります。

弥生町4の水路

2018-02-07 06:30:52 | 神田川4

 中野通りに架かる寿橋の次は本郷橋ですが、さらにその次の柳橋との間に、右岸から小支流の合流があります。 → 「段彩陰影図」で、中野通りの東側をほぼ平行する細長い谷筋がそれで、→ 「東京近傍図」には水路も描かれています。ただ、「近傍図」では右岸流に合流していますが、土地区画整理事業によって廃止された後、本流に直接合流するよう付替えられ、現在の痕跡もそうなっています。なお、「近傍図」の右岸流は本郷堰から分岐しておらず、雑色村の右岸流から連続しており、その辺の事情は不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 本郷橋と柳橋の間のこの路地から始めます。

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    2. 本郷通りを越えます。付替え以前はこの付近で右岸流(本郷用水)に合流していました。

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    3. ほぼ直線で250mほど続きます。その間直交する道路はすべて区画整理事業の産物です。 

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    4. 右写真は左手(右岸)からのショットですが、微妙ながら谷筋が横切っているのが分かります。 

中野通り

2018-02-06 06:43:54 | 神田川4

 中野通りは都道420号線のうち、千川通り、ないし目白通りから甲州街道、ないし井ノ頭通り間の通称で、山手通りと環七通りの中間にあって両者の役割を一部補っています。神田川とクロスする区間は、昭和2年(1927年)発足の中野町(のち中野区)第二土地区画整理組合により、他に先行して開通しました。寿橋の架橋もその時で、昭和8年の「中野町史」によると、橋長7.27m幅員10.91mのコンクリート橋でした。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  前回UPの→ 「昭和3年第三回修正」と同一場所、同一縮尺で、現行の神田川をブルーで、本郷通りと中野通りをグレーで重ねています。

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    ・ 中野通り  右岸段丘の際から寿橋方向のショットで、左手に見える崖面下を右岸流、その先の横断歩道が本郷通り、さらにその先が寿橋という位置関係です。 

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    ・ 神田川  中野通りに架かる寿橋から下流方向です。次の本郷橋がチラッと見えていますが、この前後の橋はすべて中野町第二土地区画整理組合の事業の結果です。 

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    ・ 本五ふれあい公園  上掲写真の左手マンション裏にある、多目的運動場を含む公園です。改修以前の神田川は北寄りに蛇行しており、このあたりが流域でした。

区画整理2

2018-02-05 06:56:28 | 神田川4

 地下鉄中野富士見町駅前の神田川左岸は、東側の中野区と西側の杉並区で二分されます。江戸時代の本郷村と和田村で、明治に入り、ともに四村の合併によって中野村と和田堀内村になり、のち中野町と和田堀町になりました。ところで、「昭和3年第三回修正」をみると、町境を画する「-・-」線以外にも、両者の違いは一目瞭然になっています。中野町(のち中野区)第二土地区画整理組合の発足は昭和2年(1927年)、和田堀町第一土地区画整理組合は同5年、その間に入る「昭和3年第三回修正」によって、区画整理のビフォー&アフターが切り取られたかたちです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  現行の神田川をブルーで、本郷通りと中野通りをグレーで重ねています。

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    ・ 区整碑  昭和18年の日付のある和田堀町第一土地区画整理の記念碑は、地下鉄中野富士見町駅前にあります。背景の橋は富士見橋で、杉並と中野の区境に架かっています。 

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    ・ 本郷通り  富士見橋から東に向かってのショットです。本郷通りは和田堀町第一、第二と事業が進展するにつれ、西側に延長され、今は環七通りにまで達しています。 

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    ・ 神田川  富士見橋から下流方向です。改修以前はより左手に膨れており、上掲「地形図」の町境はもとより、現在の区境にもその名残をとどめています。

本郷村境

2018-02-03 06:51:25 | 神田川4

 善福寺川との合流後、神田川は右岸段丘といったん接し、多田たんぼを灌漑していた右岸の用水は、ここで流路を失い本流に戻ります。その後、左カーブで段丘から離れますが、そこに改めて堰が設けられ、本郷田圃を灌漑する用水が分岐されます。この用水は段丘沿いに東に向かい、現山手通りを越えたところで本流に余水を落としていました。このように用水が不連続となるところに村境が設けられる例は、これまでもたびたび見てきたところですが、ここも例外ではなく、新たに分岐した右岸流が、おおむね雑色、本郷の村境を画していました。→ 「雑色村絵図」にある通りです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 神田川5」(1/18000)  オレンジ線は区境で、中央にあって大半を占めるのが中野区、そこから時計回りに新宿区、渋谷区、そして西側は杉並区です。 

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    ・ 神田川  奥に見えるのは富士見橋で、右手は地下鉄中野富士見町駅です。この付近に堰が設けられ、駅の裏に迫る→ 右岸段丘に沿っていました。 

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    ・ 右岸段丘  中野通り手前の右岸段丘で、このあたりから段丘下の田圃は本郷村、段丘上は雑色村に属していました。全体が本郷村となるのは中野新橋先です。

 <本郷堰>  以下は「中野区の史跡(中野の文化財)」(1994年 中野区歴史民俗資料館)の引用です。「地下鉄丸の内線の富士見町駅を降ります。右脇の佼成病院前は、もとは木々が生いしげり崖のすそを神田川が淵をつくり、修行者が身を清める場所になっていました。ここに村人が川岸の芦で草堰をかけ、本郷水田への水をとりました。この本郷堰から本郷用水は本町一丁目で本流に入るまで、台地に沿って、春から秋にかけて美しい小川になっていました。江戸時代いらいのこの堰も農地の宅地化につれて大正ごろから消えました。」 明治17年(1884年)に行われた「田用水に関する調査」に「雑色村ニ本郷村ノ堰壹ヶ所アリ」と書かれているもので、堰自体は雑色村に属していたようです。

 


善福寺川合流

2018-02-02 07:05:19 | 神田川4

 神田川と善福寺川の合流地点が現在のようになったのは、昭和初期から段階的に行われた区画整理事業によってでした。昭和2年(1927年)に発足した中野町第二土地区画整理組合によって、淀橋から杉並区との境までの改修が先行、それを引き継ぐ形で、和田堀町第一土地区画整理組合が区境から善福寺川の駒ヶ坂橋までを改修しました。現在の和田1丁目に相当するエリアです。同組合は昭和5年の発足で、事業は同17年までかかりますが、その成果の大半は「昭和12年第四回修正」に反映されています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野 」 → 「明治42年測図」と同一縮尺、同一個所なので、土地区画整理事業の進展を時系列で追うことができます。

 次いで、昭和16年に相次いで発足した中野土地区画整理組合、和田堀町第二土地区画整理組合によって、合流地点以降の神田川と駒ヶ坂橋以降の善福寺川の改修がなされ、現行のようになりましたが、うち中野土地区画整理組合の事業の途中経過は、前回UPの→ 「昭和22年空中写真」で見ることができます。多田田圃と呼ばれる水田地帯の中央を流れていた神田川を左岸段丘沿いに付替えたため、合流地点は100mほど上流に移転しました。段丘沿いに元々流れていた左岸流を拡幅、本流に転用したようです。

 

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    ・ 合流地点  神田川の流路を本来のものより左岸段丘寄りにしたため、合流地点が100m近く上流にずれました。正面奥の蛇行している付近に、神田川は右手から流れてきたことになります。

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    ・ 神田川  合流後の神田川で、上掲写真の蛇行している付近です。奥に見える橋は和田見橋、架橋当時の左岸杉並区和田本町と右岸中野区富士見町からのネーミングです。 

区画整理

2018-02-01 06:56:23 | 神田川4

 方南通りの開設や前後の神田川の改修、整備は、中野土地区画整理事業の一環として、旧雑色村の西半分に属する神田川、善福寺川流域5万6千余坪を対象に、その宅地造成を図るものでした。区画整理事業組合の結成は昭和16年(1941年)、同年勃発した第二次大戦と引き続く戦後処理のため、当初計画は大幅に遅れましたが、途中、帝都高速度交通営団(現東京地下鉄)による車庫用地買収が追い風となり、昭和35年に全事業の完成に至りました。これまで見てきた橋の設置や中野第一中学校(現南中野中学校)の開校が、昭和30年代前半に集中しているのは、こうした事情によるものです。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  昨日UPの→ 「明治42年測図」と同じ縮尺、同じ位置関係なので、比較してみてください。第二次大戦から戦後の中断期にかけての事業の進捗状況が一目瞭然です。 

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    ・ 神田川  方南通り、栄橋から下流方向です。奥の高層マンション前が左岸段丘の位置です。段丘沿いにあった旧本流は、マンション手前で段丘を離れ、右手の東京メトロ方向に流れていました。 

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    ・ 東京メトロ中野車両基地  方南通りに架かる歩道橋の上からの撮影です。手前が百数十両の留置能力を有する車庫のエリア、正面奥に見える建物が重要部検査、全般検査(車検のようなもの)を行う工場です。

 <区整碑>  以下は中野区画整理事業の完成を記念した→ 区整碑の記述から知れる同事業の概要です。対象は中野区南部富士見町、広町、栄町通二丁目、三丁目、多田町、雑色町、八島町となっていて、旧雑色村の西半分、中野通り以西にあたります。ちなみに、栄町通の名がありますが、方南通りの元となった通りを指し、栄橋の名の由来になったものです。組合の認可は昭和16年8月、第二次大戦の勃発で計画遂行は危ぶまれますが、同19年に帝都高速度交通営団が、すでに着工していた丸ノ内線の車庫用地として、雑色村の米どころ多田田圃1万8千余坪の取得を申し入れ、このことが追い風となりました。

 


方南通り

2018-01-31 06:40:41 | 神田川4

 角田橋の次が睦橋、その次の栄橋で方南通りを越えます。方南通りは都道14号新宿国立線の一部となっていて、山手通りとの清水橋交差点を起点に、西永福駅前で井の頭通りと合流するまでの区間で、井の頭通り以西は人見街道、東八道路へと連絡します。昭和の初めに幅員15mで計画され、10年代には東側から一部着工されましたが、第二次大戦と戦後の中断を挟んで、完成したのは昭和30年代になってからで、ちなみに、栄橋の欄干には「昭和三十年八月完成」とあります。雑色村を縦断する古道(大宮横町道)がベースになっていて、古道が神田川を越えるために、多田神社、角田橋と迂回しているところをショートカット、あとは大宮八幡前に至る道と重なります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  現行の神田、善福寺両河川、および方南通りを重ねています。また、グレーの区画は東京メトロ中野車両基地の範囲です。

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    ・  神田川  睦橋から栄橋方向のショットです。改修以前の本流は50mほど左手の、現在はホームセンターが建っているところを流れ、前々回の左岸流とも方南通りで合流していました。 

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    ・ 方南通り  正面は特別支援学校前歩道橋、その奥は中野車両基地です。右岸の用水は多田神社、宝福寺下から北上、歩道橋先で方南通りを斜めに横切り、車両基地方向に流れていました。

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    ・ 方南通り  正面の公務員宿舎用地は、再開発中でフェンスに囲まれているため、数年前の写真です。二棟の建物間に段差があり、その際を左岸流と合流後の本流が流れていました。

向田橋、角田橋

2018-01-30 06:25:05 | 神田川4

 → 「雑色村絵図」で神田川本流に架かる橋は二本で、(下流から現在名で)向田(むこうだ)橋、角田(つのだ)橋です。この名前はすでに「東京府志料」の橋梁リストに見え、「板橋三 雑色村ニアリ一ハ向田橋長三間幅五尺一ハ角田橋長三間二尺幅一間・・・・」となっています。なお、向田は中野村(のち中野町)大字雑色の小字で、橋の西側の水田地帯を指していました。多田神社のある本村から見て、向かいにある田圃という、そのままの意と思われます。一方、角田橋の由来は不明ですが、あるいは水田の形状と関係するのかもしれません。

 

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    ・ 神田川  向田橋からのショットで、ここから善福寺川との合流地点手前まで、700m弱が直線的に改修されています。上、中流域では最長の直線区間です。  

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    ・ 神田橋  向田橋の次にかかるのが神田橋です。方南通りに至る400m弱の幅広道路が開通し、それに伴い昭和35年(1960年)に創架されました。 

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    ・ 神田川  神田橋の次の角田橋からのショットです。睦橋を挟んでその先は方南通りになります。右岸からの角田橋の写真は→ こちらでどうぞ。 

 <八島橋、峯下橋>  「豊多摩郡誌」では角田橋を通る道を大宮横町道とし、「淀橋町甲州街道筋大宮横町より分岐し、本町大字雑色を經て和田堀内町にて井の頭道に合す」と書いています。どうやら、甲州街道と山手通りの交差点付近が起点のようですが、いずれにしても多田神社と大宮八幡を結ぶ、雑色村にとっては最重要な古道でした。その大宮横町道に架かる橋として、「同誌」は角田橋の他に八島橋、峯下橋を記載しています。「雑色村絵図」で角田橋の前後の用水路に架かるのがそれで、右岸流に架かるのが八島橋、左岸流に架かるのが峯下橋でした。八島、峯下とも大字雑色当時の小字で、「新編武蔵風土記稿」に収録された雑色村の小名矢島、峯下を引き継いでいます。

 


雑色左岸

2018-01-29 06:40:22 | 神田川4

  神田川と杉並、中野の区境がクロスするところまで戻り、今度は左岸に分岐していた田用水の流路を追います。こちらも一部区境と重なりますが、50mほどで離れます。さらに50mほどでマンションの敷地に突き当たり、以降の水路の痕跡は失われます。右岸と同じく、昭和30年代の宅地造成によるもので、今となっては古い地図を頼りに、段丘沿いの流路を想像するしかありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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     「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 左岸段丘が後退する付近で分岐していましたが、 その直後の痕跡は失われました。  

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    2. この段丘下の路地が水路跡と重なり、かつ左手杉並、右手中野の区境です。

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    3. 中野みなみ保育園の手前で区境は左手に折れ、これからは両岸とも中野区です。

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    4. 右折すると向田橋に出る通りです。その先のマンション敷地で痕跡は失われますが、その→ 段丘際にあったはずです。

雑色右岸3

2018-01-27 06:36:13 | 神田川4

 田用水と区境が分かれた地点まで戻り、改めて右岸の用水を追います。すぐに左カーブで北に向きを転じ、向田橋を通る道路、神田橋を通る道路と相次いで越え、200mほどで南中野中学校に突き当たります。昭和30年(1955年)に中野第一中学校として開校、その拡張、整備のため田圃は埋め立てられ、また同時期の宅地造成によって、同校以北の用水の痕跡は失われました。ただ、古い地図との対比から、多田神社のある右岸段丘に沿う流路を想像することができるだけです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 中野、杉並の区境から離れ、すぐに左カーブで北に向きを転じます。 

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    2. 左折すると向田橋に出る通りを越えます。→ 「村絵図」にも描かれた古道です。

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    3. 神田橋を通る道を越えます。昭和30年代中ごろに開設された幅広の通りです。 

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    4. 南中野中学校に突き当たります。これ以降、水路跡と重なる道路は現存しません。

雑色右岸2

2018-01-26 06:50:12 | 神田川4

 たつみ橋下流で右岸に分岐した用水を追っての二回目です。分岐点から200mほどで左カーブ、北に向きを転じますが、その手前に右手からの合流があります。起点は250mほど先にあり、その間はこの水路が区境と一致します。かって水路に合わせて村境を確定し、それが今日まで引き継がれたのでしょう。現行の住居表示の境が道路と重ならない場合、水路を基準にしていることがよくありますが、細かな蛇行からもそれと推測できるところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図や空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左カーブの手前で区境は右手に折れますが、そこにに車止めが顔をのぞかせています。 

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    2. 昭和30年代を思わせる開渠が続いているようです。ただ、住宅の間に挟まれていて通り抜けはできません。

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    3. 境界を流れる本線とは別の水路跡です。 

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    4. 区境に戻ります。といっても、立ち入りはままならず、ここからは大分前の写真なので、現在はどうなっているか不明です。

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    5. たどれるのはここまでですが、一つ南の道路までさかのぼっている地図もあります。

雑色右岸

2018-01-25 06:08:46 | 神田川4

 和田村(字方南)と雑色村の境にあって、右岸に分岐していた用水がありました。昭和30年代中ごろの本流の改修と同時期に埋め立てられ、道路となって現在に至っているため、迷うことなくたどることができます。ただ、途中で村境(現在は杉並、中野の区境)と離れ、北上しますが、南中野中学校の敷地に突き当立って以降の流路は失われ、重なる道路も残されていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図や空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。 

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    1. たつみ橋の下流で右岸に分岐する道路から始めます。すぐに右手から合流があります。

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    2. 左カーブで東に向かうこの道路が、現在、左手中野区と右手杉並区の境になっています。 

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    3. ここで右手から合流する道路も、方南田圃を灌漑してきた用水跡です。

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    4. 次に合流する道路も「下水道台帳」に「水路敷」と書き込まれています。

雑色村用水

2018-01-24 06:40:18 | 神田川4

 雑色村の水利に関する「新編武蔵風土記稿」の記述です。「井ノ頭上水 水元は吉祥寺村の内井ノ頭池より出、西の方和田村より当村にいり、村の西北を流るゝこと十四五町にして、末は本郷村へ至る、又善福寺池より流出る一条の水あり、和田村さかひにておち合、此水を和泉村境にて引分、村内所々の水田に沃く」 最後の「此水を和泉村境にて引分」は、和泉村と境を接していない以上疑問で、ここでは「和田村境にて引分」の誤りと考えておきます。

 

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    ・ 「雑色村絵図」  中野区立歴史民俗資料館の「常設展示図録」(平成元年)に収録されている「雑色村絵図」(「堀江家文書」 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとにイラスト化しました。例によって田用水と村境を強調しています。

 「東京市史稿 市街篇 第68」に、明治17年(1884年)に行われた「田用水に関する調査」の結果が収録されています。その中に、東多摩郡に属していた各村が神田川に設けていた堰に関して、「久我山村草堰二ヶ所 上高井戸村四ヶ所 下高井戸村ニヶ所 和泉村二ヶ所 和田村二ヶ所 雑色村ニ本郷村ノ堰壹ヶ所アリ。外ニ二ヶ所 本郷村ニ中野村ノ堰壹ヶ所アリ」と、その個数が列挙されています。このうち、雑色村にあるとされる本郷村の堰は、上掲「村絵図」の右上で、右岸に分岐し本郷村との境を画しているもので、本郷堰と呼ばれています。「外ニ二ヶ所」は和田村(字方南)との境に設けられ下掲写真の二ヶ所と思われます。

 

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    ・ 神田川  たつみ橋からのショットです。本流は左カーブしますが、そのまま右岸に分岐する用水があり、その跡と重なる道路は杉並、中野の区境となっています。

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    ・ 神田川  その左カーブからのショットです。左岸段丘が後退するのに合わせて、左岸に用水を分岐していました。こちらも最初は杉並、中野の区境と重なります。

雑色村

2018-01-23 06:46:39 | 神田川4

 「雑色村は、郡の東方豊島郡の界にあり、郷庄の唱を失ふ、開闢の年代は詳ならざれど、村民武助が家に、天正十九年辛卯九月五日と書せる水帳あり、武州多東郡大宮之内雑色村とあり、是御入国の前開けしことしらる、・・・・村の広さ東西十一町南北九町、東より北へは本郷村をめぐらし、西は和田村にとなり、南は多摩郡幡ヶ谷村に及ぶ、村内平地にして少しく高き所もあり、土性はすべて野土なり、江戸日本橋より行程二里半余、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は中野町当時の町、大字境です。 

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    ・ 多田神社  雑色村の鎮守多田神社は、別当だった宝福寺と並んで、神田川を右岸から望む段丘斜面にあります。上掲「近傍図」にも神社記号が描かれていますが、右岸の田用水がその裾を巡っていました。

 「多田権現稲荷合社 除地、二千三百三十二坪、外に稲荷除地九十六坪、村の中程にて平地より八九尺許高き所にあり、石段十五級を設く、わずかなる社にて二間に三間の拝殿あり、南向、前に木の鳥居をたつ、鎮座の年代詳ならず、例祭九月廿六日」 「新編武蔵風土記稿」では「鎮座の年代詳ならず」としていますが、境内に掲げられた中野区教育委員会の解説プレートには、「当社は約九百年前、寛治6年(1092年)、源義家が大宮八幡に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまる」との伝承が記述されています。一方、「武蔵名勝図会」(文政6年 1823年)には「永禄年中摂州の住人多田和泉守が子孫多田某この地に住居して、祖神なるゆえ多田権現を勧請すと。その子孫天正年中に退去しける由」と、別個の伝承が収録されています。

 

 <地名由来>  雑色(ぞうしき)は律令制下の一身分です。時代によって変遷しますが、大雑把に言うと、雑役に従事する下級の役人、使用人といったところで、雑司ヶ谷の雑司とも相通ずる言葉です。そこから転じて、雑色の人々に与えた給付地をも雑色と呼ぶようになりました。多田神社の創建伝承や、「新編武蔵風土記稿」に収録された「武州多東郡大宮之内雑色村」との文言、あるいは、多田神社前を通り雑色村を横断する古道が、直近で大宮八幡へと至ることなど、当地と大宮八幡宮とのつながりの深さから、その造営のために働いた人たちの居住地、ないし給付地ではないかと推測されています。